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なぜ、教えられる授業は問題なのか?

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なぜ、教えられる授業は問題なのか?

なぜ、教えられる授業は問題なのか?

2023/03/28

寺子屋塾で開塾時より基本教材として採用している

らくだメソッドの開発者・平井雷太さんが

1997年に日本評論社から出された著書に

『見えない学校 教えない教育』があります。

 

3/20よりこのblogでは、

その著書の「第2章 教えない教育」より、

平井さんがらくだメソッドを生み出したプロセスや

全体的な構成、特徴などを紹介し

井上のコメントも記してきました。

 

らくだメソッドはなぜ計算問題中心なのか?(その1)

らくだメソッドはなぜ計算問題中心なのか?(その2)

らくだメソッドはなぜ「わかる」より「できる」を重視したのか?(その1)

らくだメソッドはなぜ「わかる」より「できる」を重視したのか?(その2)
らくだメソッドはなぜ「わかる」より「できる」を重視したのか?(その3)

らくだメソッドはなぜ、時間を計ることが大事なのか?

らくだメソッドにはなぜ、記録表があるのか?

 

このように、この連続記事も

これで8回目となりますが、

一応今回が最終回となる予定で、本日のテーマは、

「なぜ、教えられる授業は問題なのか?」です。

 

ちなみに、この「教えられる」の「られる」は

「可能」ではなく「受け身」の意味の助動詞で、

生徒の側から見ているので、

こういう言い回しになったのでしょう。

 

(引用ここから)
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「教える教育」にのめり込んだあげく・・・・
「簡単に手に入れたものや技術や情報は、簡単に人の手に渡したくなる」という原則があるのではないでしょうか? 私が「教える授業」の塾にのめりこんだのは、「3x3は3+3+3と同じである。では、3x0は『なに+なに』になるのか?」「マイナスxマイナスがなんでプラスになるのか?」「分数のわり算はどうしてひっくりかえしてかけ算にすると答えが出るのか?」というこの3つの問いに対する長年の疑問が解けてしまったからでした。今の学校ではこのあたりを丁寧に教えないので、その答えを知っている人はほとんどいません。だから、私の知っていることを知らない人に伝えてあげたいと素直に思ったのです。


これが動機となって、私は「教える塾・さえら塾」を開設しました。このような3つの問いでさえ、わからせようとしない学校に対して、不信感を抱いたためで、学校では行われていないことを、私が塾を開設すればできると思ったのです。


今になって思えば、自分で不思議にも思っていなかったことを、遠山啓著『数学の学び方・教え方』(岩波新書)を読んで、「3x0はどうして0になるのか?」という問いの答えを、この本から簡単に手に入れてしまったことで、私が手に入れた情報をみんなに知らせたくなって、「教えること」に熱中してしまったのでしょう。

 

「問い」が湧きでる教育
しかし、何年も時間をかけて手に技術を持った職人芸の世界の人たちは、違うように思えるのです。「私が数十年かけて身につけてきたものを、教えて簡単に伝えられるわけがない。人が育つには時間がかかって当たり前」と思っているから、自分が得たものを、やすやすと教えたりしないのでしょう。教えて伝わるわけがないと思っているかのようです。自分も教えられずに学んできたから、弟子たちにも「教えない!盗め!」という精神が受け継がれるようになったのでしょうか。


人から教えられなければ、「どうしてこんなことができるのだろうか?」「どうしてこんなふうになるのだろうか?」と、教えてもらいたいと思っている側に「問い」が次から次へと浮かんでいくような気がします。自分の中に自ら湧き上がった「問い」を持ちながら、一緒に仕事をしていると、今まで見えていなかったものが見えてくる世界があるのです。そこで気づきが起き、何かが伝わっていく。

 

しかし、私がやってきた授業はどうであったろうかと考えてみました。たとえば、かけ算の意味を教える授業はこんな具合です。「3x3は3+3+3と同じ。では、3x0はなに+なに?」と、教える側が「問い」を出しています。教わる側がなんの疑問にも思っていないことを、生徒にわざわざ考えさせて、それで「考える力」が育つと思ってきたのです。しかし、私がやってきたことは、私が「問い」を出すことで、学ぶ側が自ら「問い」を生み出すチャンスを奪ってきたのではないでしょうか? そして、生徒が大人であれば、「『倍』という言葉を使わずに、かけ算の文章題を作ってみて下さい」と問題を作らせ、その問題の中から「1あたり量」を発見させ、1皿あたり団子3個を、「3個/皿」と書いたあとで、「『0本/人』ってなんですか?」と「問い」を出します。「人間のしっぽ」と答えれば正解!というように、台詞の決まっているシナリオ通りにことがすすむように、それを「わかる授業」だと思ってやってきたのです。


こんな授業をやっているにもかかわらず、私は自分では「教えない授業」「発見させる授業」をやっていると思い込んでいました。ここで「考える力」が育つと思っていたのです。しかし、私はこんな授業をし続けることに飽きてしまいました。私が教え方のツボを心得れば心得るほど、子どもたちは授業に集中するし、私の書いたシナリオ通りに授業がすすみます。誤答まで私の予想した通りになったりすると、「もう結構!」という感じになってしまいました。そして、彼らの中から「問い」が出てきているわけではなく、私から与えられた「問い」に単に答えているだけとわかって愕然としたのです。


