ブッダ臨終の言葉「自灯明、法灯明」について
2026/05/22
一昨日投稿記事にて
100回続いたドラマ逃げ恥の最終回を
ようやく書き終えたんですが、
まだまだその余韻が残っています。
今日は、金曜だったので15時から21時まで
中村教室にいて
塾生応対していたんですが、
やってきた塾生と話していて
仏教の話題になりました。
それで、久しぶりに仏教をテーマに
記事を書こうとおもいます。
ちなみに、冒頭の薬師如来の写真は、
逃げ恥第2話でみくりと平匡が
ぶどう狩りに行ったときに訪れた
山梨県大善寺のご本尊(国宝)です。
お釈迦さまの悟りについては、
35歳のときに行ったとされる初転法輪
〝四諦〟と〝五蘊無常無我(五蘊観)〟が
柱となる考え方なので、
これまでにこのブログでも
次のような記事を書いてきました。
・苦を終わらせる4つの真実〝四諦〟
・五蘊観(五蘊無常無我)の原典テキスト
・ヴィパッサナー瞑想について(2025年読書ふりかえり・その7)
それで、実はもう一つ、
お釈迦様の悟りについて考える上で
書いておきたいことがありました。
それは、35歳のときの初転法輪と
80歳で亡くなるときとでは、やはり
悟りの深さ、広さが
違うんじゃないかとおもいますし、
臨終の言葉とされている
「自灯明、法灯明」と言われる考え方についてです。
そういうこともあって、
「自灯明、法灯明」については、
いろいろな人の捉え方を参照したのですが、
自分と仏教の教えだけを信頼し、
主体的に生きろというような解釈が少なくなく
80年生きたお釈迦さまの言葉としては、
あまりに薄っぺらいんじゃないかと。
それで、最近、ヤフー知恵袋のやりとりで、
ピンと来る内容のものを発見したので、
Q&Aをそのままシェアすることにしました。
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Q:「自灯明・法灯明」の「自」と「法」について、二つが分離するようなことがあれば、どっちに従えばよいのでしょうか。 自灯明というのが、あらゆる権威、あらゆる常識などに寄らず、自分の心に深く問いながら修行を続けていきなさいという意味ではないのですか。 自と法が、そもそも分離するということはあってはならないことですか。 しかし、この「自」もまた、修行途上の不完全な自己だろうから、そういうこともあるのではないですか。
A:失礼ですが、ご質問の前提に誤解があるようです。 というよりも、質問者さんに限らず、自灯明・法灯明というのは極めて誤解されている言葉なのです。
この言葉をもって世間では、仏教が近代思想である「個人主義」にも似た自立独行の精神を説いているかのように受け取る傾向があり、質問者さんも同様の理解に立っているものと思いますが、パーリ仏典において自灯明・法灯明が説かれている部分をきちんと読めば、実は全くそのような教えではないことがわかります。(知恵袋には経典を確認もしないで回答する不誠実な回答者が多いので気をつけなければなりません。)
もともと、自灯明・法灯明という言葉はブッダの最期の旅を伝える大パリニッバーナ経(阿含経では遊行経)の中で語られた以下の文がもとになっています。
Tasmātihānanda, attadīpā viharatha attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā.
「さてアーナンダよ、自己を洲(灯明)とし、自己を拠り所とし、他のものを拠り所とせず、法を洲(灯明)とし、法を拠り所とし、他のものを拠り所とせず、住しなさい。」
灯明ではなく洲(しま)となっているのは、dīpā という語が、女性名詞では洲を意味し、男性名詞では灯明を意味するという事情によります。
洲と訳しても灯明と訳しても文脈にはまってしまうのがこの文の興味深いところですが、要するに、河の流れの中に浮かぶ洲のように、あるいは暗闇を照らす灯明のように、自己と法を拠り所にせよ、という教えが説かれているので、便宜上「自灯明・法灯明」という言葉をもって要約されているわけです。
この和訳された経文だけを抜き出して読むと、自分と仏教の教えだけを信頼し、主体的に生きろ、というような教えにも解釈できるわけですが、続きを読めばそのようなことを言っているのではないことが分かります。 上の文の続きは以下のようになっています。
「ではアーナンダよ、比丘が、自己を洲とし、自己を帰依処とし、他のものを拠り所とせず、法を洲とし、法を拠り所とし、他のものを拠り所とせず住するとはどういうことでしょうか。アーナンダよ、ここに比丘は、熱心なる正知正念のものとして世における貪欲と憂悩を制し、身に対して、身を随観するものとして住します。 諸々の受に対して受を随観するものとして住します。 心に対して心を随観するものとして住します。 熱心なる正知正念のものとして世における貪欲と憂悩を制し、諸法に対して、法を随観するものとして住します。 アーナンダよ、じつにこのように、比丘は、自己を洲とし、自己を拠り所とし、他のものを拠り所とせず、法を洲とし、法を拠り所とし、他のものを拠り所とせず、住するのです。」
要約すると、身を随観し、受を随観し、心を随観し、法を随観する、そのようにすることがすなわち自己を洲とし、法を洲とするということだと説かれているわけです。
つまり、ここで言われているのは七科三十七道品の一つであり、ヴィパッサナー瞑想の別名で知られる四念処を修習せよというメッセージなのです。
四念処は自身の身体を通して身・受・心を随観することと、自身以外の法の随観を行う瞑想法であり、自己と法というものの観察を通して無常・苦・無我を了知し解脱を目指す教えです。 (ここで言われている「法」はブッダの教えではなく、有為法、すなわち五蘊のことです。仏教でダンマ dhamma と言うときには「教え」「真理」などの意味と、有為法/五蘊の意味がありますから、文脈から読み取らなければなりません。)
つまり自灯明・法灯明とは、自分と教えを頼りに生きろということではなく、自分と法(五蘊)を「対象として」四念処を行えという教えなのです。 論理的に考えても、無我を説いて我執、すなわち自分というものへの執着を捨てろと説くブッダが、自分自身に頼れ、などというはずがないのはわかるはずです。
なお、今ひとつ傍証を上げれば、ブッダがこのように自灯明・法灯明を説いたのは大パリニッバーナ経が始めではなく、長部の転輪王経、相応部のウッカーチェーラー経、チュンダ経等、まだ自身の死の影さえも見えなかった頃にも何度か説いているのです。
そして、どの経典でも定型文のように四念処の解説の前段として自灯明・法灯明を説いているのです。反対に、四念処の解説につなげずに自灯明・法灯明を説いている経典はひとつもありません。 この点からも、自灯明・法灯明がイコール四念処を説いたことだということがご理解いただけると思います。
※出典:Yahoo!知恵袋 2019/10/23 7:33 より

