寺子屋塾

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その6)

お問い合わせはこちら

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その6)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その6)

2023/06/11

6/3からこのblogでは「書くこと」をテーマに

記事を投稿してきました。

 

とくに6/6からは、

改めて「書くこと」と「教えない教育」との

関係について というテーマを設定していて、

今日これから書く記事は6回めになります。

 

未読の方は、まず次の記事をご覧ください。

字を書くとは身二つになること

OPENな場で書くことはなぜ大切?

ブレヒト『真実を書く際の5つの困難』より(今日の名言・その60)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

(その5)

 

その3までは、前日の記事で引用した箇所に

わたしからの詳細コメントを付しながら

書いてきたんですが

その4,その5といずれも長文続きで

しかも、新たに書いた部分の情報量が多く、

読み解くのが大変だったかもしれません。

 

ひとことで言ってしまうと、

いま、なぜわたしが「考現学」という概念が

必要だと考えているのか

ということになってしまうので、

問いのサイズが大きすぎて、

こうしたblogで書こうとすること自体

無謀な試みだったんですが・・・

 

 

結局のところ「考現学」って、

旧来からの「考古学」とどこが違うんでしょう?

 

なぜ、今和次郎は、

柳田國男の民俗学に端を発していながら、

破門されてまで

敢えて「考現学」を唱えようとされたのでしょう?

 

また、5月下旬に、このblogで

なぜ対幻想という言葉が日本で生まれたのかという

連投記事を書いたことがありましたが、

同じように日本人である今和次郎が、

こうした学問は、外国にはないからということで、

日本発の学術用語として

「モデルノロジー」「モデルノロギオ」を

打ち立てようとされたのか?

なぜ外国には「考現学」はなかったのか?

というような問いを立てて考えてみることで、

すこしは見えてくることがあるかもしれません。

 

 

クラシック音楽の世界では、

過去の音楽を、過去の音楽として

いかに再現するかということや、

名人芸を誇るといった

「考古学」的発想のピアニストが少なくないように

わたしには見受けられるのですが、

(それがダメだとおもっている訳ではありません)

昨日書いたその5の焦点は、

ポゴレリチのショパンの音楽と向き合う姿勢が、

まさに「考現学」的だったというところに

あったとおもいます。

 

つまり、次の情報処理についての図で、

入力が「ショパンの楽譜」で、

出力が「ピアノ演奏」としたときに、

楽譜に書かれた

「2倍の速さで」という指示をめぐって

ポゴレリチがどういう「加考」を行ったのか、

ポゴレリチにとって「今を生きる」ということは

どういうことだったかについて

考えてみるとよいでしょう。

 

楽譜は音楽よりも後から生まれたもので、

音楽を書きとめることのできる

ひとつの手段にすぎないと考えるのなら、

順序として、

まず音楽が先にあって、楽譜は後であり、

楽譜から音楽が生まれるのではないという話は、

このblogでは時折登場している、

「原因と結果の取り違え」でもありましたね。

 

あと、昨日の記事で、

お手紙をご紹介した浦河町の小山直さんは、

べてるの家を通じて知り合った方でもあり、

後半部では、

7/9にビデオ上映会を予定している

映画「ベリーオーディナリーピープル」の話も

登場しています。

以前、今日の名言シリーズで

紹介したことのある、

早川義夫さんの音楽にも触れられていました。

 

早川義夫『たましいの場所』より(「今日の名言・その5」)

 

早川義夫「サルビアの花」

早川義夫『たましいの場所』

続きはまた明日に!

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
寺子屋塾に関連するイベントのご案内

 7/9(日) 映画「VOP予告編4」ビデオ上映会

 7/29(土) 経営ゲーム塾C
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

当店でご利用いただける電子決済のご案内

下記よりお選びいただけます。