内なる学習者の視点 ~為末大の熟達プロセス~
2023/12/10
今日の寺子屋ブログは動画の紹介です。
今年7/13にリリースされた為末大さんの
『熟達論』という著書については、
次の記事の後半で、
為末さん自身がFacebookに投稿された文章を
紹介したことがあったので、
ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
・〈才能〉があるとかないとか、そんなのは嘘だ(吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』より②)
次のYouTube動画は、
この『熟達論』について、
本が出版されて1ヶ月ほど経った
2023.8.10にzoomで配信されたものです。
『熟達論』は、
走る哲学者と称される著者が、
選手を引退して10年が経過した節目に、
100年後になっても
色褪せることのないような
現代の五輪書を目指して執筆された渾身の書。
「こうすれば良い’」
「こうすれば上手く行く」という
すぐ役立つわかりやすいノウハウが
書かれているわけではありませんが、
自分を成長させていきたい人にとっては
本当に参考になることの多い本です。
前半30分の為末さんが講演された部分だけですが、
以下、文字起こしをしてみました。
(引用ここから)
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今回ですね、熟達のお話ということで、私が執筆し、ちょうど1か月ほど前に出版した『熟達論』というのをベースに今日はお話をしていきたいなというふうに思います。『熟達論』というのは、読まれた方もいらっしゃるかもしれないですけれども、いろんなエキスパートの方との対話をしていく中で、また私自身の競技人生の体験をベースとして、人間の学びっていうのは5つの段階に分かれてるんじゃないかというふうに書いているものです。
人間の学びの段階は5つに分かれている
一番最初に「遊」があり、その次に「型」があって、その次に観察の「観」があり、そして中心の「心」があり、最後は「空」になって、そして「遊」に帰っていくという風にして遊びに戻ると。そんな感じの構造で人が学んでいるんじゃないかという風に書いてる本になります。今日はその熟達論についてのお話をということなので、その話をしていきたいと思っているんですが、本に書かれている内容そのまま言葉でなぞってもつまらないかなというふうに思いますので、いま世の中で起きてるいろんな出来事を熟達論的に見るとどういうことなんだろうかってことを、皆さんにお話をしていけたらいいかなと思います。
大谷翔平選手の活躍から、野球を熟達論で考える
まず最初は、大谷選手って日本のプロ野球選手でメジャーリーグで活躍して、今や世界一の野球選手になっていますけれども、この大谷選手がたくさん今ホームランをどんどん量産をしているわけですが、野球の世界でボールが向こうから飛んできてこう打つんですけども、実はこれ、考えていると間に合わないんですね、スピード的に。人間が「飛んできたこの玉どうしよう」っていう風に、視覚で得たデータ情報とかを神経まで上げて、自分で考えて判断して落としてくるスピード———その時には、もうボールがキャッチミットに入っちゃってるということで、実はちゃんと考えて打つと間に合わないっていう風に言われてるんですね。
じゃあ選手たちはどういうふうにやってるんだろうって言うと、以前は「ボールをよく見ろ」っていう風にアドバイスしてましたけど、実は人間のこの周辺視野っていう周りのこの視野っていうのは、早く飛んでくるものとか、そういうものに対してより精度よく反応するってことがわかっていまして、実はボールをよく見るよりも、ボールをこの辺りの空間をぼんやり見た方が、より早く正確に反応できるということがわかってきています。ですので、今はそういう風にアドバイスするかわからないですが、以前の少年野球であれば「ボールをよく見ろ」って言ってたものが、今は「ボールをぼんやり見ろ」、または「空間をなんとなく見る」っていう風にアドバイスをしているんじゃないかと思ってます。その方が実は認知的には正しいという感じなんです。
