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そもそも〝自分で決める〟とはどういうことか?(その2)

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そもそも〝自分で決める〟とはどういうことか?(その2)

そもそも〝自分で決める〟とはどういうことか?(その2)

2024/02/05

昨日投稿した記事の続きです。

 

そもそも〝自分で決める〟とはどういうことか?

というテーマで書き始めたんですが、

昨日の記事では、

響月ケシーさんが白アリ理論の動画で話されていた

「誰の言うことも聞くな」って話を

とっかかりにしながら、

その姿勢が〝教えない教育〟とつながっていて、

「自分で決めて、自分でやる」学習だからこそ、

できない体験が

けっしてネガティブなものではなく

受け止め方次第で、

価値あるものになり得ることを書きました。

 

人間の心のなかで、

自分の意識でコントロールできている領域なんて

ほんのわずかでしかないことに

自ら気づいて欲しいということも書いたんですが、

そもそも、人間のアタマが身体を動かし、

大脳が身体をコントロールできていると

考えること自体が〝勘違い〟なんですね。

 

もし、いかなるときでも、

自分で決めたことを

決めたとおりに楽々やれるのであれば、

誰も苦労はしないとおもうのですが、

現実には

たとえば、ダイエットの計画にしても、

三日坊主で終わってしまったり、

明日2時間英会話の勉強しようと決めても、

いざ当日を迎えたら

まったくやる気になれなかったりってことは、

あるある話というか、

きっと多くの方が経験されていることでしょう。

 

でも、そういうときに、

自分の決めたことが実行できなかった原因を

自分の意志の弱さのせいにして

お茶を濁すことはあっても、

「そもそも、人間のアタマが身体を動かし、

大脳が身体をコントロールしているのは

本当なんだろうか?」と問いを立て、

前提から考え直してみようとする方は

少ないのではないでしょうか。

 

 

さて、それで今日は、自分で決めるっていっても、

それをいったい〝どのように〟決めたのか、

決めることにまつわる

「まわりとの関係性やそのプロセス」について

もう少し詳しく見ていくことにしましょう。

 

たとえば、他者との間で決めた約束は守れても、

自分自身との約束、つまり、

自分のアタマの中で考えて決めたことは、

他者との間で決めた約束と同じようには

守れないってことがあります。

 

なぜなら、他者と約束する場合は、

もちろんその他者との関係性にもよるんですが、

多くの場合、それを守れなかったら

発生する可能性があるダメージやリスクを予測し、

それを回避しようとする心が

自然に作動するので、

自分に対する強制力がはたらきますからね。

 

でも、自分自身と約束する場合には、

自分の心の内側というか、

自分という人間の内部だけで完結していて

外側には見えませんから、

そもそも他者と約束するときのように、

自分に対する強制力を

発動させる必要性がありません。

 

よって、その約束を守ろうとすることへの

動機づけ自体がさほど強く無いってことは、

きっとお判り頂けることでしょう。

 

言い換えれば、対人関係、

「他者と自分との関係性」と、

「自分と自分との関係性」には

違いがあるということなんですが、

そもそも前提として、

自分自身という人間との関係もまた

対人関係のひとつと認識し、

そのように位置づけられている人自体が

少ないかも知れません。

 

でも、こういうときに

そのことを、自分を責めたり(評価しない)

まわりの状況のせいにしたりすることなしに

「なぜ、他の人との間で決めた約束は守れても、

自分との約束は守れないんだろう?」っていう

問いのもとに事実ベースで観察することができれば、

自分自身との関係もまた対人関係のひとつである

という考え方を新たに発見したり、

「他者と自分との関係性」と、

「自分と自分との関係性」との間に

変化が生じたりすることに

気づく可能性があったりするわけです。

 

つまり、セルフラーニングの姿勢が

どれだけ身につき、どこまで実践できているかは

世間的な評価軸や自分の評価軸にとらわれずに、

自分自身の日々の行動や体験に対して、

「〝問い〟が浮かぶようになっているかどうか」

一つの指標になり得ると言ってよいでしょう。

 

もちろん、セルフラーニングという学び方を

その当事者性の大事さに自ら気づいて、

自分事としてスッと受け入れながら

実行できる人ばかりではありませんから、

寺子屋塾で学習している塾生のなかにも、

それまで上意下達的な指導を

日常あたりまえのように受けてきた習慣から

なかなか抜け出すことができなくて、

セルフラーニングの前段にある

環境づくりのステップで

おもった以上に時間がかかる人が

少なからずありました。

 

つまり、そのプロセスはすべて個別に異なるので

学習進度を一律に示せるような基準など

そもそも存在しないんですが。。

 

