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役にたたないことこそ一番いい生き方(梅棹忠夫『わたしの生きがい論』より)

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役にたたないことこそ一番いい生き方(梅棹忠夫『わたしの生きがい論』より)

役にたたないことこそ一番いい生き方(梅棹忠夫『わたしの生きがい論』より)

2024/03/23

昨日投稿した記事では、

『老子道徳経』の第47章を紹介しました。

 

それで今日は、わたしが老子を読んでみようと

おもうようになったきっかけのひとつ、

梅棹忠夫さんの本に出会ったことについて

書いてみようとおもいます。

 

わたしが進学塾の仕事に関わり始める直前、

1985年4月、わたしが25才のとき、

父から奨められて

梅棹さんの『わたしの生きがい論』という本を

読んだことがありました。

 

 

以下は、本書より

1970年に朝日ゼミナールと題された

連続講座で梅棹さんが講演された際、

話された内容をもとにまとめられた

「未来社会と生きがい」と題された原稿から。

 

3回分の講演をまとめたものですから、

文庫本で150ページ近くもある長い文章のため、

全部は紹介できませんから、

以下はそのハイライトです。

 

一つひとつの言葉の意味はもちろんのこと、

全体の話の流れを見失なわない程度に、

わたしの主観で勝手に抜粋しました。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・・・期待ということは


どういうことかともうしますと、


自分たちが何か努力し、


がんばろうとしているときに、


その行為に目的をかんがえるかどうか


ということとつながっているとおもうんです。


目的をたてるかどうか。


目的をたてなけりゃ、


期待も何も意味ないでしょう。


そうすると、人生、生きがいの問題だというのは、


実は人生というものを目的化しているかどうか


ということにもつながっている。


人生に目的なんかあるものですか。


そんなものあるわけがない、


人生というのは「ある」のであって、


目的も何もあったものじゃない。(中略)


企業が発展するためには、


その従業員ひとりひとりの士気を


たかめなければならない。


個々の従業員が「やる気」をおこさなければ、


全体の成績はあがらない。

「やる気」から「生きがい」まではあと一歩です。
従業員個人がその企業において


はたらくことに生きがいをみいだすならば、


企業としては大成功です。


そこで、生きがいの演出がはじまるわけです。


そういうたちのものだということですね、

生きがいというものは。(中略)

 

さきほど、人生の目的化ということを

もうしあげましたけれども、

目的化ということによって


生きがいというものをつくりだせるものなら、


さまざまな目的を


集団的につくりだすことによって、


さまざまな人たちに生きがいを


配給することができるんだということです。


集団なり組織なりが生きがいの大量生産をやって、


その構成員個人に配給するとなると、


その集団なり、組織なりの目的が、


個人の生きがいの目的になる、


あるいはすくなくとも個人の生きがいを


規制するということになる。
そうなると、大義の前には私情はゆるされぬ、


ということになる。それでよろしいか。


わたしは、現代における生きがい論議には、


基本的にこういうおとし穴が


かくされているとみているわけです。
(中略)

 

わたし自身、科学者として

毎日仕事をしておりますけれど、そして、

それに生きがいも感じておりますけれど、

そのとき、いつも横におられるのが

老子先生なんです。

この人が横にビシャッとくっついていますから、

わたしもあんまり無茶苦茶なことに

ならないですんでいるんじゃないかと、

ひそかにかんがえているんです。


老子には「生きがい」のかんがえはないです。

生きがいのそもそもの否定から

出発しているんだとおもいます。

人生の目的化とか、そういうものも全部ないです。

目標があってそれに対して努力するという、

その努力がそもそもない。むしろ、

そういうことは悪だというふうになっている。

有用なこと、役にたつことは、

つまらぬことだということになっている。

何かを達成するというようなことは、

みんなつまらんことなんだ、

というふうになっている。
役にたたないことこそ一番いい生き方なんだ。

役にたつことをいかにして拒否していくか、

ということですね。

 

これは、わたしはたいへんえらい思想だとおもう。

論理的にこれをやぶろうとおもっても、

ちょっと歯がたたないですね。

人類が生んだ最高の知恵といいますか、

二千年も昔に、えらいことをいった人が

あるものだとおもいます。


結果のない人生、目標のない人生、

あるいは達成、アチーブメント、

進歩というようなことのない人生というものを

一つかんがえてみようじゃないか、というわけです。
(中略)

 

「材木」というのは、役に立つ木ということです。

役に立つのが材です。人材という言葉がありますね。

それに対して「あれは役にたたん」というのを、


「散木」というんです。

先ほど企業のことをもうしましたけれども、

企業はやっぱり「材」の世界です。


基本的に、「材」でゆくのか、


「散」でゆくのかという二者択一は、


われわれ自身できめることです。


そういう決定的瞬間が、


やはりだれの一生にでもあるとおもうんです。
(中略)