これ、物事を何か見るっていうことが、この熟達論の中の、遊びから入って、型があって、観察のところで説明をしてるんですけど、その中にも少し、物の見方っていうことの説明でこの話をしています。私たちが何かを見るときに、あんまり何も考えずに物事を観察してるわけですけれど、実際には視覚と、聴覚と、それから嗅覚、味覚、感触ですね、触覚ってありますけれども、これ自体は人間の側が5つに分けたものなんですね。トマス・ネーゲルっていう哲学者が『コウモリであるとはどういうことか』っていう本を書かれていますけど、コウモリは超音波を出して、それが跳ね返ってくることにより自分の現在地を知ってるわけですね。周りの空間の中での———これは聞こえるようなんだろうか、見えてるようなんだろうかっていう問いなんですけど、答えは出ないわけですが———でも考えてみると私たちも、周りの環境を把握するっていうことだけなわけですね。私たちのこの五感が発揮してるのは。それをよりクリアに前方方向を確認する時は目だし、もっとぼんやりと360度の場合は耳だし、なんとなく漂うものであれば鼻だし、それらを組み合わせて私たちは外界を把握してるわけですけれど、実際にこれらは、最後は脳で統合されて判断されてるわけですけど、そんなに切り離されてないわけですね。
有名な話でいくと、卓球選手は耳を塞いで聞こえないようにして卓球すると、ちょっと下手くそになるっていう、玉の音が聞こえなくなるからなんですけど。でも、興味深いことに本人は、卓球選手はみんなボールを見るということしか、聞いてるって事はあまり意識してないわけですね。これは実世界に落とし込んでみると、我々は「よく観察しろ」とか「よく見ろ」とか言いますけれど、実際には見ている時に聞いてもいるし、嗅いでもいるし、触ってもいるわけですね。このような身体全体でその情報を得て、その後に私たちは何かを考えているわけで、これがおそらくオンラインで、ミーティングをしたりオンラインで何かやるときで、何か掴み損ねてるものがあるなと感じるのは、おそらくそこをカットしてる部分なんだろうと思います。便利なんでこういう風にオンラインは使いますけども、でも必ず、私たちはリアルに、自分の全身を使って得てる情報よりは、どうしてもそういう時はカットしているって事は理解しておく必要があるんじゃないかと思います。
熟達論の最初の段階「遊」について
さて、この『熟達論』っていうのは、遊びから入って、型に行ってと書いてるんですけど、なんとなく型と観察と心ってこの辺は、もうみなさん、人間が技能を習得していく中でわかるような、最初に基本を手に入れて、それから自分のどうこうできる部分を分解していき、そして中心を掴んでいく。でも、一番最初にこの遊び「遊」を置いているのが私の多分特徴的なところかなと思ってます。でも、これが非常に重要なところだと思うんですね。『熟達論』っていうのを書いていて、何かを熟達していくってことなんですけども、技能を高めていったり、それと同時に自分も高めていくって議論と自分が相互に影響しながら高まっていく、探求されていくことを熟達と定義しているんですが、この熟達というのが、本当にそこを抜けて奥に行けるかどうかっていうところの根源的なところに、熟達に意味を見出しすぎるかどうかっていうところがあるわけですね。これ言葉を言い換えていくと、熟達すると役に立つから、熟達すると意味があるから熟達しようとする人は、それを楽しいから熟達する人にはどうしても勝てないっていうことなんですね。
熟達そのものが面白いと思ってる人と、熟達は役に立つと思ってる人だと、熟達そのものが面白いっていう人の方が卓越しちゃうっていう、こういうことを、スポーツの現場で非常によく見てきました。だいたい熟達が深まっていくっていう人は無邪気な人が多くて、まあ我々の世代だと長嶋茂雄さんとかですね、いろんな方がいます。やっぱり無邪気な人が多いんですね。遊びが何で最初になきゃいけないかっていうと、遊びというのは、まず意味があっては、何かのためにやることは遊びじゃないわけですね。面白いからやる、遊び自体は無意味であるっていうことなんですね。それから完全に計画通りにやるっていうのも遊びじゃなくて、遊びっていうのは、やはりどこか臨機応変さが出てくるし、それぞれの環境によって、その都度変えていく必要があるわけですね。例えば、なんかドッチボールがなんかやって、大体のやることが変わったらこっち側のやり方も変えるみたいに、その都度同時進行で自分を変えていかないと遊びっていうのは成立しないということですね。
