「わかったつもり」から確かめ直す学びへ 〜落合陽一さんのnoteと寺子屋塾のセルフラーニング〜
2026/11/06
昨日投稿した記事の続きです。
10/29から11/3まで6回にわたって、
落合陽一さんが『マタギドライヴ』について
語られているPIVOTの動画2本を、
文字起こししてご紹介しました。
・落合陽一『マタギドライヴとは』(その1)知能が無料になる世界と、新しい自然
・落合陽一『マタギドライヴとは』(その2)作るから選ぶへ——身体と感覚の復権
・落合陽一『マタギドライヴとは』(その3)問題解決から価値発見へ——探索する生き方
・落合陽一『マタギドライヴとは』(その4)AIで能力を広げ、現実世界で嗅覚を磨く
・落合陽一『マタギドライヴとは』(その5)中年の生き方と、祭りから生まれる意味
・落合陽一『マタギドライヴとは』(その6)土地に根ざし、機械とともに生きる
そして11/4には、そのお話を鏡にしながら、
寺子屋塾の学びとの関わりについて、
わたしなりのコメントを書きました。
・「問い」と「感覚」はどう育っていくのか 〜『マタギドライヴ』と寺子屋塾の学び〜
その落合さんご自身も、同じ動画を
文字起こしして読み返し、発言を検証したり、
視聴者の反応について考えたりした文章を、
noteに3本投稿されていて、
無料公開されている範囲だけでも、
ずいぶん濃密な内容です。
今日は、昨日の記事でお約束したように、
その記事に対してのわたしのコメントを
以下に記しますが、
ブログ記事に書かれている結論だけでなく、
落合さんが自分の言葉を読み返し、
確かめ直している姿勢も含めて、
わたし自身がどう受け止めたかについて
書いてみることにしました。
立ち止まって考えるための文字起こし
2本目の記事で、落合さんは次のように書かれています。
喋った本人が自分の発言を検算できるのは,時間軸の情報が,ランダムアクセスの情報に変わったからである.
ナム・ジュン・パイクさんの話もされていましたが、
ここは、わたしがなぜ1時間ちょっとあれば
視聴できる動画2本を
わざわざ文字起こししてテキスト化し、
6回の記事として投稿し紹介しているのか、
ということにも、深くつながる話でもありました。
動画を見ていると、
その場では「そうか、なるほど」と
納得した気になることがあります。
でも、後から考えると、どの言葉に納得したのか、
どこまではわかったのかが、
案外ハッキリしないこともあるでしょう。
話し手の勢いや表情、聞き手とのやり取りに乗って、
そのまま聞き進めてしまうからかもしれません。
でも、文字になると、一つの言葉で止まれます。
前の発言に戻ったり、
先に書かれた説明と比べたりすることもできます。
話し手の速度で受け取るだけでなく、
自分の速度で考え直せるようになるんですね。
もちろん、動画も止めたり戻したりできますし、
声や間合いから伝わるものもあります。
だから、文字にしたほうが、
すべてわかるという話ではありません。
文字起こしであっても間違いは起こり得るので、
一度聞くだけでは分からなかったり、
気になったりするところは
元の動画に戻って確かめる必要があります。
ただ、行き来できる足場を作っておくことで、
聞いた話を流れ去るままにせず、
自分の問いと結びつけやすくなるのではないかと。
らくだメソッドにおいて、
学習記録表がなぜ存在するのかということにも、
似た働きがあります。
「今日は頑張った」「全然できなかった」という
印象だけでなく、
いつ、どの教材をやって、
どのくらい時間がかかったか
いくつ間違えたかといった、
客観的な事実として見直せるので。
つまり、文字に残しておくのは、
単なる記憶の代わりだけではないんですね。
自分の答えを確かめることと自分を否定することは違う
落合さんは、自分の発言を検算した結果について、
方向はだいたい合っていて,倍率はだいたい盛っていて,一つははっきり間違っていた
と書かれていました。
この、分けて見ているところが大切だと感じます。
自分が言ったのだから全部正しい、と
押し通すのでもなく、
一つ間違っていたから全部ダメだった、と
片づけるのでもありません。
何は妥当で、どこは言いすぎで、
何を訂正する必要があったか、
それぞれを確かめているわけです。
らくだメソッドの学習では、
自分で採点し、間違えたところをやり直します。
ただ、間違いを見つけたときに、
「ああ、また間違えた。自分はダメだ!」と、
自分への評価に結びつけてしまうことがあります。
反対に、間違いを認めたくなくて、
よく確かめないまま
丸をつけてしまうこともあるかもしれません。
でも、そのときに記録するのは、
人の価値ではありません。
問題を読み違えたのか、
計算の途中で符号が変わったのか、
やり方そのものがわかっていなかったのか。
先ほども確認したように、
記録するのは、評価でなく
客観的な事実のみです。
どんなにたくさん間違えても
時間内にできなくても、
そこにはできなかったという事実が
ただあるだけで、
できなかったという事実と
善し悪しの評価を切り離す練習でもあるのです。
もちろん、そう言われたからといって、
すぐに気持ちを切り替えられるとは限りません。
こうした引っかかりも含めて、
自分自身の捉え方を
丁寧に観察していくことが大切で、
だから、毎日学習なのです。
自分で学べる人とは、初めから正解できる人でなく、
自分の答えをいつでも原点に立ち返って、
確かめ直せる人なんですね。
自己採点とは、
単に答が合っていたか間違っていたかを
区別する作業でなく、
自分にバツをつける練習というか、
そのことで一喜一憂しないで、
自分自身への評価と切り離す練習でもあるので。
安心して〝頷かなくてよい〟場をつくる
3本目の記事で、とくに印象に残ったのは、
頷かないところには,その人がどこに立っているかが出る.
