寺子屋塾

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その15)

お問い合わせはこちら

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その15)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その15)

2024/04/26

4/12から書き始めた「自己決定」「自己責任」って

言葉の真意がなぜ伝わりにくいか

テーマにした記事も

これで15回目になりました。

 

そろそろ区切りをつけたいとはおもっているものの

なかなかキリがつきませんね。(^^;)

 

今日書こうとしている記事のメインコンテンツは、

これまでの記事を読んでいないと

理解できない内容ではありませんが、

これまで15回にわたって書いてきた内容は

ゆるくつながりをもっているので、

未読記事がある方は、可能な範囲で、

末尾に付けた過去記事リンクを適宜参照下さい。

 

 

さて、(その10)の記事までは

主として「自己決定」というテーマを中心に、

また、(その11)の記事以後は、

主として「責任」というテーマに

スポットを当てながら書いています。

 

(その13)の記事冒頭に、

「決める」ことと「責任」との間には

つながりがあって、これらの言葉は、

まわりとの関係性を浮き彫りにする

トリガーになっていると書きました。

 

そもそも「責任」というものは、

どこから生じてくるものなのか?と問う姿勢が

とても大切とも書いたんですが、

「自己決定」の前に

自分で自由に意志決定できるという

「自由意志」の存在があるんじゃないかと。

 

ここまで冒頭示したテーマで記事を書き続けていて、

この意志と責任の関係を考えようとしたときに

脳裏にふとおもいうかんだ本が、

哲学者・國分功一郎さんの

『中動態の世界 意志と責任の考古学』でした。

 

「自己決定」「自己責任」って

言葉の真意がなぜ伝わりにくいか

という問題を考えるとき、外せない視点は、

その伝わりにくさが、

言葉がもっている構造自体に起因していることです。

 

つまり、「私たちは言葉を通してでしか

ものを考えることができない」というのは、

ごく当たり前の事実ではあるんですが、

この「中動態」という考え方を知ることによって

言語の枠組みは、私たちの思考に対して

容易に束縛しうる存在であることに

自覚的であり続けられるんじゃないかと。

 

ただ、この連投記事は

「中動態」を説明し掘り下げることが

目的ではないので、今日のこの記事では、

本書全体の骨子がわかるように、

まえがきとして冒頭に置かれている

対話のプロローグと、

あとがきの一部を引用するのみに止めます。

 

したがって、以下の記事を読むだけでは

中動態ととはそもそも何であるのか、

その概要を掴んで頂くことも難しいので、

この記事を通じて内容に興味を持たれた方は

ぜひ本書を手に取って読んでみて下さい。

 

ただし、本書は哲学者である國分さんが

書かれていますから、

主調音としては哲学書ですし、

依存症問題にアプローチしている医学書でもあり、

法学の概念や言語学的な話も出てくるという点で

読み解くのは易しくないです。

 

また、本を読むまではちょっとという方のために、

著者の國分さんがレクチャーされている動画や

「中動態」を易しく解説した動画が

YouTubeにはいくつかアップされていますので、

記事のあとにシェアしておきました。

 

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【プロローグ・ ある対話】
―――ちょっと寂しい。それぐらいの人間関係を続けられるのが大切って言ってましたよね。
「そうそう、でも、私たちってそもそも自分がすごく寂しいんだってことも分かってないのね」

 

―――ああ、それはちょっと分かるかもしれないです。
「だから健康な人と出会うと、寂しいって感じちゃう」

 

―――それは「この人は自分とは違う…」って感じるということですか?
「そういうのもあるかもしれないけど、人とのほどよい距離に耐えられない」

 

―――多かれ少なかれ、そういう気持ちは誰にでもあるような気もしますけど。
「でも、私たちの場合、人との安全な距離というのがよく分かってない。だから、たとえば相手から聞かれれば、実家の住所から電話番号、携帯のアドレスも全部教えちゃう」

 

―――自分でうまく相手を選べない、と。
「というか、そもそも人間関係を選んでいいなんて知らないんです」

 

―――ああ。
「ちょっと親しくなると、『全部分かってほしい』ってなる。相手と自分がピッタリ重なりあって、〈2個で一つ〉の関係になろうとしてしまう。自分以外は見ないでほしい。自分以外としゃべってほしくない。そういうふうに思っちゃうわけ」

 

―――その相手に100パーセント依存しようとするというか......。
「だから私が話を聞いて『大変だったね』って言うよね。そうすると次のときにクスリを使ってきたりする。『こんなでも受け入れてくれ?」って彼女たちはそう思ってしまう」

 

―――それは分からないことはないけど、うまく想像ができない感じもあります。いちおう理解できるけれど、目の前で本当にそれをやられたらショックというか、自分はうまく対応できない気がする。 
「そう、援助する人も傷つくんだよね」

 

―――そういう話を聞くと、どうしても「しっかりとした自己を確立することが大切だ」と思ってしまう自分がいるんですが......。
「まあ私たちっていつも、「無責任だ」「甘えるな」「アルコールもクスリも自分の意志でやめられないのか』って言われてるからね」

