寺子屋塾

「統合する」ということ(その22)雲黒斎「〝自我〟は手放せるか?」②

お問い合わせはこちら

「統合する」ということ(その22)雲黒斎「〝自我〟は手放せるか?」②

「統合する」ということ(その22)雲黒斎「〝自我〟は手放せるか?」②

2024/09/27

昨日9/26に投稿した記事の続きで、

「〝統合する〟ということ」をテーマにした記事も

今日で22回目になりました。

 

記事の素材を様々なカテゴリから取り上げていて

各々の記事は単独でも読めますが、

本日分の記事は、昨日投稿した雲黒斎さんの

文字起こし講義録の後半にあたるもので、

これまで投稿してきた21回分で書いた内容を

前提として話を進めることがあります。

 

各々の記事内容が

結果として統合されることから

浮かび上がってくるものこそ、

この連投記事で書こうとしている

メインテーマでもあり、

これまでの投稿で未読記事のある方は、

時間的に可能な範囲でご覧になり

ぜひ内容の統合にチャレンジしてみて下さい。

(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』

(その2)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』②

(その3)安冨歩『合理的な神秘主義』

(その4)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』

(その5)森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』

(その6)学問分野の統合・まとめ

(その7)よしもとばなな『花のベッドでひるねして』

(その8)鈴木清順『陽炎座』

(その9)雲黒斎「フラットランドについて」①

(その10)雲黒斎「フラットランドについて」②

(その11)クリシュナムルティ『既知からの自由』①

(その12)クリシュナムルティ『既知からの自由』②

(その13)吉富昭仁『BLUE DROP』

(その14)時間と空間の関係①

(その15)時間と空間の関係②

(その16)M.C.エッシャーの不思議な世界

(その17)清水幾多郎『論文の書き方』

(その18)細谷功『有と無』

(その19)ジェームズ・ミッチェナーの名言

(その20)エッシャーの自画像から見えてくること

(その21)雲黒斎「〝自我〟は手放せるか?」①

 

 

さて昨日は、雲黒斎さんのYouTube動画ライブ配信

【ゲリラ配信】雑談アワー「自我を手放す!?」

文字起こしして作成した講義録の

前半(31分40秒辺りまで)を紹介しました。

 

今日は昨日の続きで、動画の後半なんですが、

ちょうど話が佳境に入りかけたところで、

「自分がいる」「自分がいない」の話は、

お釈迦さまの悟り、

いわゆる仏教の教えの根幹を成す部分でもあって、

これから紹介する後半部分にて

お話がさまざまに展開されていきますので。

 

 

 2021.6.15

【ゲリラ配信】雑談アワー 「自我を手放す!?」

 

(引用ここから・太字は井上)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

[28分40秒あたりから]・・・で、この実践っていうところに、またトラップ(→罠)があるんですよ。マリーゴールドさんが書いてくれた「行動ってことですか?」って、そうなっちゃうところに、この、いのちの仕掛けたトラップがあるんですよ。むしろ、この何かをやろうっていうこの裏には、わたしがやっているっていう感覚が際立ってしまうから。真実を見抜く実践って、「しないこと」になっていくんです。でも自我は、「すること」によって、様々な情報が得られると思っているので、「しない」ということで何かを経験する、手に入るっていうのが、もう理解できなくなるんです。

 

自我は、そもそも「動き」というプログラムだから、自我には「しない」という言葉の意味がわからないんです。でね、することしかできない自我は、「しない」がわからないんで、じっとし出すんです。笑。「しない」をやり出すんです。笑。だから、「しない」が根本的にできていないんです。笑 うん。だからね、座禅って言っても、「体を動かさず、じっとしていることですか?」って、ほら、動詞になっちゃうのよ。ゼリーゼリさん、「『しない』ってどうするんですか?」ってなっちゃう。だから〜、「しないんだ」って言ってるのにね。笑

 

これが、座禅の世界で言われる只管打坐、ただ座れっていうことになるんです。座れじゃないんです。座れっていうと、座るという行為をしてしまうのが自我だから 、何もしていないという様が、座るという形になっていることを只管打坐、ただ座るになる。身体が動かないでいても、相変わらず精神活動は動きっぱなしなわけです。

 