という一節でした。
相手が「そうですね」と頷いてくれると、
こちらは伝わったと安心します。
でも、その相槌が「同じ意味で理解しました」
ということなのか、
「聞いています、続けてください」
ということなのかは、わかりません。
指導する立場にある人間にとっては、
ここは少し耳の痛いところですね。笑
学習者がわたしの説明に頷いてくれたときには、
「わかった」と受け取ってしまいたくなるわけで。
でも、実際に取り組んでみると、
別のことを考えていたとわかる場合もあります。
一方で、「そこはよくわかりません」
「自分には違うように感じます」と言われると、
説明が失敗したと感じることもあるでしょう。
ただそれは、これまで見えていなかっただけで、
理解の違いが浮き彫りになった瞬間かもしれません。
どの言葉からわからなくなったのか、
同じ言葉で、別のものを
思い浮かべていなかったか、
納得できない背景には、どんな体験があるのか。
そういうことを聞いていくと、
こちらの説明や理解のほうを、
修正する必要が見えてくることもあります。
山口周さんや先崎彰容さんのお話からも
考えてきたように、
人はそれぞれ、異なる経験や背景の中で
ものを見ています。
だから、同じ言葉を聞いても、
同じ意味で受け取るとは限りません。
対話の目的は、意見を一致させることではなく、
お互いに違っていることを認め合い、
そうした違いがわかったうえで、
なお話し続け、考え続けられることです。
だから、安心して頷かなくてよいし、
わからないままのところを、
わからないと言える……
そういう場をつくることも、
自分で学ぶ姿勢を支える関わりなのではないかと。
便利になるほど安全に間違える場所を残す
3本目には、自動化が進むことで、
かえって手動で立て直す経験が失われる、
という話も出てきていました。
落合さんは、航空などの事例を挙げながら、
自分で取り組む機会を意識して残すことについて、
自分で間違いに出会う場所を作ることである.
と書かれています。
AIに任せることで、速く、整った答えが得られる。
それはありがたいことです。
ただ、できあがったものを受け取るだけでは、
途中でどこを間違えやすいか、
どう確かめればよいかを、
経験しないままになることもあるでしょう。
以前の記事にも書きましたが、
正解の並んだ紙を完成させることだけが目的なら、
できる人に代わりに解いてもらったほうが
早いはずです。
でも、それでは、自分で迷い、間違いに気づき、
やり直してわかる、という体験まで
省かれてしまいます。
だからといって、すべて自力でやるべきだとか、
苦労は多いほどよいと言いたいわけではありません。
わからないまま長時間抱え込めば、
学ぶこと自体が嫌になってしまうこともあります。
必要な説明や道具は使い、
分量も調整したほうがよいでしょう。
そのうえで、どこは自分で試すのか、
どの段階で助けを借りるのかを考える。
実際の仕事で重大な失敗をする前に、
学習の場で、取り返しのつく間違いに出会っておく。
できなかった理由を、
責めることなく確かめられるようにすること。
間違いを罰しないことと、
自分で確かめる機会を奪わないこと、
その両方を大切にしたいのです。
AIに何を任せるかだけでなく、
何を自分でやっておくか、
便利になるほど、こちらの問いも必要になるのでしょう。
AIより先にできなければ学ぶ意味はないのか
最後に、落合さんのお話から受け取ったことを、
わたし自身の立場から、
少し問い返してみたいとおもいます。
2本目の記事には、
人間にもできることを,代替されるより少し早くやり続ける
という言葉がありました。
人間にしかできない能力を探して守るのでなく、
価値を発見し、それが代替されるまでの
時間差の中で行動する、という考え方です。
技術や市場の変化を考えるうえで、
とても大切な視点だと感じます。
ただ、人間が学習することの価値まで、
その時間差だけで測れるわけではないんじゃないかと。
昨日わからなかった問題が、
今日は自分で解けるようになった。
読めなかった文章を、
少しずつ読めるようになった。
焦っている自分に気づいて、
取り組む量を自分で決め直せた。
そうした変化は、AIより速くできなくても、
その人自身にとっては意味のあることです。
もちろん、落合さんが、
そういう学びの意味まで
否定されているわけではありません。
落合さんの学習についての考え方や
これからの時代の教育のあり方については
改めて著書の内容などから紹介するつもりで
準備をしていますが、
わたしはここで、
AIによって短縮される時間的な問題と
人間の暮らしにとっての意味を、
分けて考えておきたいのです。
たぶん、大人の学び直しというテーマも、
誰かより先に早くできるようになることだけが
目的ではないことでしょう。
これまで避けてきたことに触れてみる。
自分はこういう人間だと決めていた見方を、
少しだけ変えてみる。
人の話を、以前とは違う角度から聞けるようになる。
そうしたことにも、学ぶ価値はあるはずです。
AIと競争して勝とうとすることは
ほとんど絶望的なことですが、
そのことと
人間が自分の暮らしへの関わり方を、
自分で確かめ直せるように学ぶこととは
無関係なことです。
落合さんが、自分の話を読み返し、
間違いを訂正し、頷かなかった人の声にも
耳を傾けてられていた姿勢から、
わたしはそんなことも考えました。
わかったつもりになることは、誰にでもありますし、
わたし自身とても、その例外ではありません。
だから、それを一方的に責めるのでなく、
そこから読み返し、問い返し、
試し直せる道筋をつくっておく……
寺子屋塾のセルフラーニングも、
そうした実践のひとつとして、
これからも大切にしていきたいとおもいます。
