『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経(涅槃経)』
2026/05/23
昨日の続きです。
昨日紹介した記事のベストアンサーには、
ブッダ臨終のことばとされている
「自灯明、法灯明」を読み解くポイントが
示されていましたね。
結局、質問者が前提に置いている
考え方そのものに誤解があるし、
そもそも世の中には、仏教の教えを、
近代思想である「個人主義」にも似た
自立独行の精神を説いているように
受け取る傾向があるんだと。
そうした文脈で「自灯明・法灯明」を
解釈してしまうと、
「自分と仏教の教えだけを信頼し、
主体的に生きろ」というような誤解が
生じてしまうわけで。
2500年前に生きていた
お釈迦さまのコトバであるので、
当然のこととして
時代背景や地域性、言語の違いなどを
十分考慮する必要があるでしょう。
昨日の記事で引用されていた
ブッダ臨終の言葉の断片、
自らを島とし、
自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせずにあれ。
この部分だけ読むと、
誤った解釈になりがちだということから、
その続きの部分が紹介されていましたね。
でも、昨日の記事でもやはり
部分を抜き出していることには変わりありません。
それで、今日はその前後を含め
ブッダ臨終のことばを
もう少し多く抜き出してみることにしました。
1月に次のような記事も書いたんですが
・エネルギーの流れを感じ取るように読むこと
意味を自分の辞書で解釈しようとするのでなく、
お釈迦さまが伝えたかったことを
感じ取れるように読んでみてください。
(引用ここから)
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アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに
何を期待するのであるか?
わたくしは内外の隔てなしに
悉(ことごと)く理法を説いた。
完(まった)き人の教えには、
何ものかを弟子に隠すような
教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。
『わたくしは修行者の
なかまを導くであろう』とか、あるいは
『修行僧のなかまはわたしに頼っている』と
このように思う者こそ、
修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。
しかし、向上につとめた人は、
『わたくしは修行者の
なかまを導くであろう』とか、あるいは
『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか
思うことがない。
向上につとめた人は、
修行僧のつどいに関して何を語るであろうか。
アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、
齢をかさね老衰し、
人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。
わが齢は八十となった。
それ故に、この世で自らを島とし、
自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、
他のものをよりどころとせずにあれ。
では、修行僧が自らをたよりとして、
他人をたよりとせず、法を島とし、
法をよりどころとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、
他のものをよりどころとしないでいる
ということは、
どうして起こるのであるか?
アーナンダよ。
ここに修行僧は身体について身体を観じ、
熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
感受について感受を観察し、
熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
心について心を観察し、
熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、
熱心に、よく気をつけて、念じていて、
世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
アーナンダよ。
このようにして、修行僧は自らを島とし、
自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、
他のものをよりどころとしないでいるのである。
※出典『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』(中村元訳・岩波文庫)
第2章 9.旅に病む ベールヴァ村にて より
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(引用ここまで)
上に引用したブッダの
大パリニッバーナ経(涅槃経ともいう)自体、
すべてが釈迦の言葉でできていなくて、
捏造された箇所があると言っている
研究者もいますから、
それを見分けられるリテラシーを培う姿勢も
求められているように感じています。
この続きはまた明日に。

