「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その5)
2024/04/16
昨日投稿した記事の続きです。
4/12から「自己決定」「自己責任」って言葉の
真意がなぜ伝わりにくいか
をテーマに書き始め、今日で5回目になりました。
本日これから投稿しようとしている記事内容も、
これまで4回投稿してきた内容を踏まえながら
書くことになりそうなので、
未読記事がある方は、
まずはそちらからご覧戴ければ幸いです。
・「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その1)
・「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その2)
・「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その3)
・「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その4)
さて、(その3)の後半で
寺子屋塾生・塩坂くんのブログ記事を紹介し、
(その4)ではそれにコメントしたんですが、
(その3)の記事の後にわたしは、
太郎ちゃんはこの記事に
学習ということの本質、根幹に関わる
とても大事な気づきを書いています。
と書いていたことをおもいだしたんですが、
何せ、テーマが「学習の本質、根幹」ですから、
らくだメソッドの実体験がない方にまで、
それが何であるかが
きちんと届くように書こうとすると、
最低でも20回分くらい
ブログ記事を書かないといけない気がして、
さすがに目がグルグルしてきました。(^^;)
でも、そうなるとこれまで4回書いてきた
「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ
伝わりにくいかという
メインテーマからは反れてしまいますし、
それはまた別の機会に譲ることにして、
今日はメインテーマに関係する
過去記事のひとつを
リライトして紹介しようとおもいます。
2023.2.22に投稿した次の記事です。
(つぶやき考現学 No.65)
これは、(その2)で紹介した
べてるの家&向谷地生良さんの
『安心して絶望できる人生』を読んだときの感想や
気づきをもとに書いたつぶやき考現学でした。
(リライト記事の内容はここから)
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自分のやりたいことを
やりたいようにやれることが自由で、
何をどのようにやるかを
自分自身で決めることで
自己決定力は育っていくんだと
考える人は少なくないだろう。
でも、そうおもう人の
ほとんどはおそらく、
アタマの中でそうおもっているだけで
行動に移していないのではないだろうか。
しかも、何も行動していないのに、
あるいは、行動できないことに対して
「自分はなんて不自由なんだろう」
「自分には自己決定力がない」などと
悩んでいるのではないだろうか。
なぜなら、もし自分のモノサシや主観で
「やりたいこと」と「やりたくないこと」に分け
その中のやりたいことだけをやっていけば、
自分のやれる範囲や可能性が広がるどころか
どんどん狭くなっていってしまうことは、
やってみれば誰にもすぐわかることだからだ。
本来、自由とは、
自分が無自覚のうちにつくっている
さまざまな制約や条件づけ、思考の枠を取っ払い、
世界をひろげていくことで
はじめて得られるもののはずだ。
それに、人間にとって生きている瞬間瞬間を
選択の連続だと捉えるなら、
選択に至るまでのさまざまな経緯があったとしても
最終的にその判断と行動を決めているのは
その人自身であることに他ならず、
自分で決めずに生きている人など
この世には1人もいない。
結局、自分のアタマで考える狭い範囲のなかで、
自分がやりたいとおもっていることを
やりたいようにやっているだけでは、
自己決定力は育たないだろうし、
そうした狭い自分の枠をひろげ、
自由の世界へと導いてくれるのは、
自分と異質な〝他者〟の存在にほかならない。
だから、「自分のやりたいことは何か?」なんて
自分ひとりでどんなに考えてもわからないし、
やりたいことを探すのに時間を割くぐらいなら、
やりたい、やりたくないに関わらず、
まわりからのいかなる求めに対してでも
スッと応じられる自分になったほうがいい。
よって、自分のやることを自分で選ばず、
自分ひとりだけで決めないことでこそ、
その人の自己決定力は磨かれ、
自由への道が開かれていくのだ。(2015.7.7)
※井上淳之典のつぶやき考現学 No.65
COMMENT:
よく、自分のやりたいことをやるのが
大事だと言われるんですが、
たしかに、そうした姿勢が
その人の可能性を拓くこともあるでしょう。
でも、もしその「やりたいこと」というものが、
過去に経験した範囲内だけであったり、
その人が頭の中で意識している範囲の
「やりたいこと」であったのなら、
それには大きな疑問が残ります。
現実に、かつての自分に
見えていなかったことが見えるようになったり、
気づかなかったことに気づくことが起こるのは、
他者との関わりがきっかけとなることが
少なくないからです。
人間にとって生きている瞬間瞬間を
選択の連続だと捉え
自分で決めずに生きている人など
この世には1人もいないとするなら、
なぜ、敢えてわたしたちは
「自己決定」とか
「自己決定権」ということを
問題にしようとするのか
考える必要があるのではないかと。
つまり、そもそも自由や自己決定というのは
単独で成立するものではないので、
見えない関係性を意識しながら、
他者との関わりを前提として考えることが
大事なのではないかとおもって
それを詞のかたちで書いてみたんですが、
最後の
「自分のやることを自分で選ばず、
自分ひとりだけで決めないことでこそ、
その人の自己決定力は磨かれ、
自由への道が開かれていく」
という部分は、ちょっとわかりにくいと
感じられるかもしれません。
でも、昨日投稿した
の記事内容をおもいだしてみて下さい。
ヨシタケシンスケさんが
絵本作家になりたいとおもったことが
無かったのにもかかわらず、
結果的に、現在のような超売れっ子の
絵本作家になれたというか、
なってしまったのは何故かを
考えてみてほしいのです。
つまり、それは
彼が自分のやることを
自分だけで決めなかったからであり、
自分がやりたい、やりたくないに関わらず、
「絵本を描きませんか」という
まわりからの提案、要望に対して
スッと応じられるように
自分の技術やセンスを磨く努力を怠ることなく
日々準備を重ねていたからではないかと。
そういうことで、
昨日の記事を書きながら、
まっさきにこのつぶやき考現学のことを
わたしはおもいだしたんですが、
いかがでしょうか?
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(リライト記事はここまで)
【参考記事】
・ヨシタケシンスケ『どうでもいいことの中にその人らしさがにじみ出ている』(今日の名言・その56)
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