大人ってどんな人のこと?(その1)
2024/02/10
昨日投稿した記事では、内田樹さんの
『寝ながら学べる構造主義』を紹介しました。
記事の最後に、内田さんのブログサイト
「内田樹の研究室」から
本を書いた経緯や内容に触れている
次の2本の記事をシェアしたんですが、
そこには、寺子屋塾の学習に
関わりの深いことが書かれていたので、
1本目の記事についてはコメントしたんですが、
2本目の記事には何もコメントしなかったので
今日はそのあたりをとっかかりにしながら
書き始めてみることにします。
上の内田さんの2本めのブログ記事、
未読の方は、それをまずアクセスされてから、
以下の文章をご覧ください。
内田さんの著作タイトルは『街場の〜 』という
冠をつけたものがたくさん有るんですが、
『寝ながら学べる構造主義』は、
「街場的」書き物のデビュー作だったんですね。
内田さんの回答の前半は、その「街場」とは
どんな場なのかという問いに答えていて、
煎じつめて言うなれば、それは、
知識人と生活者の行き交う場所のことであると。
そして後半は、
『寝ながら学べる構造主義』は
フランスの構造主義たちの知見を
高校生でもわかるように
噛み砕いて説明しようとしたものであっても、
啓蒙書を書く気はなかったという話が続きます。
たまたまなんですが、3日前に書いた記事
でも触れた〝暗黙知〟というワードも
内田さんの記事に2回も登場していましたね。
(引用ここから)
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・・・高校生だって、言語を操るし、
家族とともに生きているし、
経済活動にかかわっています。
素材は彼ら自身の経験のなかに豊かに存在する。
ふだん、ふとした機会に
「生きた言葉」と「死んだ言葉」の
違いがあることに気づいたり、
家族であるというのはある種の
「役割演技」をすることだと気づいたり、
贈り物をもらったあとに何も「お返し」をしないと
気持ちが片づかないとしたら、
彼らは「人類の暗黙知」にアクセスする回路に
すでに手が届いていることになります。
だったら、別に「啓蒙」する必要なんかない。
高校生自身がおのれの生活実感の深層に向けて
垂直に掘ってゆけばよい。
そのための作業の指針になるものを
書きたいと思っていました。
たぶん、そういうふうに
読者の主体的なコミットメントを「当てにして」
本を書く学者というのが
あまりいなかったということなんだと思います。
僕は読者の知性を信頼して
書くべきだと思っていました。
それは教育者としての経験がもたらした確信でした。
子どもを大人にしたければ、
大人として扱う。
学生たちに知的に成長して欲しかったら、
すでに知的に十分に成熟している人間として扱う。
子どもたちは自分に向けられた「敬意」を
決して見逃すことはないからです。
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(引用ここまで)
引用箇所の最後の方に書かれてた
子どもを大人にしたければ、
大人として扱う。
学生たちに知的に成長して欲しかったら、
すでに知的に十分に成熟している人間として扱う。
という内田さんのスタンスは、
まさに、寺子屋塾で実践している
何を、どれだけ学ぶかを
学習者が自分で決めて、自分でやる
セルフラーニングへの関わり方に通じています。
義務教育〜高校までの学校教育においては、
何を、どれだけ学ぶかについては、
その大枠は学習指導要領で決められ、
通常、指導者である先生が
主導権を握っているわけですが、
寺子屋塾で採用している
セルフラーニングという学び方においては、
そのプロセスを学習者に任せ、委ねられるのは、
何をどれだけ学ぶかを自分で決められる
大人として扱っているからと
言えるんではないかと。
わたしもこの30年で500名以上の塾生たちと
関わってきましたが、
就学前の子どもでも、自分で何をどれだけ学ぶかを
自分で決められるようになる子がいる一方で、
30代、40代の社会人でも
自分で決めて、自分でやる主旨がなかなか飲み込めず
スムーズに実践できない人もいました。
さて、そもそも
大人ってどんな人のことでしょう?
