寺子屋塾生のらくだメソッドふりかえり文を紹介(その8)
2023/08/27
8/20からこのblogでは、
寺子屋塾生・本田信英さんが
入塾時から3年余りの間、3ヶ月毎に書いていた
らくだメソッド学習のふりかえり文を紹介しながら、
わたしのコメントを記しているんですが、
今日で8回目となりました。
今回なぜこのような記事を投稿しようとしたかなど、
そのきっかけなどの前口上については、
8/19に投稿した(その0)をご覧ください。
この連載記事は1回1回、完結するスタイルで
書いていますので、前の記事を読んでいないと
以下に記す本日分の内容が
理解できないということはありません。
ただ、今回わたしがこうして連載記事として
投稿している目的の一つに、
本田さんがどのように変化してきたのか
そのプロセスそのものを辿ってみたいという想いが
あったと言うことは明記しておきます。
(その1)では3ヶ月めと6ヶ月めを、
(その2)では9ヶ月めと1年めを、
(その3)では1年3ヶ月めと1年半を、
(その4)では1年9ヶ月めを、
(その5)では2年めのふりかえり文を、
(その6)では2年3ヶ月めのふりかえり文を、
(その7)では2年6ヶ月めのふりかえり文を、
紹介していますので、
時間の許す方は最初から順番にどうぞ!
また、本田さんは、
学習を始めて2年3ヶ月経った2018年2月に
これらのふりかえり文をblogで公開されたんですが
なぜ大人の自分が算数、数学のプリントで
学習を続けているのかなど、
そのタイミングで本田さん自身によって書かれた
前口上の記事が2本ありますので、
未読の方はそちらもぜひご覧ください。
さて、今日ご紹介するのは
2018年8月に書かれた
2年9ヶ月めのふりかえり文です。
(引用ここから)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ゴールテープを切った後で・・・・・・
「らくだメソッド」という、
算数プリントをやっています。
1日1枚のプリントをやるという
簡単なようで難しいものに取り組み、
その中で感じたこと、考えたことを
3ヶ月ごとに振り返る試みをしています。
これはその2年9ヶ月の振り返りです。
波に翻弄される
1つのことを続けていると少なからず、波がある。
好調な時もあれば、不調もある。
ただ、そうした波に左右されず、やり続けるために
らくだメソッドをやっているという意味合いもある。
今の僕は、ただただおざなりだ。
これまで続けていて、
こんなにもダラダラとやっていることはない。
いっそ「できない」「やりたくない」という
気持ちであればよい。
けれど、そういうことも曖昧なまま、
やらずに終わる日が続いている。
頭の片隅で「らくだメソッドやっていないな」
ということをぼんやりと思い、
心のつぶやきを聞いたまま寝てしまう。
気が向いたらやり、気が向かなければやらない。
中途半端で、気持ち悪い状態のはずなのに、
抵抗を感じていない。
今年の目標だった150日連続は達成した。
けれど、152日目で連続記録はあっさり途切れた。
自分で用意したゴールテープを切った後も
なお走り続ける意義を自分の中に見出せなかった。
そして、甘美な達成感の後にやってくる虚しさに
今も閉じ込められている。
正直、週に1、2回やって
「やっている感」だけを出している。
難しいプリントに当たっていることも
あるかもしれない。
けれど、それは言い訳にはならない。
今までだって詰まったことはなんどもあったが、
その時は続けられた。
ただ、だるさを感じているのだ。
「なんでやるのか?」を考え始めている。
つまり、意味が見出せなければ
動き出せなくなっている。
それは頭でっかちになっている証拠でもある。
まず身体を動かし、
そこから発見するものから改善をしていく。
そんな発想が欠けている。
結局、頭で結論できたとしても、身体は動かない。
だから、ひたすらに待っている。
またできるようになることを。
向き合うでもなく、逃げるでもなく、
じっと待ち続けている。
らくだメソッドを辞めてしまうことは簡単だ。
けれど、簡単であることを理由に
物事に臨むようになると、なにもできなくなる。
それは冒頭にも述べた通り、波があるからだ。
簡単であることが難しく感じるタイミングに
必ず出会う。
そういう時の対処法が逃げるしかないのは、脆い。
逃げるのが悪いのではなく、
1つしかなければそれが通用しない時に
立ち行かなくなる。
時に立ち向かい、受け流し、包み込んだりと
手段をたくさん持つほど柔軟だ。
最近、心を揺さぶられる機会が多い。
もしかしたらそれは、今日までの自分の中にはない
選択肢を獲得しようとしているからかもしれない。
いつの間にか固まって
身動きが取りづらくなっていた状態から、
必死に変化をつけようとしている。
ただ、人間は変化を嫌う生き物だから、
不安や恐怖を生み出して、
僕の身体はそこに留まろうとしている
つまり、僕は今動こうとしているのだ。
これまで動かずにいたものを、
どうにかして動かそうとしている。
その中でもとりわけ、
自分の臆病さに直面する機会が多い。
決断しきれなくて、踏み出そうとあげた足が、
おろす場所を見失ったまま空中を彷徨っている。
裏にある、過剰な自意識を
どうにかしなければならない。
それとようやく向き合う時がきたのかもしれない。
まとめ
最後に記録の中から1つだけ挙げておこうと思う。
7/26 高-93(15分)13:01②※
昨日わかった気がすると思っていた問題が全然わかっていなかった。だから、解けない。わかったつもりほどいい加減なものはない。だからこそ、確認をすることが大事。それが最近おろそかになっていた気がする。
自分の中の驕りが気になって仕方がない。
経験を重ねていくことで、奇妙な自信がついた。
それが原因で、1つ1つの物事、
人に対して丁寧に接することが
できなくなっているのではないかと思っている。
忙しさを理由にすることはできるけれど、
忙しくしているのは自分自身で、
結局のところ自己管理の問題だ。
“5月に入ってから、プリントを朝やらない日も増えた。昼や夜にやることもある。それでも続けられている。
あってもなくてもいい。それはとてもあやふやなようで、固着せず揺れ動きながら絶妙なバランスを取っていくことであり、それが「いま、ここ」であるのかもしれない。
確かなことはなにもないから、言い切ることはできないけれど。
3ヶ月前の振り返りでこんなことを書いていた。
けれど、この通り、僕はできなくなってしまった。
「あってもなくてもいい。
なら、なくていいじゃないか」と
一旦気持ちは振り切れてしまった。
さて、僕はこれからどうしよう?
