改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その4)
2023/06/09
昨日投稿したblog記事の続きです。
引用した箇所は、
第4期ニュースクール講座のゲスト講師だった
上野千鶴子さんのレクチャーで
「考現学」と出会ったところでした。
上の画像は、『月刊らくだ』の一部分なんですが、
平井さんが、すくーるらくだに通っている
子どもたちの様子をこんなふうに通信に載せて
文章や写真で伝えたり、
日々の気づきを書きとめたりすることが
その「考現学」と
非常に近いものであると知って、そこから
〈「書ける・書けない」を考えず、ただ書く〉を
実践しようとする人が一気に
全国規模で拡がっていったということでしたが、
今日の記事は、
そもそもこの〝考現学〟というのは何なのか、
原典に遡って書いておこうとおもいます。
この〝考現学〟を最初に提唱し実践した中心人物は、
青森県弘前市出身の
今 和次郎(こん わじろう・1888~1973)です。
東京美術学校(現在の東京芸大美術学部)の
図按科(現在のデザイン科)を卒業し、
柳田國男門下で
民家を研究しされていた時期もありました。
考古学に対抗するような考現学というものを
始めたので
柳田國男からは破門されたそうなんですが、
柳田國男ご本人に確認すると、
「破門した覚えはない」ということらしく、
今さんの冗談という説もあるようで。
名は体を表すといいますが、
古代でなく現代だから
苗字が〝今〟というのがオモシロイですね〜
東京美術学校の卒業直後から、
早稲田大学理工学部建築学科に招かれて、
50年近く教鞭をとられていた経歴から
民俗学研究者、建築学者という肩書きを
付されることが多いようです。
でも、大学の建築アカデミズムには
あまり馴染めなかったらしく、
研究対象が建築の世界からどんどんはみ出して
生活全般や風俗まで多岐にわたり、
どんな人物かをひとことで説明するのは
易しくありません。
それで、まずは考古学との違いから
考現学とは何かをざっくり説明するとすれば、
土器や鉄器などの破片から古代を考察するのが
「考古学」であるなら、
人々の暮らしや風俗を観察して、
今という時代の破片から現代を考察するのが
「考現学」となります。
よって、平井さんが感じたように、
日々の気づきを書きとめる行為は、
まさに、現代の破片を集める作業にあたり、
考現学と呼んでよいようにおもうのです。
引用してみましょう。
考現学の方法の特徴は、徹底した客観的観察にある。
それもすべての実地において、
実情をみる、というところにある。
社会の現実がどうなっているかを、
忠実に観察し、記録するのである。
考古学者が古墳の発掘において、すべての出土品を
綿密にていねいに調べるように、
考現学者は、ひとつの部屋にあるものを、
細大もらさず、綿密にていねいに調べあげるのである。
あるいはまた、動物の行動や習性を観察するように、
考現学者は現代人の行動と習性を観察するのである。
生物学者が一定区域のなかに、どのような生物が
どれだけ生存しているかしらべあげるように、
考現学者は、現代社会の一定区域のなかに、
どのような社会現象がどれほど生起しているかを、
徹底的に調べ上げるのである。
(中略)
そしておもしろいのは、
昆虫学者が野外において昆虫を採集し、
植物学者が植物を採集するように、
考現学者は街頭において
風俗を「採集」するのである。
採集の用具として、捕虫網や胴乱のかわりに、
考現学者はノートと鉛筆を持ち、
ストップウォッチやカウンター、
巻尺、望遠鏡をもつのである。
そこにしめされているのは、徹底した
野外科学者(フィールド・サイエンティスト)の
姿勢である。その意味では、
考現学というのは、現代の社会をフィールドにした、
社会博物学であるといってもよいのだろうか。
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(引用ここまで)
今和次郎の考現学について書かれた本を
眺めていると、
不思議ともおもえるスケッチが至る所にあり
見ているだけで楽しくなってきます。
次の図は今和次郎/吉田謙吉『モデルノロヂオ』に
出てくる「本所深川貧民窟付近風俗採集・統計考察」
身に付けるものなどで路上の人々を分類し、
その数を数えるという調査。
また、次の絵は一瞬何だろうとおもったんですが、
ある食堂で使われている
茶碗の欠け具合を調べたものとのこと。笑
それにしても描写力がすごいですね〜
こういうふうに徹底的に観察して
表現することを「一切しらべ」と
言われていたようなんですが、
考現学とは、こんな風にスケッチすることで、
言語による表現では取りこぼしてしまうような
人間の無意識領域にあるものまでを
可視化できるものなのかもしれません。
残念ながら観に行くことは叶わなかったんですが、
2012年4月26日から6月19日まで
大阪の国立民族学博物館(以下「民博」と略)で、
特別展「今和次郎 採集講義―考現学の今」があり、
その様子は民博の公式website
展示概要はこちらのページで知ることができ、
YouTubeに解説映像の総集編も残されてました。
この動画をご覧になると、民博の建設にも
今さんが深く関わっていたことや、
梅棹忠夫さんが考現学を高く評価し、
そのつながりも含め、
今さんの仕事が後々に
どのような影響が及んだかということなど、
考現学の全体像が俯瞰できるんじゃないでしょうか。
【梅棹忠夫さんに関する参考blog記事】
・発生学的視点をどう活かすか
・「情報の定量化」ってどういう意味ですか?