もう一つは不規則さですね。遊びっていうのはいつも不規則であって、完全に決められた通りに、計画通りにやることは、さっき話したんですけど、同じ立場、この遊びっていうものが何で最初になきゃいけないかって言うと、結局これが最後まで続くモチベーションになるわけですね。そしてもう一つ大きいのは、何て言うんでしょう、応援団を生みやすいんですね。スポーツの世界だとインターハイチャンピオンっていう中学チャンピオンとかですね。各カテゴリーと言われるんですけど、それぞれのレベルのチャンピオンをたくさん作る強豪法ってのがあるんですけど、これとは別にオリンピック選手を育てる学校ってのはズレてるんですね。違う学校の方がオリンピック選手を輩出しちゃったりする。これ同じように、ノーベル賞を出す学校ってですね、優秀な学生を出す学校がちょっとズレるっていう事を、この間ノーベル賞を取られた方にお話を聞いた時におっしゃってて、もうこれも興味深いなと思ったんですけど、何が根本的に違うんだろうっていうと、やっぱり何か意味があることをやれていくっていうことと、興味の赴くままでやっていくことは、質的に違うんだろうと思うんですね。意味があることを、それを達成できるしっかりとした方法で教えていくってことは、非常に後から伝えやすいわけですね。「何のためにやるんですか」「そのためにどういう方法が最適ですか」っていうのは、これ後から非常に伝えやすいんですけど、「何の理由もなくただやってしまう」「思わずやってしまう」「こうやったらどうなるんだろう」っていうことに計画から外れてしまうっていう、このいたずら心とか無邪気さとか無目的さみたいなものは、教え方が非常に難しくて、だからこそ最初に遊びがないといけないんだろうというふうに思ってます。こういうものは、実は非常に強いドライブなんですね。
よく皆さんビジネスやられていると、誰かに巻き込まれて仕事することになる時に、誰かを旗を立てて巻き込んでいく人の最初の旗立て方っていうのは、なんか説明くさくないわけですよ。なんか非常にこうやって説明して細かく細かく説明してやっていくんじゃなくて、火星に行こうとかですね、火星に移住しようとか、その背景には膨大なロジックがあるとしても、聞いた瞬間にパッとみんなの頭に何か浮かぶような、だってそっちの方がいいじゃんとそっちの方が面白いじゃんていうことをまあ立ててですね、それは一人を振り回していく人っていうのは、やっぱり何か仕事を生み出していくっていうのに出くわされるんじゃないかと。それで大変な思いをする人もいるでしょうけど、そういうことが私はビジネスにおいてすごく大事なんじゃないかと思ってます。なぜなら、意味があって目的がはっきりして、その意味があって目的がはっきりすると、何が合理的かもしっかり定められるわけです。こういうものは、非常にテクノロジーは得意なんだろうと思うんですけど、人間ただむしろもっと複雑系の中で面白がってやっていくってことをやるのがとても重要なんじゃないかという思ってます。なので、遊びが最初にあると。
熟達論の2番目の段階「型」について
型っていうのは、まあ一番物事の基本を支えてる技術のことだっていう風に説明をしています。ここは非常に多分皆さん分かりやすいでしょう。おそらくグロービスに興味ある方、いま多くいらっしゃってる生徒さん、皆さんいらっしゃると思うんですけど、基本的にフレームワークを覚えたりというのは、この型に当たると思ってます。
型の非常に大きなポイントは、何で型が重要かっていうと、人間は自分が1回覚えたことで使いまわせる時はそれを使い回すっていう癖があって、だから、たとえばガラケーに慣れてる人は、スマホがいくら便利だよって言っても、スマホに慣れるまでの間の苦痛が嫌で、ガラケーで使い回しちゃうってところがあるわけですね。これアナログがデジタル化しにくいのも同じようなことかと思ってるんですが、やっぱり型も1回身についちゃうとそれを使い回したくなるので、最初になるべく良い型を身につけた方がいいよねっていうことを書いてます。