もし、わたしがその思考を動かしてるんだったら、コントロール権を持ってるから、これから瞑想で止めます、30分、チーン!って終わりなんです。でも、止まらないじゃない? ってことは、ぼくらがこの思考を動かしていないんですよ。勝手にこっちの思惑と関係なく、思考っていうのが訪れているっていう、そのことが瞑想を通じて気づきとして起きてくるんです。んで、この自我でみんなその探究というものになっているので、その延長線上に気づきって起こりづらいんですよ。行為がないところに起こる気づきを待っているのに、行為をしてそこにたどり着こうとするから、求めていることとやっていることが、もうちぐはぐになっちゃってるんです。「黒斎さん!静寂って何ですか? 静寂って何ですか? 静寂って何ですか?」「黙るってことだよ!」ってね、なるじゃん。笑

 

だから、この間の瞑想配信でも誘導しましたけど、瞑想は行為じゃありませんよ、することじゃありませんよ、と。一切の行為を手放した時に訪れる状態ですよってなるわけです。だから、瞑想っていうレシピはね、レシピ、楽譜って言うと、やっぱりそこにね、どうしても行為としての感覚が見えてきちゃうと思うけど、このねー、宗教性のこのレシピ、あの楽譜ってのは、真逆のベクトルで、「しない」ということを指している楽譜なんですよ。

 

あれ、何て言ったかなぁ、実際にあるんですよ。曲名が付いててね、楽譜になんにも音符がついていない楽曲ってあるんですよ。ただただ奏者はピアノの前にこう座って、何も書かれていない楽譜を見て、何もしないで去るっていう、そういうか曲があるんだけど。あ~「4分33秒」それだったかもしれない。あったよね、そうよね。ジョン・ケージ、そうそうそう。それなんですよ。皆さん詳しいな~、ジョン・ケージの「4分33秒」それそれそれ。

 

だから、あのマイクさん「この話に関係あるかわかりませんが、光の性質がいのちだと分かると、闇の側で存在するようになるというお話を先日のお話会でされていましたが、そこのところがよくわかりませんでした。いのち=光と思っていますので。」はい、そうです。だから、いのちってのは、光なんです。だから、現れたり消えたりするんです。どこで? 闇の中で、なんです。闇は元々あるんです。で、元々あるそっちがぼくらの正体なんですよ。音は出たら消えるんです。でも、音がないところには、常に舞台として静寂があるんです。

 

闇を消すことってできないんですよ。闇の中で、それを舞台に、光という性質の動きがある。闇の側は、動きではないんです。その動ける―――いのちの躍動というものを可能にさせる舞台なんです。だから、闇と光は一体です。どっちかだけではないんですよ。だけど、光がなくっても闇は存在するでしょう? というか、光の無さが闇なんですよ。今これ付けてるのは、ライトを、光をつけたり消したり、強めたり弱めたりできるけど、闇をつけたり消したりはできないでしょう?

 

KMさんが書いてくれた通り、静寂が闇、イコールなんですよ。静寂という舞台の上に、音という波があるんです。わかるかな? で、この動きの側の性質っていうのは―――音もそうだよね。これ、音が勝手に生まれるって事ないんですよ。今、これは手と手が合うことによって、これを縁に音という波が発生しているんですよ。音は音として出ることができないんです。この手を打つという縁において音が生まれ、そしてそれは消えるんです。この光と闇の舞台と動きっていうのがセットでいのちなんですよ。DBXさん、「誰が音をたてているんですか?」今これ、アナログ時計があります。これ音、聞こえないよなー。マイクに近づけても。たとえば、この時計も、カチカチカチカチって音出てるんだよ。そこに誰か、いる? 誰が音を立ててるって言わないよね? 縁があれば音が出るんですよ。

 

それを少し詳しく書いたのが、『ラブ、安堵、ピース 老子道徳経』の本なんです。老子の教えってのは、このいのちっていう性質、これを光と闇―――陰陽っていう言い方をしますけれど―――うん。ちょっと雑で申し訳ないけど、これ見たことある? これは「陰陽太極魚図」って言って、ねー、太極魚図って言って、これ、お魚なんだって。陰陽の魚の図って書いて陰陽太極魚図なんだけど、これタオマークとか言ったりする。これがまさにそうなんだけど、この光と闇っていうのはバツって分けることができないという図なんです。光の性質の中にもちょっと闇があるし、闇の性質の中にもちょっと光がある。こういう有機的な形なのは、アールヌーボー的な形になっているのは、回転するからなんですよね。このエネルギーの動きのことを、この曲線で表しているんです。これが回り続けている。それをいのちと言うんですよ。

