寺子屋塾

そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その1)

お問い合わせはこちら

そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その1)

そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その1)

2023/09/13

一昨日投稿した記事で、

ウィトゲンシュタインの哲学が〝わかる〟と

何が変わる? と問いかけました。

 

でも、この問い自体が前提としている

〝わかる〟とはそもそもどういうことなのかを

まずはっきりさせておく必要があるでしょう。

 

以前、このblogで佐伯胖さんの著書

『「わかる」ということの意味』を

紹介したことがあります。

佐伯胖『「わかる」ということの意味』

 

その記事の骨子をここにも改めて書いておくと、

「わかる」ということの意味を改めて問うことで

浮き彫りになるのは、

いまある教育のしくみが

ほんとうに学習者を主体に

つくられているのかどうか、

教える側の人間に、『教える』ことへの

過信がありはしないかという疑問です。

 

なぜなら、そもそも、

学習者にとって、何かが「わかる」ということは、

まわりにいる教える人間が、

分からせようとはたらきかけることによって

人為的に達せられるものではなくて、

主体者である学ぼうとする者たちが、

他者と関わる中から、

自発的に生まれるものであるはずだと。

 

「わかる」というのは、「理解する」ということと

ほぼ同じと考えていいとおもうんですが、

結局のところその理解というのは、

外側から与えられるものではなく、

内側から起こってくることだという話を、

書くことと教えない教育の関わりについて、

長々と書き連ねた記事の締めくくりとして

次の記事にも書いたことがありました。

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その24・最終回)

 

この記事では、ちょうどウィトゲンシュタインの

言語ゲームについても触れていましたね。

 

 

さて、では何かが「わかる」というのは、

結局のところ、どういう状態をいうのでしょう?

 

たとえば、何かの事柄をわかろうとしているとして

その事柄の理解度合いを数値化し、

まったくわからない状態を0、

完全にわかっている状態を100とすると、

0か100かの2つのうちの

どちらかだけナンテことはあり得ません。

 

現実にはその両者の間に100通りどころか

無限のグラデーションが存在しているし、

100までのうちのどこまでがわかったら

「わかった」と言って良いのかについても

きまりはないわけですから、

その基準もおそらく人によってバラバラです。

 

でも、自分は100のうち30ぐらいわかったとか、

70ぐらいわかっているとか、

客観的に確かめる術がないから、

たぶん多くの人が

「わかる」とか「わからない」というのを

あまりよく考えずに

使っているのでしょう。

 

だから、何かが「わかる」ということは

単に何かを知っているというだけでなく、

そこに「変わる」ということが

起きているかどうかが大事なんだと。

 

つまりこの話は、ただ知識を詰め込むだけでは、

何かをわかろうとする働きが作動しないので、

100のうち30ぐらいわかっているというように

客観的に確かめる術がないからこそ

そこには、自分は何を知っていて、

何を知らないのかという自覚

必要なんだということも

言っているような気がします。

 

ソクラテスの言う「無知の知」であり、

『論語』でも孔子が同じことを語っていました。

「知る」とはどういうことか(「論語499章1日1章読解」より)

 

旧ブログ「往来物手習い」のこちらの記事でも

紹介したことがあるんですが、

阿部謹也さんの『自分のなかに歴史をよむ』

「解るとはどういうことか」という話が

書かれています。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

上原先生のゼミナールのなかで、もうひとつ学んだ重要なことがあります。先生はいつも学生が報告しますと、「それでいったい何が解ったことになるのですか」と 問うのでした。それで私も、いつも何か本をよんだり考えたりするときに、それでいったい何が解ったことになるのかと自問するくせが身についてしまったのです。そのように自問してみますと、一見解っているように思われることでも、じつは何も解っていないということが身にしみて感じられるのです。

 

「解るということはいったいどういうことか」という点についても、先生があるとき、「解るということはそれによって自分が変わるということでしょう」といわれたことがありました。それも私には大きなことばでした。もちろん、ある商品の値段や内容を知ったからといって、自分が変わることはないでしょう。何かを知ることだけではそうかんたんに人間は変わらないでしょう。しかし、「解る」ということはただ知ること以上に自分の人格にかかわってくる何かなので、そのような「解る」体験をすれば、自分自身が何がしかは変わるはずだとも思えるのです。

 

学生時代から今日にいたるまで、私は「解るとはどういうことか」という問題について考えつづけてきたといってもよいと思うのです。この問題についてひとつの答えが出たのは、もう30代も後半のことでした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここから)

 

阿部さんは大学時代に先生から問いを与えられ、

自分なりに答が出せたのが

30代の終わりだったと書かれていますから、

15年くらい考え続けたということですね。

 

この阿部さんの「わかる」についてのエピソードは、

Hitachiの〝Executive Foresight Online〟で

山口周さんと福岡伸一さんが対談され

2021年3月にリリースされた

つぎの記事でも紹介されていました。
本質は「あいだ」にある

〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜
【第3回】「動的平衡」と「絶対矛盾的自己同一」

 

阿部さんの話が出てくるのは後半部分ですが、

前半部で語られている西田哲学の

「絶対矛盾自己同一」をどう理解したかも

今日書いている記事のテーマに深くかかわりますし、

時間のある方は、この第3回だけでなく、

全5回ある初回の記事から読んでみて下さい。

 

 

・・ということで、だいぶ長くなってしまったので、

この続きはまた明日に!
 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆寺子屋塾に関連するイベントのご案内☆

 9/16(土) 未来デザイン考程セミナー

 9/17(日) 第23回 経営ゲーム塾Bコース
 9/23(土) 『言葉のズレと共感幻想』読書会 #3

 10/15(日) VOP予告編⑤ビデオ上映会
 11/3(金・祝) 寺子屋デイ2023②

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎らくだメソッド無料体験学習(1週間)

 詳細についてはこちらの記事をどうぞ!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。