ドビュッシー『ピアノのための12の練習曲』序文(今日の名言・その71)
2024/01/19
ふたこと、みことなど……
この練習曲集には故意に指使いをつけなかった。 次のような理由からである。
人はみな手の形が違うので、 一定の指使いをみなに強制するのは 理屈に合わない。 現代のピアノ奏法では、 これについていくつもの指使いを 重ねて書き込むことによって 解決したと信じてきたが、 いたずらに煩雑になって混乱を招くだけである。
……それでは音楽というものは、 ある説明しがたい現象によって、 指の本数を増やさなければならぬという、 奇怪な手術を受けたかの如き観を 呈するようになる…… モーツアルトのごとき早熟な鍵盤楽器奏者は、 和音の全部の音を弾けないときには、 鼻歌で音を出すことを考えたというが、 それでは問題の解決にはならないし、 そんなことは多分、 熱狂的すぎるモーツアルト研究者の 想像に基づくものでしかないのではなかろうか。
我が古き巨匠達は指使いのことなど 少しも気にかけなかった。 これは、疑いもなく 彼らが同時代の人々の工夫力に 非常な信頼をおいていたからに他ならない。 よって、現代の大家のそれを疑うのは、 心なき仕業といわなければならないだろう。
結論を言えばこうである。 作曲家が指使いを指示しないのは、 演奏者にとってすぐれた練習になるし、 とかくわれわれが 原作者の指使いを無視しがちな 反抗の精神をおさえ、 ”天は自ら助くるものを助く”という 永遠の格言を証明することとなろう。 さあ、自分で指使いを探そう!
Claude Achille Debussy
|
クロード・アシル・ドビュッシーは
1862年に生まれ1918年に亡くなった、
フランスの作曲家で、
この文章は、1915年に作曲された
ドビュッシー最後のピアノ作品とされている
「ピアノのための12の練習曲」の冒頭に
序文として書かれているものです。
この作品だけでなく、彼はピアノ曲の譜面に
指使いをほとんど記入しませんでした。
わたしの場合、公立高校に合格したお祝いに
ピアノを買ってもらった高校1年から
本格的に練習し始めたので、
比較的遅い方の部類に入るでしょう。
自覚的に音楽を聴き始めたのも
その頃のことだったんですが、
自分の小遣いで初めて買ったレコードが、
なぜかドビュッシーのピアノ名曲集でした。
ドビュッシーは作曲者として
ピアニストに対して
指使いを指示しなかったわけですが、
こうしたことは作曲者とピアニストという
関係においてのみ限定的に成立するわけではなく、
先生と生徒という関係において
一般化して考えることは可能だとおもいますし、
この序文に書かれている内容など、
寺子屋塾で日々実践している
〝教えない教育〟のルーツのひとつと
言えるかもしれません。
「ピアノのための12の練習曲」の
YouTube動画を貼り付けておきますので、
聴いてみてください。
Claude Debussy - Etudes (1915)
【最近投稿した「今日の名言」シリーズ】
・為末大「自分を認められるのは自分しかいません」(今日の名言・その69)
・J.クリシュナムルティ「あなたは世界であり、世界はあなたである」(今日の名言・その68)
・森下典子『日日是好日 「お茶」が教えてくれた15の幸せ』より(今日の名言・その67)
・ハンナ・アーレント「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です」(今日の名言・その66)
・TVドラマ鈴木先生「体験は人間性を磨く上での貴重な教材だ。」(今日の名言・その65)
・ベートーヴェン「つねに行為の動機のみを重んじて帰着する結果を想うな」(今日の名言・その64)
・スヌーピー「配られたカードで勝負するしかないのさ」(今日の名言・その63)
・映画『シェルタリング・スカイ』より「満月が昇る姿をあと幾度見るだろう?」(今日の名言・その62)
・映画『マトリックス』より「これは最後のチャンスだ!青い薬を飲むか、赤い薬を飲むか?」(今日の名言・その61)
↑(その60)以前の記事一覧を載せています