 

ゆうゆうさんは、何を話しても、ハテナが続きますね。「音は振動ですね、光は速さですね。」そうですね、だから、どちらも動きですね。宗教ではその動きの性質のことを、光っていう言葉で象徴しているんですよ。BBXさん、「存在するのに理由はないってこと?」僕のここにホクロがある理由を説明できますか? このホクロの存在理由って何なんでしょう? うん。「光と自我は同じですか?」 だから―――うーん、どうしても通じないんだなぁ、えーっと、光っていうのは、動き全般のことです。その、動きの、プログラムが動く、その一部が自我なんです。

「もはやハテナすぎて、質問さえ出てこない。」そうかぁ~、わかんないかなぁ、だって、暗闇に火を灯すじゃん。操作で動きがあるのは、光の側じゃん、闇の側に動きはないじゃん。

 

もう一つ言うと、結局つまるところ、わたしって感覚じゃん。寝てる時、わたしがいるって感覚ないじゃん? ってことは、現れたり消えたりしてるじゃん。だから、マイクさん、その話はねぇ、あのこういうところでしちゃ駄目なのよ。ぼくもたかだか十数年だけど、ブログの時代からいろいろな発信してきてるから、どういうことを話すと何が起こるか、大体読めるんですね。なんてことないだろうなって思って話したことが、なんでこんなに揉めるの? ってなっちゃう。で、今日のこの話ですらチャット欄のこの騒ぎ、見てよ。そのぐらい自我っていうプログラムは、自分がいるっていうことを明確にしたいプログラムだから、それを脅かす情報には、ものすごく過反応するんですよ。これ、わかっちゃったらダメなんです。

 

「でも、黒斎さんの話のすべてがつながりました。」ね? そうでしょ? だからぼくは、もう何年も前からあの話をしたかったの。だから、本当に覚悟を持った人だけ聴きに来てね!ってやってる。タダでもいいから見てあげるよとか、たまたま触れましたっていうようなところに載せちゃいけないんですよ、あれは。はい。そういうふうなね、それでも聞きたいっていう、身も蓋もない話がお好きな方には、これからZENサンガに加入いただきまして、クローズドのスペースでお話をさせていただこうかなと、思っておりますんで、はい 。

 

こないだもやりましたが、第12期ZENサンガのナビゲーターとして参加することになりました。で、このZENサンガの第12期ですね。きたる6月23日から申込みを受け付ける予定だそうです。はい。ぼくの方からもご案内させていただきますので、もうちょっとお待ちください。ここから申込みできますよ~みたいなお知らせを、6月23日にする予定でございます、はい。さすがだろ? 宣伝が上手いだろう?笑 入りたくなっちゃうだろう?笑

 

れいこさん、「ZENサンガは定員ありますか?」って、ありません。これはもう確実にありません。ただのオンラインサロンですから、はい。「阿部さんは嫌いじゃないけど、聞く気が起きない。」って、なんで? だから、今日のお話会でも話したけど、今日お話し会で話したことってぼく、阿部さんの前でも話したことないのよ。だから、サンガでするのはちょっと、どうなんやろうって思うところはあるんだけど、まぁせっかくだから話そうかなと思ってますよ。

 

三上の田舎暮らし自然遊びさん、「禅問答の、あれでもないこれでもないについてイラついてましたが、そういう表現しかできないのかって。」そうそうそう。だから、これは前のぼくのアーカイブ動画「既知を用いて未知がわかり得るか(注※その9,その10で文字起こし講義録を投稿)っていうそのテーマの回でもっと詳しく話してますんで、この禅問答が、なぜちぐはぐになっちゃうのかっていう、そのことをお話ししてますので、よろしければアーカイブご覧ください。知っているものを材料に、知らないことに出会えないんですよ。

 