ただ、もう一つ問題なのは、やっぱこの時代っていうのは覚えても、時代が変わるとアンラーンして新しく覚えて、これを繰り返していかないとなかなか時代に合わせてアップデートしていけないと思います。ご存知の方も多いんじゃないかと思うんですけど、柔道が小学生の柔道の全国大会っての廃止をしたんですね。全柔連でしたかね。これどういう理由から廃止したかっていうと、あんまり小さいうちから加熱しちゃいけないんだっていうことが理由の一つではあるんですけど、もう一つは、実は日本の柔道が弱くなるからっていう理由なんですね。どういうことかっていうと、小学生ぐらいの時に対戦すると、お互い技術がそこまで高くないので、力でねじ伏せる戦い方が非常に効きやすいそうなんですね。なんかなんとなく力でぎゅーっとねじ伏せて倒すとか、寝技に行くとか、そういうことが効きやすいので、技術を覚えてるよりも、力をつけに行った方が勝ちやすいと。
で、そういう戦い方がより有利になっていくそうなんですね。それはそれで小学生の時代の最適化なんだろうと思うんですが、これが中学、高校になってきて大学生ぐらいまで来ると、みんな当然長く続けていくと技術を覚えていって、技術を持つ者同士の戦いになるわけです。そうしたら、力でねじ伏せようと思っても簡単にいかないわけですね。技術力もある。そうすると、技術がある上での力になるんですけど、ところが小学生時代に力でねじ伏せるようなやり方を覚えて、それが型となって身体に身についてる人は、技術的なものをアップデートする時に、うまく最適応ができなくて、結果日本の柔道が弱くなってるんじゃないかってことが、この全国大会の廃止にあったそうなんですね。なので、この1回身についた型っていうのを、時代が変わると書き換えるんだけど、普遍の型ももちろんその中でありますからそれもちゃんと残しつつ、余計な型、文化的なものとか企業文化とかそうかもしれないですけど、そこは書き換えていくっていう線引きをする上でも、型ってのは非常に重要かなと思っています。
熟達論の3番目の段階「観」について
観察の観っていうのは、先ほどお話した通り、物事を見て分析をしていくんだっていうこと、分けて分析するんだってことなんですけども、私が何か物を観察する時とか、人を見るときに、どこに着目してるのかっていうのは、とっても重要なんだと思うんですね。みんながもし同じ視点を見るんだったら、実は結果っていうのは同じ結果しか出てこない、同じ結論しか出てこないんですけども、人によって違う着眼点を持つからいいわけで、さらには何か鋭い人っていうのは、やっぱり人とは違うところを見てるんだと思うんですね。
素晴らしいコーチの方たちに話を聞いて、面白い結論が出てくるっていうことがあって、どんだけ頭がいいんだろうっていうふうに思って話すんですけど、話した結果、もちろんいろんなことを知ってらっしゃるんですけど、それよりは、見るポイントが違うんだなってのすごい思いまして、エキスパートになればなるほど見るポイントが違っていくわけですね。違うっていうのはどういうことかって言うと、ピントのすごい狭く入っていくところと、すごいぼんやり見るところがやっぱり大きく違っていて、さっきの話に近くなりますけど、剣道なんかの熟達者を見ていくと、最初のうちは相手の剣先とか足を見るんだけど、そのうちにこの辺を見るようになってきて、最後は全体ぼんやり見てると。一方でものすごくどこかの瞬間を集中してみたりもしているっていうのが大きなポイントかなと思います。