 

―――そういう言葉についてはどう思いますか?
「アルコール依存症、薬物依存症は本人の意志や、やる気ではどうにもできない病気なんだってことが日本では理解されてないからね」

 

―――そういう言葉を発したくなるという気持ちは正直分かるんですよね。病気だってことは知ってます。でも、やっぱりまずは自分で「絶対にもうやらないぞ」と思うことが出発点じゃないのかって思ってしまう。
「むしろそう思うとダメなのね」

 

―――そうなんですか。
「しっかりとした意志をもって、努力して、『もう二度とクスリはやらないようにする』って思ってるとやめられない」

 

———そこがとても理解が難しいです。アルコールをやめる、クスリをやめるというのは、やはり自分がそれをやめるってことだから、やめようって思わないとダメなんじゃないですか?
「本人がやめたいって気持ちをもつことは大切だけど、たとえば、刑務所なんかの講習会とかに呼ばれるじゃない?クスリで捕まった女性の前で話すんだけど、話が終わった後で、刑務官の女の人が『みなさん、分かりましたか。一生懸命に努力すれば薬やアルコールはやめられます。あなたたちもしっかり努力しなさい』なんてまとめをされて、『ああ、私が一時間話したことは何だったの」とかなる」

 

―――僕の友人でも、「回復とは回復し続けること」って言葉の意味が全然分からなかったという人がいるんですよ。彼は「ずうっと毎日、回復の努力をし続けなければならないなんて大変だなぁ」って思っていたと言う。
「こうやって話していると何となく分かってくるんだけど、しゃべってる言葉が違うのよね」

 

―――と、言いますと?
「いろいろがんばって説明しても、ことごとく、そういう意味じゃないって意味で理解されてしまう」

 

―――ああ、たしかにいまは日本語で話をしているわけだけれど、実はまったく別の意味体系が衝突している、と。僕なんかはその二つの狭間にいるという感じかな。
「そうやって理解しようとしてくれる人は、時間はかかっても分かってくれる。けれども、まったく別の言葉を話していて、理解する気もない人に分かってもらうのは本当に大変なのよね......」

 

―――僕なんかはお話をうかがっていると、むしろふだん見ないようにしている自分が見えてくる感じがしますけどね。だから、別世界の話とは思えない。けれどもそれが別世界の話じゃないと理解するのを妨げる何かがあって、僕のなかにもその何かがまだ作用している気がする。
「やっぱり言葉だと思う」

 

―――そうですね。この相容れない二つの言葉って何なんでしょうね……

 

【本書「あとがき」より】

中動態の存在を知ったのは、たしか大学生の頃であったと思う。本文にも少し書いたけれども、能動態と受動態しか知らなかった私にとって、中動態の存在は衝撃であった。衝撃と同時に、「これは自分が考えたいことととても深いところでつながっている」という感覚を得たことも記憶している。

だが、それは当時の自分にはとうてい手に負えないテーマであった。単なる一文法事項をいったいどのように論ずればよいというのか。その後、大学院に進んでスピノザ哲学を専門的に勉強するようになってからも事態は変わらなかった。

ただ、論文を書きながらスピノザのことを想っていると、いつも中動態について自分の抱いていたイメージが彼の哲学と重なってくるのだった。中動態についてもう少し確かなことが分かればスピノザ哲学はもっと明快になるのに……そういうもどかしさがずっとあった。

スピノザだけではなかった。数多くの哲学、数多くの問題が、何度も私に中動態との縁故のことを告げてきた。その縁故が隠されているために、何かが見えなくなっている。しかし中動態そのものの消息を明らかにできなければ、見えなくなっているのが何なのかも分からない。

私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた。(中略)
熊谷さん、上岡さん、ダルクのメンバーの方々のお話をうかがっていると、今度は自分のなかで次なる課題が心にせり出してくるのを感じた。自分がずっとこだわり続けてきたにもかかわらず手をつけられずにいたあの事件、中動態があるときに失踪したあの事件の調査に、自分は今こそ乗り出さねばならないという気持ちが高まってきたのである。

その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく生きられている様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。

次第に私は義の心を抱きはじめていた。関心を持っているからではない。おもしろそうだからではない。私は中動態を論じなければならない。──そのような気持ちが私を捉えた。(後略)

 

國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

 

“意志と責任を再考する”【中動態の世界】by 國分功一郎

 

哲学対話 PARA SHIF 「中動態」:國分功一郎

 

 

【これまでの投稿記事】

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その1)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その2)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その3)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その4)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その5)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その6)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その7)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その8)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その9)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その10)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その11)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その12)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その13)

「自己決定」「自己責任」って言葉の真意がなぜ伝わりにくいか(その14)

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

 こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆寺子屋塾に関連するイベントのご案内☆

 4/29(月・祝) 未来デザイン考程ワンデイセミナー
 5/3(金・祝) 寺子屋デイ2024①
 5/12(日) 第26回経営ゲーム塾Bコース

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎らくだメソッド無料体験学習(1週間)

 詳細についてはこちらの記事をどうぞ!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。