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改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その12)

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改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その12)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その12)

2023/06/17

昨日投稿した記事の続きです。

 

改めて、「書くこと」と「教えない教育」の

関係を明らかにするというテーマを設定して

書き始めたこの記事ですが、

今日で12回目となりました。

 

したがって、いきなりこの記事から読まれても

前提となっている話や

これまでのプロセスがある程度見えないと、

主旨が伝わりにくい点もありますので、

記事の最後に貼り付けた

関連記事のリンク集を適宜アクセスください。

 

 

さて、その8〜11まで加藤哲夫さんの文章を

4回にわたって紹介してきましたが、

それらの主旨を概観して要約するならば、

「書く」という行為においては、

その前提として、自分のまわりに

家庭や仕事、学校といったもの以外に、

利害関係のないフラットな関係性で成り立っている

ネットワーク的つながりの場、

コミュニティの存在が

いかに重要かということでした。

 

とりわけ、その9で紹介した文中に登場する

津野海太郎さんの本にあった

「関係の網の目が考える」という言葉が

とても象徴的だと感じたんですが、

実際、ひとりの頭で考えられることは

たかが知れています。

 

わたしにしてみても、

日々書き続け、発信し続けるということを

継続的に実践してきたからこそ、

また、らくだメソッドの教室を

29年という長期にわたり続けてきたからこそ、

結果的に、そうしたつながりが

わたしのまわりに出来ていったというか、

そうした、目には見えないつながりの存在に

気づいていくことができたわけです。

 

したがって、フラットな場、ネットワーク、

コミュニティといったものが、

最初からわたしのまわりに

存在していたわけではなかったのはもちろん、

そういうものを作ろうという

明確な目的をもって

計画的にそれを目指していたわけでもありません。

 

あと、昨日のblog記事で紹介した加藤哲夫さんの

「自分探しはらっきょうの皮剥き」という記事では、

森岡さんの『宗教なき時代を生きるために』からの

引用箇所が、とりわけ際だっていました。

 

そのなかで、「目隠し構造」という言葉について、

いきなり特徴3つを挙げられていたため、

どんなことを意味しているのかが

今ひとつわかりにくかったかもしれないのですが、

2017年に旧ブログ〝往来物手習い〟で

森岡さんのこの本を

紹介したことがあったことをおもいだしたので、

〝目隠し構造〟という言葉が

あまりピンと来なかった方は、

次の記事をアクセスしてみてください。

森岡正博『宗教なき時代を生きるために』より

 

ちなみに、この森岡さんの本については、

出版元である法蔵館のウェブサイトにある

こちらのページをアクセスすると、

冒頭20ページが無料でダウンロードできます。

 

それで、昨日の記事を改めて読み返してみて、

わたし自身が最初に読んだ

1996年というタイミングや、

加藤哲夫さんのブックニュースを読んだ

2000年代初頭のわたし自身と、

いまのわたし自身とでは、

まったく違う意識状態にあることにも

気づいたんですが、

それは、もしかすると、

平井さんや加藤さんから学んだことを

わたしなりに噛み砕いて

日々実践してきたお陰なのでしょう。

 

具体的に書いてみると、

目隠し構造の特徴は、三つのうち、

まず、ひとつめにあった、
「私自身の、パーソナルで日常的な身体の動きと、

 ささいなものの考え方の筋道のなかに

 発見される」

これはそういう事実を指摘しているだけのもので、

その通りです。

 

でも、第二にあった、

「目隠し構造を発見することのつらさ」については、

目隠し構造を発見することや

発見されたものを直視すること、

克服しようとすること、

人から暴かれることに対して、

なぜ、つらさを感じてしまうのか、

そのからくり、しくみに気づいてしまったので、

それで悩むことやつらさを感じることが

わたし自身は、ほぼ皆無になってしまいました。

 

だから、第三のところにあった、

「目隠し構造を発見し、ほんとうの自分の姿を

 直視したあとで、私は自分自身を変容させて

 いかねばならない」ということに対しては、

いまのわたしは、そのようには考えません。

 

たとえば、森岡さんは

「目隠し構造をはずしたときに見えてきた

『見たくない自分の姿』というものに、

 どういう決着をつけていくのかを、

 自分で決めなければならない。」

と書かれていたんですが、

自分の中にそうした目隠し構造があること自体を

常に事実ベースで客観視しながら自覚し

その折り合いをつけようとする姿勢さえ

保てるのであれば、

何も無理に頑張ってまでして

変容しなければいけないということはなく、

焦って変わらなくてもいいし、

必要ならば、必要なだけ、

変わっていくことでしょうから。

 

結局のところ、頭だけで考える、

自分にとって望ましいとおもえるような

理想や幻想ばかりを

どんなに追いかけてみたところで、

「好ましい自分」と「好ましくない自分」との

解離や矛盾からは、永遠に逃れられず、

その葛藤にエネルギーを浪費し

悩むばかりだということに気づけたからでしょう。

 

教室では「自己観察が大事だ」って話を

いつもしているんですが、

多くの人は、そう言っても

目の前にあるプリントや、

いまの自分のリアルな現実(学習記録表)を見ずに、

自分の脳内にある「幻想」や「理想」という

妄想ばかりを見ていて、

しかも、そこに無意識に刷り込まれた

「正しさ」までを投影しようとしてしまうわけです。

 

そりゃ、つらいでしょう!

 

こちらのつぶやき考現学でも書いた、

目隠しして車を運転することの

恐ろしさに気がついたといえばよいでしょうか。

 

真に自己受容できている状態というのは、

どんな自分もOKというか、

自覚を伴っていない自己認識という

不確かなモノに振り回されない姿勢というか、

津野海太郎さんの言われる

「自分の内側に矛盾や分裂を認める能力」

です。

 

もちろんこれを、

自分一人だけでやっていても、独りよがりな、

自分勝手人間になっていくだけでしょうが、

自分を客観視(事実ベースで自己覚知)しながら

まわりの人との関係性のなかで、

積み重ねるように、身につけられれば、

もしかすると「鬼に金棒」なのかもしれません。

 

この続きはまた明日に!

 

 

【関連記事】

字を書くとは身二つになること

OPENな場で書くことはなぜ大切?

ブレヒト『真実を書く際の5つの困難』より(今日の名言・その60)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その1)

(その2)

(その3)

(その4)

(その5)

(その6)

(その7)

(その8)

(その9)

(その10)

(その11)

 

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