で、もう一つ実はこの観の中で落とし穴があると思っていて、それは、観の世界に入ってきた人が、今まではなんとなくやってることが、理屈上で考えたりとか、改めて観察して分析し始める時に、スポーツにおけると、下手くそになる現象っていうのは出てくるんですね。まあ私、多分皆さんもわかりやすいのは、卒業式の時にですね。普段なら平気で歩けてるのに、卒業式でみんなが見る前で歩くと急に歩けなくなる。右手と右足一緒になっちゃう、あれと同じことですね。だから、なんか過剰に意識を向けるということにおいて、人がうまくいかなくなってしまったり、または、観で、こういう風に観察するんだっていうものの見方とかフレームワークを自分に当てはめすぎて、それまではもっと漠然とただただ素直に見てたのに、そのような見方で全部捉えてしまうということがあるわけですね。これあのアスリートがちょっとアカデミックな勉強し始めた時にうまくなくなるっていう現象も同じことで、自分がバイオメカニクスとかそれぞれの分野に行くと、その分野の色メガネでしか興味を見られなくなって、それまではもっと競技そのものの全体感を見てたのに、むしろ賢くなってしまったがゆえに、あるフレームワークからしか物事は見えなくなってしまい、そしてだんだん袋小路にはまっていくという現象があるんですね。
だから、そういうものを避けなきゃいけないんだけど、どうやって避けるのって言うと、結局これは体験しかないんだと思うんですね。つまり頭で考えるっていうことじゃなくて、身体で感じるということの、これによってバランスが取れるようになっていくと。じゃあ身体に感じるってどういうことなのって言うと、あれこれ座って考えるだけじゃなくて、実際に動いていろいろやってみるって事で、それは何が支えてるのっていうと結局は「遊」の、自分でいろいろやってみるって事がまず支えているんだろうと思ってます。
熟達論の4番目の段階「心」について
まあそんな感じで考えて、その次が上手くなってくると、心っていうところにやってきて、これは自分の中心を掴むんだっていうことなんですけど、「心に至ってるかどうか、どうやって判断したらいいんですか?」ってことをよくご質問を受けるんですけど、一言で言うと再現性があるかどうかだと思ってます。つまり、どの世界もやっぱり一発ヒットって出るわけですね。1回目にバーンとヒットを出すことは、みんなに出るわけじゃないですけど、まあ出ることもあるわけですけど、2回目に出るって事は、どうやればヒットが出るかっていうことが、理屈としてわかってるので、それが出せるわけ。理屈が分かるってどういうことかって言うと、自分自身の特徴もわかるし、自分が向き合ってる環境、ビジネスで言うとマーケットなんですけど、マーケットとか、スポーツで言えばその競技特性で自分の特徴がわかっていて、どういう風にするに当てるとうまくいくのかっていうことが分かってるから再現できるわけです。当然、環境も少し変わるし、自分も少し変わるんだけど、とはいえ1回中心をつかんでいれば、そのズレもよく分かりながら再度当てることができるっていう意味で、心をつかんだ人は、私は再現ができる人だと、成功が再現し直せる人だっていう風に思ってます。
この心の掴み方ってのはなかなか難しいんですけど、これ私たちの世界でよく「脱力しろ」っていう風に言うんで、「リラックスしろ」って言われたことありますよね。リラックスするなんてもう一番難しいことぐらいで、そんなできないわけですねリラックスなんて人は。なんでかって言うと、立ってる状態の人にリラックスしろって言うと、本当に身体の力を全部抜くと崩れ落ちるわけですね。何も支えるものがなくなる。じゃあ、立った状態でリラックスするってどういうことかって言うと、立つために必要な力は残しつつ、必要ではないところの力を抜くっていう、必要最低限なものと必要ないものの、きれいに分かれてるからこそリラックスができるわけです。リラックスは、力を抜くことじゃなくて、力を抜いていいものと抜いちゃいけないものの境目がわかんないとリラックスできないっていうことで、これ非常に難易度が高いんですけど。でも、心に至ってくると自分の中心がどこかわかるから、力もしっかり抜けるようになっていくと。