ISEKIさん、「黒斎さんだけの、一回だけのオンライン有料配信するとか、ないんでしょうか?」そういうのがぼく、めんどくさいのよ。やり方わかんないし、そのために勉強するのもめんどくさいしさ。だから、こうやってZENサンガのね、あのシステムを使わせていただけるんだったらやれるなってね、皆さんからも「オンラインサロンやってほしい!」とかって要望あったけど、自分で作るの大変だからさ、元々あるところに籍を置かせていただけるんだったら、皆さんの要望にもちょっと添えるし。

 

まあまあ、そういうことで、今日もなんだかんだで50分が過ぎたね〜うん。とりあえず、自我に握り締められているのであって、わたしが自我を握りしめている訳じゃありません。だから、わたしが自我を握りしめていて、どうやって手放せばいいんだろうって、ここにはまってしまうのは、まんまと自我の罠にはまっている状態で、これは延々続いてしまうということなんです。このトラップを見破ることができるかなんです。なので、自我って何なのかっていう、そのシステムってどうなってるのか、わたしっていうこの感覚は、なぜ上がってくるのか?だとか、今ここに感じている存在感の正体は何なのか?っていうことが、そこからじゃないと、「あ~っ!」てなれないんですよ。

 

BBXさん「自我の役割ってなんやろう?」って、うん。だからこの分離意識を生じさせること、苦しみを味わわせること、様々な重要な役割を担っているんです。いってみれば、摂理に対する抵抗を生み出すのが、自我というプログラムの役割です。「ノンデュアリティは、〝無いがまま〟ということですか?」あるがままに対してね、うまいね。まあ、そういう言い方もあるかもね。ないものはない。でも全部ないってわけじゃない。だから、「現(あらわ)れがある」って言うんだよね、ノンデュアリティっていうのはね。「自我も摂理から生まれたのですよね?」そうですね、 はい。

 

で、なんでって。これがね、今日もこういう話したんだけどさ、よく言われるわけ。「黒斎さん、我々はもともとひとつだったんでしょう? そこではこういう分離もなく、軋轢も対立もなく平和で静寂で、そういうところにいた素晴らしい存在だったのに、なんでわざわざこんな面倒な分離した自我ってものを作り出してさって。なんでこんな苦悩を経験しなきゃならないの?なんで?」って尋ねられるわけ。

 

これは―――今日もちょっと話したんだけど、「いのちが望んだから」なんだよね。でも、これ以上話すとカーってなる人が出てくるから。急にぼくの今日みたいな話を聞いても、わけわかんないから、よろしかったら、最初の方から、ぼくがどういう順番で話をしているのか、知っていただければなぁと。DBXさん「望んでないけどな。」ってそうだよ、DBXさんは望んでないよ。その奥にあるいのちが望んだんだよ。だから、あの映画のマトリックスもそうだよね。皆が幻想を見ている世界を保とうとするのがマトリックスっていうシステムで、そこに感覚を牛耳られたられた人たちは、そのシステムを守るために、本当のことに気付いちゃって、プログラムがおかしいってことで暴れ回るザイオンの方が敵になっちゃうんだよね。

 

「だから、いのちってヤな奴かも」っていうね、これ、シュシュさんでいいのかな?「いのちってヤな奴かも。」そうなんですよ。みんな、「いのちって素晴らしいね〜」っていう、そっちしか見てないだろう? すべては陰陽なんだよ。光の面もあれば闇の面もあるので。それは高次に行ってもそうなんだよ。いいとこだけの世界なんてないんです。

 

だから、仏教のあの大切な教えは、「人生とは、生きることとは、苦である」っていうのが、間違いのない真実であるって説くんですよ。いのちは良くないよ。いのちは良くないから、こっちの世界を作ったんだよ、逃げたくて。笑 イノチはドSじゃないんだよ。ぼくら以上に苦しんでるんだよ。だから、「生きるというこの流れすら超えろー」っていうのが仏教なんだよ―――そうだね、注意されて、何気に話してますよって。やめよ、やめよ。………といったところで、今日も1時間になりました。あの身も蓋もない話にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

 