そこで私に浮かんだのが、「なぜ人は、こんな授業を好んでし続けることができるのだろうか?」という「問い」でした。そして、「答えのある『問い』に答えることで、何が育つのか?」「答えのある『問い』と答えのない『問い』は何が違うのか?」というような「問い」から始まって、「『わかる授業』とは何か?」「『わかる』と『できる』はどちらが先か?」等々の「問い」が、私の中に限りなく浮かんでいきました。


そして、私の中に、「自らの中から浮かぶ『問い』のないところに『学び』はないのではないか?」という根本的な「問い」がフレーズとなって、浮き彫りになってきたのです。こんなことを書きながら、私が小学校のときに授業中、教師に「問うこと」をしたことがほとんどなかったことを思い出していました。私の場合は、「問うこと」ばかりか、教師からの「問い」に自分から手を挙げて「答えること」もほとんどしませんでした。だから、教師には、通信簿には「消極的である」「意欲がない」「言われたことしかしない」と書かれ続けました。しかし、どうしてそのような印象を教師に与えたのか、その理由があったのかもしれないと思えてきたのです。


「教師が答えを持っているのに、どうしてわかっている答えをわざわざ言わなくてはいけないのか?知っているなら教えろ!わかっているかどうかと、人を試すようなマネはやめろ!それは人に対して失礼な行為ではないか!」と私は、小学生のときにそう思っていたのではないかという気がしてきました。だから、私は答えがわかっていても、教師が期待する通りの答えを言ってもしょうがないじゃないかとどこかでそんなふうに思い、決まりきったことが言えなくなって、どもる私になったのかもしれません。


「いや、そんな馬鹿な?」と思われる人がいて当然だと思うのですが、この傾向は今でもありますから、小学校の私もそうだったんじゃないかと予想してしまうのです。 最近、講演する機会が多いのですが、決まりきったことを話そうとすると頭が働かなくなって、言葉が滞ってしまうのです。でも、ライブであればあるほど言葉がスラスラ出てくるので、台本があると話ができなくなってしまうのは、決まりきったことを言おうとすると、どもってしまう時代の名残りのように思えるのです。


私の講演を聞いた人の中には、「いったいなんの話だったのかわからなかった」と言う人が時折います。たとえば、「『〜しなさいと言わない教育』のやり方を教えてくれると思っていたのに、『〜しなさい』と言ってもいいと言うし、あの人はいったい何がいいたかったの?」と言っていた人がいたという話も聞いたことがあります。でも、そのようになるのは、私が答えのないことを話しているからではないかと思うのです。なぜなら、私が講演会でしていることは、私が思っていることや感じていることを自分の体験から話しているだけだからです。


当たり前のことですが、私が話していることは私の体験であって、あなたの体験ではありません。だから、私の話に賛同しても賛同しなくても、一向に構わないのです。異論は大歓迎!「この問題についてあなたはどう思っているか?」と、私はそれを聞きたいだけなのですから、私の考えをあなたに押しつける気が毛頭ないから、答えのない話に聞こえてしまうのでしょう。


私はあなたを感じたい、あなたが私の話を聞いてどのように感じてくれたのかを聞かせてくれるだけでいい。そこで、「それってどういうことですか?」とあなたの中に「問い」が浮かべば、それに私が答えようとすることで、そこに新たな情報が生まれ、気づきが起きます。そんな状態が起きたとき、話し手と聞き手の境界が消え、相互に学びあう場がそこに創出されるでしょうから。

 

平井雷太『見えない学校 教えない教育』

 第2章 教えない教育

 9 なぜ、教えられる授業は問題なのか? より

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(引用ここまで)

 

この項の内容は、らくだメソッドの特色ではなく、

平井さんは、この項以前まで書かれてきた内容を

「教えない教育」というテーマで

総括されています。

 

わたし自身は、小中学生対象の進学塾という場で

「教える教育」にのめり込んで、

7年間、徹底的に突きつめた体験があって、

いまの寺子屋塾の実践に行き着いたので、

そういう点では平井さんと

かなり似ているところがあると言ってよいでしょう。

 

わたしが考える、

「教える教育」と「教えない教育」との

関係については、

らくだメソッドはなぜ「わかる」より「できる」を重視したのか?(その3)

で触れたので、ここでは繰り返しません。

 

29年間、寺子屋塾を続けてきて

つくづく実感していることは、

一人ひとりの学習課題はすべて異なるので、

何を教えればよいか、

どうやって教えるかということについての

正解など予め用意されていないということです。

 

言い換えれば、「教えない」というよりも、

一方的に「教えられない」のです。

 

人が人に対してなにがしかのことを

「教えられる」と見做すことは、

ある種、ものすごく不遜な態度のように

おもえてしまうのはわたしだけでしょうか?

 

そうすると、平井さんの書かれた文中にもある、

「自らの中から浮かぶ『問い』のないところに

『学び』はないのではないか?」

という問いは、ものすごく重要で、

教師の役割というのは、

そうやって浮かぶ個別の問いに対して

正解を与えようとすることばかりでないはずです。

 

つまり、その学習者の問いに対して、

安易な正解にしがみついてしまわないよう、

学習者自らの力で、

さまざまな角度から深めていけるように

関わることが重要なのではないかと

わたし自身も考えながら

寺子屋塾の場づくりをしてきました。

 

平井雷太『見えない学校 教えない教育』

紹介しながらコメントしてきた

この連続記事の投稿は、

一応今日で一区切りにと考えていますが、

簡単に結論の出る話ではないので、

これからも継続的に、いろんな角度から

書いていくつもりでいます。

 

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