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なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか?(その6)

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なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか?(その6)

なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか?(その6)

2023/05/28

5/23よりこのblogでは、

なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか、

「対幻想」という概念を生み出した吉本さんが

なぜ日本人だったのかについて

考察する記事を書いています。

 

未読の方は、まずは次からどうぞ!

なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか?

(その2)

(その3)

(その4)

(その5)

 

また、過去記事のうち、吉本さんの幻想論や

その前提となる「個か?社会か?」に言及している

為末大さんのblog記事「自己責任論と社会責任論」を読んで(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

吉本隆明さんによる3つの幻想領域について

3つの幻想領域の〝次元が違う〟ってどういうことですか?

吉本隆明『人間は自分を圧殺するためにさまざまな負担をつくりだす』(今日の名言・その35)

「対幻想的やりとり」ってどんなコミュニケーション?

などに基本的な話や定義などを書いていますので、

「そもそも〝対幻想〟って何?」って方など、

未読記事がある方はそちらをまず確認戴いてから

以下をお読みになることをお奨めします。

 

さて、昨日の記事で紹介した

『吉本隆明 自著を語る』の最終章

『心的現象論』について引用した箇所のなかで、

わたしが一番の核心だとおもうところを

示すとするなら、

 

個人幻想と共同幻想っていうのは

どこで繋がっていくかということ

 

なんですね。

 

吉本さん、「サカダチ」って冗談めかして

話されていますけど、

この、個人(自己)幻想と共同幻想が

どこで繋がっていくかというのを

具体的に言った言葉が、

「逆立」(ぎゃくりつ)しているってところです。

 

まさに、サカダチしていますね〜

 

つまり、この「個」と「集団」の関係性が

多くの欧米の国々と日本とでは

大きく異なっていて、

たとえば、欧米では、

自分の頭で考え、自分で判断し行動する

「個人」の集まりが「社会」であるというのが

前提となっているので、

「個人の判断」が「社会の判断」と

一致しないことがあったとしても、

それは至極当然と見做すわけです。

 

でも、そもそも明治以前の日本では、

「世間」は存在しても「社会」が存在せず、

「社会」や「個人」という言葉だけ欧米から輸入し

多くの人が使うようになった経緯から、

社会というものがもともとなかったのに、

あたかも自明の理として存在していたと

錯覚を多くの人が起こしてしまうような

ねじれたしくみが生まれてしまったのではないかと。

 

たとえば、企業の不祥事や

芸能人の失態などが起きるたびに、

そうしたときの記者会見では、

謝罪している人自身に全く非がないのに関わらず、

身近な人間の誤ちについて

「世間をお騒がせして申し訳ありません!」

と言いながら頭を下げるという奇妙なシーンが

こんにちでもなお見られたりします。

 

「世間の目を気にする」「世間に申し訳が立たない」

「世間知らず」とはいっても、
「社会の目を気にする」「社会に申し訳が立たない」

「社会知らず」とは言わないわけですが、

いったい誰に対して、何を謝っているのでしょうか。

 

つまり、地域や近隣の知り合いなど、

自分とつながりがある人たちの集まり=世間

つながりの無い人たちの集まり=社会

ってなってしまっているのでしょう。

 

世間に埋没し、同調しようとする

個別意識の希薄な人が少なくないとすると、

そこには「個人」も「社会」も存在せず、

あるのは「世間ばかりなり」であって、

心理学者・岸田秀さんのような人が

「個人幻想が複数集まったのが共同幻想だ」

などと考えるのも、頷ける気がします。

 

このように考えていくと、

出口治明さんの名言で書いた

 新聞・雑誌に書かれていることに対して、
 日本では72%の人が信頼を寄せています。
 しかし英国では、わずか12%にすぎません。

というのも、

なぜこんなにも大きな差があるのか、

分かる気がするのです。

 

まわりの目を気にするというのは、

実は、自分の目だということを

つぶやき考現学で書いたことがあるんですが、

人目って実は自分の目のこと(つぶやき考現学 No.78)

では、なぜそうなのか?と問えば

やはりこれも、世間の為せる技でしょう。

 

阿部謹也さんは、明治維新以後100年経っても、

日本には「世間」というものを

対象化しようとした人がほとんど存在せず、

多くの日本人に意識されている

生活世界が「社会」でなく

「世間」であることを見抜いて、

『世間とは何か』に書き記しました。

 

また、その『世間とは何か』に

夏目漱石が登場していることから、

晩年の講演を収めた「わたしの個人主義」の内容も

ご紹介したんですが、

この個人主義というのは、

そうした土壌でできている日本においては

とても誤解を生みやすい言葉でもあり、

個々人が自由の好き勝手やることのように

勘違いする人が出て来てしまうんですね。

 

漱石の「わたしの個人主義」からblog記事に

引用した部分の後に書かれている文章のうち、

わたしが重要だとおもわれる部分を

3箇所ほど抜き書きしておきます。

 

今までの論旨をかい摘んでみると、第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに附随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならないという事。つまりこの三カ条に帰着するのであります。(中略)

 

それで私は何も英国を手本にするという意味ではないのですけれども、要するに義務心を持っていない自由は本当の自由ではないと考えます。と云うものは、そうしたわがままな自由はけっして社会に存在し得ないからであります。よし存在してもすぐ他から排斥され踏み潰されるにきまっているからです。私はあなたがたが自由にあらん事を切望するものであります。同時にあなたがたが義務というものを納得せられん事を願ってやまないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言して憚はばからないつもりです。(中略)

 

こうした弊害はみな道義上の個人主義を理解し得ないから起るので、自分だけを、権力なり金力なりで、一般に推し広めようとするわがままにほかならんのであります。だから個人主義、私のここに述べる個人主義というものは、けっして俗人の考えているように国家に危険を及ぼすものでも何でもないので、他の存在を尊敬すると同時に自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのですから、立派な主義だろうと私は考えているのです。もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。

 

つまり漱石のいう個人主義とは、

「他の存在を尊敬すると同時に

 自分の存在を尊敬する」ことであり、

「党派心よりも理非を大切にし、

 権力や金力のために盲動しない」ことで

あるわけなんですが、

日本では、大概の人は「社会」が

何かよくわからないまま、

実際には「世間」に暮らしているようで、

SNSがSocial Network System  の略であっても

日本の場合は、socialではなく、

Seken Network System

と言った方がいいかもしれませんね。笑

 

この続きはまた明日!

 

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