今一度立ち返ってみるのか、
それとも全く別の方向に舵を切るのか、
それが問われている気がする。
いや、今回に限らず、生きていると
いつだって自分や他者、世界から
問われ続けていくことになるのだろう。
その自覚があるかないかだけだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(引用ここまで)
冒頭部分で本田さん自身が書かれているように、
一つのことを続けていれば、
さまざまなシチュエーションが立ち現れてきます。
記事(その5)に書いたコメントで触れたように、
らくだメソッドの高校数学教材は
難しいプリントが少なくありません。
「150日間続けてやる」という目的に向かって
突き進もうとすれば、
どうしても無理をしてしまいがちなので、
燃え尽き症候群と呼ばれるような状態を
イメージされる方が
たぶん少なくないでしょう。
でも、(その6)のふりかえり文にあったように、
このときの本田さんは、
「150日間連続プリント学習」を目標に
がんばろうとしたわけではないのです。
このTシャツの画像を覚えていますか?
目標は、
自分の行動や思考パターンを変えることにあって
「がんばらない」実験というか、
頑張らずに150日続けられるかどうかを
試したかったわけですね。
もちろん、
「できる」「できない」を一巡二巡してもなお、
停滞しているように見える谷間が
全くなくなることはないでしょうし、
意図や作為を完全に手放すというのは、
本当に易しくない課題で、
「頑張らない」ことに対して無意識のうちに
「頑張ってしまう」こともあるでしょう。
とはいえ、たとえ、自分に意識できていない
無理がそこに生じていたとしても
そのあとで、
無理したことの反動がやってくるだけのこと。
そういう意味でいえば、目の前のできごとは、
すべて起きるべきことが、
起こるべきタイミングで起きているんだと
言えるでしょうし、
問う必要があるのは、
そういうことにちゃんと反応できる
身体であるかどうかだけだと受け止められれば、
何も心配など要らないのですが。
また、さまざまな体験を重ねて、
知識や情報量が増えてくると、
「自分は判っている」という感覚に囚われやすく、
気をつけなければいけません。
紹介する記事を書いたことがあるんですが、
そこに
自分で自分のことを考えようとしたところで、
実際には、
「歪んだレンズで歪んだレンズを観察するくらい
歪んだ像でしか自分を捉えられていないんだ」という
〝自覚〟をもつことが、まず必要なんだ
という主旨の話を書きました。
優秀な人間であればあるほど、
自分という人間に対しては、
客観的かつ正確に把握できているとおもいがちで、
優秀な人間というのは、
その優秀さゆえに躓きやすいとも言え、
自分に見えている自己像は、
必ずしも自分という人間を
正確に反映したものではないかもしれないという
疑いを持つ姿勢が大事だったりします。
まあ、もちろん、何を優秀さというのかという
その基準そのものが
甚だアヤシイんですが・・・
そういう意味でも、いかなる自分であっても
ありのままを認めることができる、
ナルシシズムではない自己受容の精神というのは、
本当に大切ですね。
なお、本田さんのnoteにアップされている
元記事は次のアドレスにて確認できます。
また、昨日の2年6ヶ月めのふりかえりと
本記事で紹介した2年9ヶ月のふりかえりとの
間に書かれた次の記事も
本記事の内容を補足するものでした。
明日投稿する記事では3年めに書かれた
ふりかえり文を紹介する予定です。
【関連する参考記事リンク集】
・米光一成「自分について考えるためには他を観察せよ」(今日の名言・その27)
・為末大さんのblog記事「自己責任論と社会責任論」を読んで(その1)
・改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その12)
・スヌーピー「配られたカードで勝負するしかないのさ」(今日の名言・その63)
・千葉雅也『勉強とは喪失することです』(今日の名言・その46)
・川上不白「守ハマモル、破ハヤブル、離ハはなると申し候」(今日の名言・その58)
・ルソー「子どもにつけさせてもいい習慣は?」(「今日の名言・その8」)