わたしが期待を持つのは、
むしろ

「創造ばなれ」をしたところなんです。

創造でしたらだいたいいままでもやってきました。

似たようなことです。どうせ、そんなに

たいしたものはでてきやしません。

 

たしかに、創造は若い人のなかからでてきます。

しかし、わたしがもし何かに期待しているとすれば

それは、そんな創造なんていうようなことを

やめてしまった人の生き方なんです。
そういう創造ばなれした人たちが

ずっと出てきている方に、


むしろ期待というか、つながりを感じている。


未来の人間生活につながりを感じているわけです。


 

未来のことはわれわれどうにもわからん。


どうせダメになるという漠然たる予感のもとに、


現在の充実感をもとめている、


ということなんです。
いまいったような意味でも、


だいたい未来はないんです。


未来はないというと、おかしいですけれど、


ロクなことないですよ。


 

人間というのは能力の限界がありますからね。

いろいろな変化、いろいろな発明、

進歩というようなものを、それぞれの個人が、

瞬間的にキャッチして、こなす能力を開発すれば

別ですが、そういう能力は、

現在の個人としての人間にはないんです。

 

しかし、集団としてはものすごいことが

どんどんおこっている。

個人をのりこえた、集団というか、社会、

文明というものはどんどん進歩してゆく。

 

これはやっぱり都合のわるいことなんでね。

そのなかに生きている個人、人間というのは、

いったいどういうことになるのか、

もし、これをふせぐことができなければ、

つまり進歩というものをどこかで

とめることができなければ、われわれはダメになる

———まことに変な話なんですけれども、

簡単にいえば、そういうことになるとおもうのです。

(中略)


なぜ人間は科学をやるのか、


人間にとって科学とは何か。
これは、

わたしはやっぱり「業」だとおもっております。


人間はのろわれた存在で、


科学も人間の「業」みたいなものだから、


やるなといっても、

やらないわけにはいかない。


 

真実をあきらかにし、


論理的に考え、知識を蓄積するというのは、


人間の業なんです。


科学というのは業として出てくるんです。
 

 

壁があるのです。とにかく未来に

壁がみえている、ということです。

社会、文明、人類全体として驀進して、

ものすごい加速度がついていっている。

しかしむこうに、ごつい壁があることがみえている、

ということをわたしはもうしあげたい。


だから、ここでアクセルをふかしちゃいけない。

アクセルから足をはなせ、

そしてブレーキを徐々にふみこめ。

そうでないと壁に激突しますよ。

どうせ激突するんでしょうけれども、

そこへゆくまでに、

何かもうちょっと上手な

激突の仕方があるかもしれない、というふうに

おもうのですけれどもね。

 

梅棹忠夫『わたしの生きがい論』
「未来社会と生きがい」より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)


 

1970年というと、大阪で万国博があった年で、

わたしは小学校5年生だったんですが、

日本が高度成長期のまっただ中にある時期に、

こういうトーンの話をされていたことはもちろん、

その話の背景に、老子や荘子の存在が

あるということを知ってビックリしました。

 

老子には「生きがい」のかんがえはないです。

生きがいのそもそもの否定から

出発しているんだとおもいます。

人生の目的化とか、そういうものも全部ないです。

目標があってそれに対して努力するという、

その努力がそもそもない。むしろ、

そういうことは悪だというふうになっている。

有用なこと、役にたつことは、

つまらぬことだということになっている。

何かを達成するというようなことは、

みんなつまらんことなんだ、

というふうになっている。
役にたたないことこそ一番いい生き方なんだ。

役にたつことをいかにして拒否していくか、

ナンテ、めちゃ衝撃的ですよね〜

 

明日のこのブログでは福永光司さんによる

「老子」の解説文を紹介するつもりなんですが、

福永光司さんによる注解書を

手にするようになったきっかけは、

梅棹さんが「老子、荘子を読むなら、

福永光司さんの注釈書がいい」と

奨めておられたからで、そういう意味で

梅棹忠夫さんにはとても大きな影響を受けました。

 

ただ、進学塾で仕事をしていたときは、

徹底的に〝教える教育〟を実践中で、

学習する中味に意識が向いていましたから、

なぜ梅棹さんがこういう発想ができたのか、

発生学的な視点やフィールドワーカーの発想、

情報に対するセンスや編集術など、

ウメサオワールドの幅広さ、奥深さに

本格的に触れるようになったのは、

寺子屋塾を始めてからだったんですが。

 

梅棹さんについて書いた記事を未読の方は

リンク集としてまとめておきますので、

ご覧になってみてください。

 

この続きはまた明日!

 

【梅棹忠夫さん関連の過去記事】

発生学的視点をどう活かすか

「情報の定量化」ってどういう意味ですか?

情報洪水の時代をどう生きるか(その6)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その4)

 

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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

 こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ

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