内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その3)
2024/08/18
昨日投稿した記事の続きで、
「内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと」
をテーマにした記事の3回目です。
この記事を初めてアクセスされた方は、
このテーマを設定する発端となった
(その1)の前に投稿した
順番にご覧ください。
昨日の記事では、
「われ以外の物や事をあてにしないこと」を
紹介しました。
まず、満之さんの文中に次の箇所があります。
自利利他や自愛・愛他について議論する場合に、
一方の論者は自利自愛はよくないが、
利他愛他はすぐれたことだといい、
他方の論者は利他愛他を非難して、
それはつまりは自利自愛から出てくるのであって、
自利自愛が根本であるから
自利自愛が悪ければ利他愛他もよくないという。
こうした水掛け論がなぜ生じるかというと、
そもそも言葉は事物そのものではないので、
同じ「自利」とか「自愛」という言葉も
どこから見て語られているかが異なれば、
異なる意味をもつからなんですね〜
つまり、「自利」という言葉が、
その言葉を語った人の「内的観点」からなのか、
あるいは、その言葉を語った人以外の
「外的観点」から語られたものなのかで
意味合いが違ってくるはずなんですが、
「自利」という風に言葉に表現された途端に
何を前提に語ったかについては、
抜け落ちてしまうわけです。
ちなみに、このことと関連して、
以前、自分から見た自分と
他者から見た自分の違いをテーマに書いた
つぶやき考現学があったので参考まで!
・〝自分〟を意味する漢字になぜ「我」と「己」があるのか(つぶやき考現学 No.81)
さて、満之さんの文章についての
コメントを続けます。
信じることとあてにすることのちがいについて
語られている箇所がありました。
信じること、あてにすること、この二つに
どのようなちがいがあるというのか。
これには重要なちがいがあるのだ。
それは主観的と客観的の相違である。
われのほうに着眼するのと、
他者のほうに着眼するのとの相違である。
信じるというときには、主観的であり、
われのほうに着眼している。
しかしあてにするというときには、
客観的であり、他者のほうに着眼している。
ここには、主観と客観という哲学用語が
登場しています。
主観は自分中心の見方ですから、
「内的観点」を土台として生まれ、
客観は自分以外の者からの見方ですから、
「外的観点」を土台として生まれることは
理解できるとおもうのですが、
では、この各々が
「主観=内的観点」「客観=外的観点」という風に
イコールで結べるかというと、
微妙なところがあります。
なぜなら、こうして言葉にしている時点で
客観的視点が入り込んでいるので、
100%純粋な主観というものはあり得ず、
同じように、客観と言うときにも
そのように言っている主体の存在を
無視することはできないので、
100%純粋な客観というものもあり得ません。
つまり、主観と客観はあくまで相対的な概念で
容易に入れ替わるものでもあるんですね。
このことについては、
6月に書いた次の記事を参考にしてください。
結局のところ、何が言いたいかというと、
主観と客観を区別しているものについて
敏感になることの大事さとともに、
「主観か?それとも客観か?」という風に
両者を対立的に捉える発想ではなく、
両者が互いに補い合っているという
相補的に捉えることの大事さです。
さて、以上を踏まえて書かれた
最後の2つのパラグラフに
この小論の要所が集約されていましたね。
ところが、つぎのような疑問が出てくる。すなわち、信じるといえば主観的で、われのほうばかりのおもわくであるというけれども、如来を信じるのは客観的であり、他者のほうに眼をつけていうのではないか、また心配を脱却するにはわれ以外のものをあてにしてはならぬというけれども、如来をあてにするのはよいことではないだろうか、と。これは、つまるところ、信じるということがわからない人がいつも出してくる質問である。人が宗教を求めるとき、まず最初に、信仰の客観的対象はなにかとか、阿弥陀仏の実在とかいうことについて説明を求めることが多い。
いうまでもなく、それについての説明はあってもよいのだが、いかに信仰の対象が厳然としてあり、阿弥陀仏の実在が確実であるとしても、これを信じることがなければ、なんの意味もない。また、ついに信じることができてみれば、種々の議論や説明は少しも必要ではない。いわんや、絶対無限や不可思議光の如来などは議論や説明の対象にはなりえないにもかかわらず、それらを客観的に研究したり、あてにしたりするのは、迷える考えである。無限の如来の客観的実在がどうあろうと、その如来の大悲の実現を、われらはけっして自分の信念以外に感じることはできない。われらにとって、信の一念のほかには如来はないのである。われらの信仰を精神主義というのは、まさにここにある。
この文章で満之さんが何を言いたいのか、
ピンとこない方は、
繰り返し繰り返し読んでみてください。
こうした文章を読み解こうとする際に、
「内的観点と外的観点」というモノサシを
持っている人と持っていない人とでは、
おそらく大きく違ってくるんじゃないかと。
宗教心、つまり宗教を信じる心というのは、
自分の外側にある偶像を
崇拝することではなくて—————いやもちろん、
それもひとつの信仰の形態であって
それを否定したいわけではないんですが。
こちらの記事に詳しく書いたとおり、
寺子屋塾での学び方をたとえて、
仏教的な学び方と称したり、
「1日に算数のプリントを2枚やることが
わたしにとってのナムアミダブツなんです」って
言ったりしたこともあったんですが、
日常生活で当たり前にある些細なことを丁寧に扱い、
それに光を当てられることであり、
自分の中の神様に
エネルギーをチャージすることであり、
その神様を
自分を外側から眺められるように
育てることなんだっていうケシーさんのお話と
つながっているように感じたんですが、
いかがでしょうか?
この続きはまた明日!
※冒頭に載せた清沢満之の画像はwikipediaより
【関連記事】
・向谷地生良『どんな種が蒔かれても実る黒土のような場』(今日の名言・その34)
・幽体離脱を起こさせる脳部位がある?!(池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』より)
・〝自分〟を意味する漢字になぜ「我」と「己」があるのか(つぶやき考現学 No.81)
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