だから、しんどいことに抵抗すると、もっとしんどくなるんです。生きるって事はしんどいんです。それが当たり前なんです。あってはならないことが起きているのではなく、あって当然の苦悩を今経験してるんです。だから、それを、「そうだよ!苦悩なんだよ!」って認め切るところに救いが生まれるんです。わかんねぇかな~。わたしだけしんどいんじゃないんで、みんなしんどいんだよって。ということで、長引かせてもなんなんで、また次の配信でお会いいたしましょう。今日もお付き合いありがとうございました!せば~

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

本題からはちょっと反れますが、

お話の中でアメリカの作曲家ジョン・ケージの

無音の作品「4分33秒」が

話題にのぼっていましたね。

 

この曲(?)を1952年に初演した

デヴィッド・テュードアの動画が

YouTubeに上がっていたので

シェアしておきますね。

 

John Cage - 4'33" by David Tudor

 

さて、1時間近くの間、

延々とやりとりが続けられていましたが、

皆さんに一所懸命伝えようとされていた

雲黒斎さんの「自分はいない」という話を

どこまで受け取ることができましたか?

 

視聴者の皆さんのなかでも、

伝わっている人と伝わっていない人が

あったようですが、

やりとりを見ていると、

言葉というのは、本当に使い方が難しいものだと

改めて痛感させられますね。

 

「自我」「自分」「わたし」と言い方が

色々あるだけでなく、

その意味するところも、

「主体性」だったり「個別性」だったり、

他者に対しての「自分」という

対の関係を表していたりして色々ですから。

 

言葉はとても便利な道具ですが、

みんながみんな同じ辞書、同じ定義で

言葉を使っているわけではないし、

ひとつの言葉であっても、

多様な意味と多様な文脈をもっているので、

結局のところ、それぞれが自分の辞書、定義で

相手の言葉を解釈しようとするだけであれば、

コミュニケーションはズレるばかりで、

理解になかなか届きません。

 

ですから、相手が何を言おうとしているのか、

きちんと耳を傾ける姿勢が大事なことは

言うまでもありませんが、

いったん各自が前提としている

自分の言葉の辞書、定義を脇に置いて、

相手の文脈に

自分から跳び込んでいく必要があるわけですね。

 

でも、YouTubeライブのような

無料で視聴できる1対多のやりとりで

そうしたコミュニケーションを実現するのは

かなり難しいようにおもいます。

 

 

雲黒斎さんが別の動画で話されているんですが、

この、いわゆる仏教でいうお釈迦さまの悟り、

「自我は存在しない」というときの〝自我〟とは、

「経験我」のことではなく、

「実体我」のことを言っているんですね。

 

この「自分はいない」

「自我は存在しない」って話は、

自分という人間が、個として存在している

感覚があるってことまで

否定しているわけではありません。

 

そうではなくて、

その「自分が存在しているという感覚」の

持ち主としての〝実体〟や〝司令塔〟は、

どこにもないって話なんです。

 

「経験我」っていうのは存在するけど、

「実体我」っていうのは

どこにも存在しないよって。

 

昨日投稿した記事の冒頭でも書いたんですが、

伝わる人と伝わらない人の違いが

どこで生じているかを、ひとことでいうなら、

内的観点(各自の実感や経験に基づくもの)と

外的観点(誰もが客観的に確認可能なもの)を

ごっちゃにしてしまってるところなんですね。

 

でも、この内的観点と外的観点については、

いわゆる名の知れた科学者や哲学者でも、

両者をちゃんと区別できていなかったりするので、

易しくない課題であることはもちろん、

2500年も前に、

「経験我」は存在するけど、

「実体我」はどこにも存在しないと見抜いた

釈迦という人は

スゴいな〜ってことになるんですが。

 

仏教でいうところの「自分がいない」って話は、

過去記事でいくつか掘り下げて書いているので、

タグ「仏教」の記事で未読分のある方はご覧下さい。

 

とくに次の3つの記事が重要です。

苦を終わらせる4つの真実〝四諦〟
人間の精神作用を表した〝五蘊無常無我

五蘊観(五蘊無常無我)の原典テキスト

 

 

この続きはまた明日に!(^^)/

 

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

 こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆寺子屋塾に関連するイベントのご案内☆

 9/29(日) 第27回 経営ゲーム塾B

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

◎らくだメソッド無料体験学習(1週間)

 詳細についてはこちらの記事をどうぞ!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。