ただ、30年という長い年月にわたり、

たくさんの塾生と接してきたお陰で、

わたしというヒトと、わたしが言っているコトを

どこまで分離できているかどうかが、

その塾生が、セルフラーニングという学び方を

どれだけ実践できているかを知るための

ひとつのめやすになり得るということが、

だんだんとわかってきたわけです。

 

 

ところで、この「ヒトとコトの分離」というのは、

人間にとって普遍的なテーマでもあるようで、

これにまつわる古今東西のことわざも

少なくないんですが、

大きく分けると二通りというか、

両面あるんですね。

 

たとえば、「罪を憎んで人を憎まず」という

ことわざがありますが、

これはヒトとコトが分離できていることの

たとえであるのに対し、

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざは、

分離できていないことのたとえになります。

 

もちろん、わたしの話す〝言葉〟もまた

あくまでひとつの手がかりにすぎないので、

わたしとしては、

わたしという人間に対して意識を向けるのではなく、

わたしが話す言葉を入口に、

その言葉の向こう側にあるものを掴んでほしくて、

「〝自分で決める〟って大事だ」ということを

言うように心がけてきました。

 

でも、〝人〟に従おうとする意識が強すぎる人は、

ヒトとコトの分離ができないために、

「〝自分で決める〟って大事だ」と言っている

わたしの言葉を鵜呑みにしてしまい、

「井上さんが〝自分で決める〟って大事だって

言っているから、自分で決める」ってことに

なりがちなんですね〜

 

何が言いたいのか、わかりますか?

 

つまり、そういう人は、

〝自分で決めている〟つもりになっているだけで、

そのじつ、自分で決めていないっていう

奇妙なことが起きているわけですが、

そのことに問いが浮かばないというか、

言ってることとやってることが

食い違っているというか、

アタマとカラダがつながっていないというか、

外側から自分を眺める視点に乏しいというか、

ひとことで表現するなら、

〝自覚的でない〟ってことなんですが。

 

たとえば、「自ら進んで勉強しなさい!」って

人から命令されて勉強しても、

そもそも前提として

「自ら進んで〜する」って文章を、

命令形にしていること自体が内容と矛盾していて、

結果としてその行為自体が

「自ら進んで勉強した」ことに

全然なっていないってことはわかりますか?


つまり、「自ら進んで勉強する」ってことは、

「自分のアタマで考え判断する」ってことが

前提としてありますから、

「自ら進んで勉強しなさい!」って言葉の

真意を理解できるならば、

言葉そのものを鵜呑みにすることはないはずで、

その言葉の内容と、その人の行動が

矛盾していることに気づいて、

「オカシイな〜 変だな〜」って

問いが浮かぶはずなんですね。

 

ですから、ヒトとコトの分離ができないってことは

自他の切り離しができていないというか、

他者を他者として意識できていないという風に

言い換えることもできるでしょう。

 

まわりから価値観を押しつけられられるままに

受け身の姿勢で生きていると、

そうしたまわりの人間の価値観を

鵜呑みにするしかなく、

しかも、そのこと自体に無自覚でいるとなれば

なおのこと、「自分がどうしたいのか」を

自分自身で考えることや、

「自分で決める」ってことが、

できなくなってしまっているのかもしれません。

 

だから、ケシーさんが言われるように、

「誰の言うことも聞かないこと」が

ホントに大事なんです。

 

それはもちろん、人の言うことに

いちいち振りまわされないって意味であって、

決して、人の言葉に一切耳を貸さなくていいとか、

傍若無人に振る舞えばいいってことではありません。

 

ひとことで表現するなら、

〝転原自在〟という言葉に集約されるんですが、

どんな苦しい窮地に立たされることがあっても、

「仕方ない!」と簡単にあきらめたり、

その原因を他者の動向や環境、状況のせいにして

自分を正当化したりするのではなく、

すべて物事の成り行きは

最終的には自分自身の手に委ねられていて、

自分の発想や行動次第で

どのようにでも変えられ得るという姿勢で

日々を坦々と生きるってことなんですが。

 

 

先行き不透明で、将来の予測が困難な

VUCA(「ブーカ」と読む)の時代と言われ、

変化スピードが激しい昨今。

 

でも、今がそういう時代であればこそ、

自分の言っていることや、やっていることに対して

常に自覚的でいようと努める姿勢や、

そういう自分を知る手がかりとして、

〝自分で決める〟体験を積み重ねていく

寺子屋塾のセルフラーニングという学習スタイルに

意義を見出せるようにおもうのです。

 

【参考記事】

吉本隆明さんによる3つの幻想領域について

3つの幻想領域の〝次元が違う〟ってどういうことですか?

〝指月の法〟とことば(つぶやき考現学 No.28)

〝自分〟を意味する漢字になぜ「我」と「己」があるのか(つぶやき考現学 No.81)

師を見ず、師が見ているものを見ようとすること(旧ブログ)

 

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