次は「東京銀座街風俗記録」に添えられた図表。
街で人々をつぶさに観察し、
その人々がかけているメガネを類型化し、
そして、その集計結果をこんなふうに
ビジュアルに、かつ統計的に表現するやり方は、
現代ビジネスにおけるマーケティング調査や、
文化人類学のフィールドワークにも
通じるように感じます。
あと、晩年の今さんでしょうか、
ご本人による
家政学・住居論についての放送大学講義も
YouTube動画にありました。
最後に、
記事の冒頭に表紙を紹介した、
今さん自身の著書『考現学入門』
Ⅵ 考現学とは何か より核心とおもわれる部分を。
(引用ここから)
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・・・私たち同志の現代風俗あるいは現代世相研究にたいしてとりつつある態度および方法、そしてその仕事全体を、私たちが「考現学」と称したかったのは、考古学に対立したいという意識からである。古代の遺物遺跡の研究は、明らかに科学的方法の学たる考古学にまで進化しているのにたいして、現代のものの研究には、ほとんど科学的になされていないうらみがあるから、その方法の確立を試みるつもりで企てたかったのである。
考古学とは何か、ということはここにあえて多くをいわなくてもいいであろう。浜田博士によれば(『通論考古学』)、考古学は過去人類の物質的遺物(により、人類の過去)を研究する学なりといわれ、そうしてなんのためにということは漠然としていて、考古学はひとつのまとまりたる内容を有する科学というよりは、むしろ物質的な資料を取扱う科学的研究方法というを当れりとし、この方法によってその研究せんとするところはいかなる方面にても可なりとし、各専門家は各自の扱わんとする資料を考古学的研究方法で行なって、各自それぞれの効果を収めうることができるといわれている。そしてそれは史学と交渉してはじめて、考古学そのものの価値が発揮される、つまり史学の補助学としての価値あるものといわれている。
そうして私たちの企てている考現学(古にたいしては今でなければならぬとの注意を受けているから、そうすると考今学といわなければならぬだろうが、それはどっちでもいいことにしておきたい)は、まえにのべた考古学のそれと、定義および目的が類似していると考えたいのである。考古学と同じくそれは方法の学であり、そして対象とされるものは、現在われわれが眼前にみるものであり、そうして窮めたいと思うものは人類の現在である。そして考古学における史学と対立されるものとして、考現学においては社会学が当てられるであろう。すなわちそれは社会学の補助学として役だつものだといいたいのである。
考慮させられるのは、私たちのやりつつあるような研究はすでになされつつあるのじゃないかとの疑念についてである。しばしば私たちは当然な質問者のまえに立たされる。「西洋ではどうなのですか?」との問いのまえにである。未熟寡聞な私たちはまだ西洋でのそれをきかない。何か的確な研究書なり文献なりがあれば、ひた走りにそれにつくのを辞さないつもりでいるのだが、まだ私たちはそれに接する喜びをもちえないでいるのだ。わが国にもあるいは私たちのやっているような仕事について考慮し、そして仕事をしている先輩があるのかもしれないが、それについて確かな仕事をしているのをきかない(江戸時代の喜多川守貞の『近世風俗誌』および各種の名所図絵のたぐいは、あるいは私たちの仕事とほとんど同じものであるかもしれないが、それらには分析的な科学的な色彩はみられない)。こういう理由から、私たちは仮に私たちの仕事を考現学ないし考今学と称し、Modernologio という一般名を付して紹介したいと思っているのである。
しかし、私たちの方法は全然とっぴなものではない。私たちのとほとんど同じ方法は現在の未開民族を対象として行なわれていることを思わなければならない。すなわち人類学者なり民族学者なりの仕事がそれである。それらの学者は普通その対象を未開民族に限っている。民族学なり、民族誌なり(Ethnology あるいは Ethnography)のかの膨大な研究書ないし報告書は、おそらく各研究者たちに高波のように押寄せて運ばれてきていると思うが、それには未開民族の財貨その他の精細な採集図や、採集整理図に富んだものもある。必ずしも西洋においてばかりではない、わが国においてもそれらのすぐれたものがしだいに現われつつある状態である。それらの民族学ないし民族誌もある意味でまさに考現学である。現在の未開的民族の生活を対象としている考現学としてである。仮に考古学に先史考古学と歴史考古学とあるならば、考現学にも未開考現学と文化考現学(未開社会考現学と文化社会考現学)とがそれぞれ成立するわけである。私は、民族学ないし民族誌なる学問についてはこのように考えている。そして私たちの携わる仕事は主として文化考現学(文化社会考現学)であることをも認識したいのである。
このようにわれわれの考現学は、時間的には考古学と対立し、空間的には民族学と対立するものであって、もっぱら現代の文化人の生活を対象として研究せんとするものである。
※今和次郎『考現学入門』Ⅵ 考現学とは何か より
※考現学に関する参考記事(外部リンク)
(青森県美術館キュレーターズノート)
・「考現学」〜日常を観察する「私」たちと自己表現
・考現学の祖・今和次郎が描いた東北
〜大地に根ざした暮らしへのまなざし〜(JR東日本)
この続きはまた明日に。
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