私が初めてオリンピックに出たのが2000年のシドニー五輪なんですけど、それはスタートして1台目のハードルを超えて、最後9台目のハードルに行った時に足を引っ掛けてしまって転倒したんですね。当時の私の感じでいくと、オリンピックって観客がその時多くて、9万人ぐらい入る競技場だったんですけど、そこで自分自身が走っていく中で、もう緊張でわけがわからないまま、ハードル跳んでいったら最後9台目にぶつけてしまって転倒したわけです。その後、何で自分は転倒したんだろう。今まで1回も転倒したことなかったんです。ちなみに私の人生でハードルを転んだのは、練習も含めてたった2回で、この最初のオリンピックと、最後の引退レースなんですね。最後のロンドンを目指す日本選手権の予選。それは置いといて、なんで転んだんだろうって考えていくと、ハードルが距離がわからなくなったんですね、最後で。何でわかんなくなったのかっていうと、ハードルとハードルの間って35mありまして、この間の人間私たちは歩数を決めてるんですね。私は13歩っていう歩数で走ってるんですけど。ところが、前から風が2mぐらい吹くと、人間の歩幅は2cmぐらい縮んでしまって、そのまま走っていくと最後に30cmとか、大きくずれるので、跳んでも届かないと、もしくは近づきすぎてぶつかっちゃうってことが起きるわけですね。だから、ハードルにうまく跳び続けられる外側で、外的環境で風が吹いたり雨が降ったり、湿度だったり、いつもと違う状況の中で、だけど、いつもと同じように足が合い続けるっていうのは、一歩ごとにその周りの環境を察知しながら歩幅を伸ばして縮めたりという微調整が行われてるんです。だからこそ足が合うんですけど、この最初のオリンピックの時には、私はそれができませんでした。なぜできなかったかっていうと、型はしっかり覚えてたんですけど、型ってのはこの身体の中に比較的閉じてるもので、つまり、周りを見ないで同じ動きを繰り返せるロボットみたいな状態だったわけですね。型はできてたんです。でも、実際には周りの環境っていうのは、ずっと動いてきてその状況も察知して合わせなきゃいけないんですけど、当時はそれが見えてなくて、こっち側に目がずっと行ってて。その後トレーニングをいろいろ繰り返していって、結局その後世界陸上とメダルを取るんですけど、その時に、要するに周りの状況も風も全部察知しながら、それに合わせて自分自身をうまく微調整していける。これが心が獲得できると周辺環境に対して、自分の中心はぶらさないまま、臨機応変に対応できるということじゃないかというふうに思ってます。
熟達論の5番目の段階「空」について
最後ですね、この遊と空っていうのがこの熟達論で私が一番言いたかった2つなんですけど、最後は空なんですね。空っていうのは、私のゾーン体験を書いていて、非常に夢中になって大きな世界陸上の大会の時に、無意識で走ったらうまくいったっていうものなんです。これって何かって言うと、何がポイントかって言うと、それまでは、自分自身の体をしっかりコントロールしていくっていうことが大前提だったんです。それがうまくなることで、途中で訳が分からなくなったりしないと。緊張で訳がわからなくなったりしないで、ちゃんと自分が自分の身体を統制していくんだと、統合してコントロールしていくんだってことをやろうとしたんですけど、ところが、この世界陸上の時に、そうしようとしていた時に、プツンと自分自身が、なんか消えてしまうまでいかないですけど、身体が先走って行っちゃって、自分が走らせてる自分を身体が追い越していっちゃって、身体が勝手に動いてるのを自分が追随するような感じになったんですね。なんとなくいつもより早く動くことの上を動いてるみたいで、それから周りの音の歓声が小さくなって自分の足音だけ響いてくる。そういう状態の中で、なんか目も良くなったような感じで、ハードルの際がなぜか抜けられる。ギリギリハードルのギリギリ飛ぶんだけど、絶対にこれは当たらないっていう、なぜか確信があるみたいな状態で走れて、終盤の8台目ぐらいで我に帰っちゃったんです。我に帰らなかったら金メダルだったって思うんですけど(笑)、我に帰ったら自分が今世界一だと思ったんで、慌てて意識的な自分がコントロールして歩きながらゴールして銅メダルだったっていうレースなんですね。
