そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その3)
2023/09/15
昨日投稿した記事の続きです。
以前にこのblogで、
つぶやき考現学として書いた
こんな詞を紹介したことがありました。
・「わかっているけどできない」ってどういうこと?(つぶやき考現学 No.104)
いま、この詞を読み返してみて
おもうことでもあるんですが、
わたしは、「わかる」ということを
それほど重視していないんですね。
詞に書いた「わかっているけれどできないと
おもっている人」というのは、
単に知っているだけのことを
「わかっている」と勘違いしているというか、
「知る」と「わかる」の区別が
できていないと言ってもいいんですが、
そうは言ってみたところで、
そのことに気付くこと自体
とても難しいことなんですね。
つまり、これまで書いてきたように、
自分がどれだけのことを
どのぐらいわかっているのかというのは、
目に見えない領域というか、
あくまで感覚的なものですから、
それを客観的に確認する術がなく、
そのことにこだわったり注力したところで、
得られるメリットはあまりないんじゃないかと。
たとえば、このblog記事にしても、
こうして日々書いているのは、
読む人に何かをわからせようとして
いるわけではありません。
なぜなら、この寺子屋塾では「教えない教育」を
看板にしている理由でもあるんですが、
ほんとうに「わかる」ってことは、
そんなに生半可なことでありませんから、
こうしてわたしが書いている記事を
読むことだけで何かが「わかる」ということは、
ほぼ起こり得ないことではないかと。
だから、押しつけない、強制しない、
命令しない姿勢を大切にしているんですが。
つまり、「教えない」っていうのは、
何もイジワルで言っているわけじゃなくて、
大事なことは、教えられないんですね。
ほんとうに大事なことというのは、
一方的に教えるということだけでは
伝えられないというか。
とくに、教室にやってきている
塾生の皆さんにはいつも話しているんですが、
「わかった」とおもうようなことの多くは
たいてい、おもいちがいや勘違いなので、
むしろ、書かれていることや話していることを
鵜呑みにしたり、簡単にわかったと
おもいこんだりしない姿勢の方が大事だし、
「問い」を持つことの方がずっと大事なんだと。
だから、わからないままでもいいから、
とにかく、やってみることが大事なんだと。
だから、教室でわたしは、
「わたしに対しては、遠慮は必要なく、
わからないことがあったら、
何を聞いてもかまわないですよ」と
口癖のように言っているんですが、
そう言われたところで、
「何をどう質問していいのかわからない」
という人もいるでしょうから、
このblog記事は、
そういうときの素材にしてもらえればという風に
考えている次第です。
「知る」と「わかる」の区別が
できていないと書きましたが、
もうひとつおもうことは、
相手の話したことや本に書かれていることを
自分の辞書で解釈することを
そのままイコール「わかる」ことだと
おもっている人も少なくありません。
もちろん、それだけでわかることもあります。
でも、それはたまたま、なんです。
相手の辞書と自分の辞書にある
言葉の定義がたまたま同じだっただけで
すべてがそうじゃありません。
だから、自分の辞書で〝解釈〟するのではなく、
話している相手、書いている相手の文脈に
自分から跳び込んでいかなければ、
「わかる」ってことは起こり得ないし、
それは、そんなに生半可な
簡単なことじゃないっておもうわけで。
この続きはまた明日に!