「統合する」ということ(その7)よしもとばなな『花のベッドでひるねして』
2024/09/12
なにかが大きく動くときには、 いいことも悪いことも同じだけ起こる。 それはあたりまえのことだ。 静かな池の水をかきまぜたら、 奥にあるものも出てくるしまわりの空気も動く。 そこにあったドロドロがみんな浮かんでくるし、 動いた空気の中には信じられないぐらい 美しいものも見つけられる。
それが落ち着いて また水が澄んだ状態になったとき、 池は前とまったく同じ状態ではない。 良くなったのでも悪くなったのでもない、 ただ動いただけ。 そんなことを考えながら 世界と私はいつものように きらきらとした目でお互いを賞賛し合い、 見つめ合っていた。
そうそう、こっちが見ているだけじゃない。 向こうも見ているんだ。 その目はどこにあるかというと、 天に大きな目が 浮かんでいるっていうわけじゃない、 なぜか私の中にあるのだ。 私の中にあるもうひとつの目が、 世界の側にとって力を取り入れる窓なのだ。
だから私がどういうふうに世界を見るかを 世界は見ている。 そのことを昔の人はうまく言いようがなくて 神様と呼んだんだなあ、そう思った。 だからなるべく円満に、いのちに賞賛をこめて、 今日も一日を生きる、 私はそんなことを選んだのだ。 この世の隅っこにあるこの小さな村で、 ちっぽけだけれど偉大なことを。
※よしもとばなな『花のベッドでひるねして』よりエンディング部分
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8月のお盆休みに響月ケシーさんの
インスタライブで『自分の神様の育て方』を聞き、
その話が発端になって、
「内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと」
というテーマで記事を書き始め
15回にわたって連投しました。
また、サン・テグジュペリ『星の王子さま』、
雲黒斎さんの本やYouTube動画の紹介を経て
書き始めた「『統合する』ということ」の記事も
これで7回目になりました。
「これまで書いてきた内容を
全部統合したらどうなるか?」
という問いについて考えていたら、
ふと浮かんできたフレーズがこの
『花のベッドでひるねして』のエンディングです。
それで、今日は、
この1ヶ月ほどの間に書いてきたことが
どのようにつながっているか、
また、それが寺子屋塾の
セルフラーニングスタイルの学習と
どのように関係しているのかについて、
改めて書いてみようとおもいたちました。
小説、詩などの文学作品というのは、
学問分野に分かれているものではありません。
もちろん、医療現場を舞台としたものとか、
法制度がテーマになっているとか、
スポットが当てられているジャンルはあっても、
さまざまな要素が渾然一体となり
統合されているものと言ってよいでしょう。
また、ケシーさんといえば、
お正月明けにYouTube動画で配信された、
6本の『現実想像の掟』がありましたが、
1本目の動画「大前提編」にて、
全6本を理解、実践する大事なポイントは
ほぼすべて語られているんですね〜
つまり、
自分を観ている世界の目は、
自分の中にあるんですよ。
私がどういうふうに世界を見るかを
世界は見ているからこそ、
「私たちの現実を作っているのは、
私たちの考え、思考」
と言えるんじゃないかと。
だから、
「自分自身で選んだものだけを
受け取るって構造になっている」
「人から植え付けられたものに
流されて生きるか、
それとも、自分自身で選んだ道で生きるか」
「わたしたちには、望んでない現実を、
あたかも自分が望んでいるかのように
作ってしまう罠があって、
厳密には選んだ〝理由〟の世界で生きている」
「皆さん、自分の外側に見えている
不安定な世界の方を変えようとして頑張るけれど、
自分が選んだシナリオを
変更させることはできない」
「だから、本当に自分が好きなシナリオを
〝選びなおす〟ことが大事」
ばななさんが書いている通り、
私の中にあるもうひとつの目が、
世界の側にとって力を取り入れる窓
であって、
自分の中の神様を育てること
自分の中にある
自分を観ている世界の目を育てる学習
が、セルフラーニングなのですね〜
この続きはまた明日に。
※記事中の写真はこちらのページから拝借しました <(_ _)>
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