こういうゾーンの世界がありますよっていう紹介もそうなんですけど、実はこれに私はどんなメッセージを込めたかっていうと、アナロジーでもあるんですけど、実は人間の身体はとっても賢くて、私たちが無意識でやってることもすごい情報量がある。私たちの身体に入ってる情報っていうのは、ビット数で計算すると数百万ビットぐらい情報が毎秒出てるんですけど、意識に上がっているのは50ビット程度らしいんですね。つまり、ほとんどのことは無意識の世界に行われていて、私たちの意識っていうのは、その無意識で蠢いてるものの中にスポットライトを当てる程度なんだと思ってます。つまり、思考もかなり無意識だってことなんですね。そんな中で動いていくときに、この無意識の世界を、意識があまりにもコントロールしようとしすぎることによって、本当は嫌なんだけど嫌じゃないと思わせようとするとか、または自然にできないのでちょっとそこをしつけようとするとか。ともかく意識とこの無意識のコンフリクトで起きてる問題って非常に多くあると思ってるんです。
私はこの熟達論を書いているときに、いろんなエキスパートの方に話を聞いていまして、いくつか代表的な質問をしてるんですが、そのうちの一つが「勘ってあると思いますか?」「勘は何ですか?」っていう質問しています。これが、それこそ理系の学者の方から、将棋の羽生さんも含めて、ほとんどのエキスパートは勘を否定しないんですね。エキスパートになる前の人の方が勘を否定していて、何をあれですけど・・・比較的レベルと思っていいと思います。競技力とかそういう成績とかです。勘っていうのは自分の当てずっぽのことだから、意識して考えなきゃいけないっていう世界と、エキスパートの世界に入ると、勘が効くんで、ここは勘だと思うと勧に委ねてるわけですね。変に自分の頭を押さえつけないで、私はその話を聞きながら自分の体験を持って、勘というのは私たちの身体が、自分の人生がこの身体を通じて経験してきたあらゆることを、身体の中に無意識に詰まっているものが、私の知らない中で論理的な帰結、論理的に答えを出したもの——これが勘であるというふうに、私は定義をしています。もちろん、あらゆるジャンルも勘が効くわけじゃないんですけど、少なくとも自分が一所懸命実弾を投下した領域においての勘は、私は思考を超えるんじゃないかと思っていて、これが空で非常に伝えたかったうちの一つなんです。
そしてもう一つ、「空」が終わり「遊」に帰るということを話してるんですけど、これは何かって言うと、まあ、あのある意味でジレンマみたいなもんなんですけども、「どうせ死ぬのになんで生きるのか?」とか、「そんなに社会的に成功して、その後死ぬんだけど、あれは何だったのか?」とか、「何のために私たちは生きて働いて、社会に向けて何かをし学んでいくんだろうか?」っていうことなんですね。私も競技人生の終盤に、非常にこの虚しさにとらわれるわけです。虚しさというより悩みです。何で俺は走るんだろうかってことを、とっても考えていたんですけども、その時に、この自分自身の身体を通じて夢中になってやっていくと、その時は、リアリティですね、何かを自分は感触を得てるんだっていう、これこそが人生の意味とか幸せなんじゃないかと。もちろんアウトプットも大事なんだし、これのためにやってはいるんだけど、つまり私は世界一になろうというもう明確なアウトプットのために努力してきたんだけど、引退して何が残ったかっていうと、夢中で自分を探求したっていう感触が残ってたんですね、もうメダルとか正直どうでもよくて、この感触が残っていて、この感触こそが自分の競技人生で得た一番大事なものじゃないかっていう風に思ってるわけです。
そして人生死ぬ時も、私は多分どんなことを達成したかってことを誇っているよりも、何かに夢中になって、それを掘り下げたり、実感があるとかやりがいがあるとか、生き甲斐があるものに対して感触を得ていったその瞬間のことを、私は思い出すんじゃないかなというふうに思ってます。そういう意味も込めて、最後「空」っていうのは、ある種の意味論なんでしょう。何のためにやってるかっていう時に、ただ、今、ここ、自分でできることを一所懸命やるのが大事なんだというのを、なんとなく詰めた思いになります。そしてじゃあぐるっと回ってきて、「さあ、次の遊びを始めよう」というのが、この『熟達論』のぐるぐるぐるぐる回っていくようなことで書いたつもりです。(了)
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2024年