2023年5月にこのブログで投稿した
の終わりの方には
次のような文章がありました。
自分自身の状態を知らなければ、
守ることのできない約束をしてしまいます。
かといって、自分だけで
自分のできることを決めていては、
自分のできそうなことしかしませんし、
知らず知らずのうちに自分に対しては
甘くなってしまいます。だから、
セルフラーニングは一人では決してできません。
こんなふうに書いて見ると、何歳になっても、
収入を得られるような仕事に就いても、
自分だけでやることを決め、
自分のできそうなことだけをやっていては、
それでその人が「人に成った」
「イニシエーションを終えた」とは
決して言えないことがわかります。
記事中で平井雷太さんは、
「セルフラーニングとは、
自分で決めたことを自分で実現すること」
と定義され、
らくだメソッドは、人になる、大人になる
通過儀礼(イニシエーション)の役割を
はたしているのかもしれないと
書かれていましたが、
皆さんは、子どもと大人の違いを
ふだんどのように意識していましたか?
そもそも大人って、
どんな人のことを言うのでしょう?
このテーマはなかなか深いもので、
簡単に結論が出ることではないんですが、
いろんな人の意見や考え方を参考にしながら
らくだメソッドの学習が
どのような意義をもっているのかについて
考えてみたいとおもった次第です。
次に引用するのは、
2023年12月に投稿した、
教えない性教育シリーズの記事でも紹介した
橋本治さんの『ぼくらのSEX』15章の
冒頭部分です。
(引用ここから)
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思春期には「自分」をつかまえる
「結婚前の純潔」に意味があった時代には、みんな結婚する時期が早かった。女の人の場合は、特にね。「年頃になる」ということは、そろそろ結婚を考えなきゃいけないということで、「こどもの時代」が終わってしまえば、そのまんますぐに「大人」 になって結婚をする。だから思春期という「こどもから大人へ変わる中間の時期」というのが、ないのとおんなじだった。
今の時代には、思春期が長い。「第二次性徴」の訪れる時期が思春期だと言ったけれども、「体の変化」ということの中に隠されている意味をうっかりと見過ごしてしまったら、それと一緒に起こるはずの「心の変化」がわからなくなってしまう。だから、「第二次性徴」が出揃ってしまった後になっても、まだまだ「自分の思春期」に出会えない人はいっぱいいるということにもなる。「体の思春期」が終わっても「心の思春期」が終わらなければ、その人はいつまでも思春期の中にいるということになってしまうでしょう。今という時代は、人それぞれが"自分"というものをつかまえなくちゃいけない時代だから、「早く〝自分"をつかまえろよ」という意味で、「思春期が長い」ということも黙認されてしまうんだね。
人間というものは、こどもの時代が終わる頃に〝自分〟と出会う。その思春期の時期に出会った〝自分〟をもとにして大人になる。思春期の時期に〝自分〟と出会えなかったら、根拠のない、平気でぐらついているだけの、頼りない大人になってしまう。体だけ大人になってもしかたがないし、心だけ大人になってもしかたがない。どっちもそろって大人にならなければ、「ちゃんとした大人」とは言えない。
今という時代は、みんなが「ちゃんとした大人になんなきゃな......」と思っている時代だから、この〝自分〟に出会う思春期の期間がずーっと長くなっているんだ。でも、「思春期が長い」なんていうのは、ごくごく最近の傾向で、昔は思春期なんか、なかった。こどもと大人の間が、ほとんど「くっついている」と言いたいぐらいに接近していて、「その中間」なんていう時期は、ないのとおんなじだったんだ。 「結婚の時期が早い」というのは、そういう「思春期のない時代」のことで、こういう時代の「〝自分〟というもののありかた」は、今のそれとは、かなり違っていると思わなきゃいけない。
※この続きは明日に
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