寺子屋塾生のらくだメソッドふりかえり文を紹介(その9)
2023/08/28
8/20からこのblogでは、
寺子屋塾生のひとり、本田信英さんが
入塾時から3年余りの間、3ヶ月毎に書いていた
らくだメソッド学習のふりかえり文を紹介しながら、
わたしのコメントを記しているんですが、
今日で9回目となりました。
今回なぜこのような記事を投稿しようとしたかなど、
そのきっかけなどの前口上については、
8/19に投稿した(その0)をご覧ください。
この連載記事は1回1回を
完結するスタイルで書いていますので、
前の記事を読んでいないと
以下に記す本日分の内容が
理解できないということはありません。
ただ、こうして連載記事として投稿している
目的の一つを書いておくと、
本田さんが寺子屋塾で学習を始めて以後
具体的にどう変化してきたのか、そのプロセスを
この寺子屋塾のblog内でも
辿れるようにしたかったことにあります。
(その1)では3ヶ月めと6ヶ月めを、
(その2)では9ヶ月めと1年めを、
(その3)では1年3ヶ月めと1年半を、
(その4)では1年9ヶ月めを、
(その5)では2年めのふりかえり文を、
(その6)では2年3ヶ月めのふりかえり文を、
(その7)では2年6ヶ月めのふりかえり文を、
(その8)では2年9ヶ月めのふりかえり文を、
紹介していますので、
時間の許す方は最初から順番にどうぞ!
また、本田さんは、
学習を始めて2年3ヶ月経った2018年2月に
これらのふりかえり文をblogで公開されたんですが
なぜ大人の自分が算数、数学のプリントで
学習を続けているのかなど、
そのタイミングで本田さん自身によって書かれた
前口上の記事が2本ありますので、
未読の方はそちらもぜひご覧ください。
さて、今日ご紹介するのは2018年11月、
3年経った時点で書かれたふりかえり文です。
(引用ここから)
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「やりたいこと」に固執しても仕方ない
「らくだメソッド」という、
算数プリントをやっています。
1日1枚のプリントをやるという
簡単なようで難しいものに取り組み、
その中で感じたこと、考えたことを
3ヶ月ごとに振り返る試みをしています。
これはその3年目の振り返りです。
空欄だらけの記録表。
これが今の僕の状態である。
すっかりやらないことが日常化してしまった。
以前は「プリントやっていないな」と思いながら
やらなかった。
今では意識のはしっこに引っかかることもないまま
布団をかぶる日々。
けれど、罪悪感は感じていない。
言い訳に聞こえるかもしれないけれど、
実はやろうと思えばいつでもできるのだ。
これまで「150日やる」と決めたらできたように、
自分でそれを決めれば僕はできる。
少なくとも、
途中でくじけてしまうことはないだろう。
それは僕が行っている寺子屋塾の井上さんも
保証してくれた。
「プリントをやる」という行為を通して、
自分の特徴に気づき、学び、変えていく。
その一連のサイクルをある程度回してきた。
困難も、喜びも、もどかしさも一通り経験した。
これまで自分というものを、
縦軸にひたすら深く掘り進めてきた。
もちろん更なる深みへと掘り進めることもできる。
ただ、この先は大差ない気がしているのだ。
いくつもの地層が重なっている中で、
深部には到着した。
ここからは横軸に広げていく段階に
入ってきている気がする。
それはすなわち日常生活の他の場面へと
活かしていく。
らくだメソッドのシステムを分解し、
仕事や日常へ流用していくということだ。
教材としてのらくだメソッドの凄さというのは、
要するにそこに成長感が内包されている。
小4の単元から小5の単元に移るということは、
誰から見ても明らかなステップアップだ。
けれど、世の中において、
そういうわかりやすい段差は用意されていない。
仕事や専門によって、
まったく求められるものも違うために
比較もしようもなく、
だから唯一の共通言語である年収によって、
それを把握しようとしている。
けれど例えば、接客業において
接客のスキルが上達していくというのは
どういうことか?
個人の営業成績がわかるような形ならまだしも、
そうではなかったら
もうその周囲の人の評価によってしまう。
すると自分とは関係のない、
評価する人の考えに
右往左往することになってしまう。
そういうものに混乱している人はたくさんいる。
つまり、自分が止まっているのか、
進んでいるのか、そして進んでいるのだとしても
その方向がわからない。
らくだメソッドにおける算数・数学の学習は
その流れが明確にされているため、
自分の動きがありありとわかる。
そして、
流れのリモコン(どのプリントをやるのか?)が
自分の手元にあるために、
いつだって戻ることができる。
それがいわゆる自己効力感を、
知らぬ間に育んでいくのだろう。
このように、自分なりに分析して、
教材の中に組み込まれたシステムを
流用する取り組みを僕はもうすでに始めていて、
最近ずっとやっているグラレコ がそれだ。
今の僕がプリントをやらない最大の理由は、
グラレコにあると言っても過言ではない。
試行、記録、振り返り、修正。
らくだメソッドでやっているそれらは、
グラレコでこと足りてしまう。
そして描くことや構造化が
まだまだ苦手な僕にとって、
グラレコから学べることの方が多いのだ。
それでも、まだ週に1枚くらいは
プリントをやっている。
中途半端に続けるよりも、
やめてしてしまえばいいという考え方もある。
それでも続けるのは、一体なぜなのか?
自分でも不思議だった。
考えて、行きついた先は原点だった。
僕は高校数学をちゃんと学び直したくて、
らくだメソッドを始めたのだ。
小学校3年生だったかのプリントから始め、
今は高校2年生の単元に入っている。
今の僕は、らくだメソッドの学習を始めた頃の
自分が望んだことをできている。
だから、やめるという選択肢が
自分の中で出てこないのだ。
ただし、自分が望んだことをやっている
充実感はない。
こんなものか。難しいな。
そんな陳腐な感想しか出てこないのが本音だ。
そこからわかるのは、
案外「やりたいこと」「好きなこと」と
思っているものは、自分の中心点よりも
少し離れたものなのかもしれない。
例えば、見知らぬ土地の目的地に行く時に、
まず大きな目印を探すことから始まるだろう。
大きな施設や看板などを見つけ、
そこからどちらに向かえば
目的地に辿り着けるのかを探る。
「やりたいこと」というのは、
大きな目印みたいなものだ。
それを見つけるまでは必死に探している。
でも、見つかったからといって
目的地に辿り着けるのでもなく、
また大きな目印そのものへの関心は
なくなってしまう。
だから、「やりたいこと」「好きなこと」に
固執しても仕方ない。
むしろ、本当にそれが好きなのか?を
問い続けることこそ
まだ見ぬ目的地への近道だと感じている。
ただし、それでもまず「やりたいこと」を
やってみなければ
目的地に近づくこともできないのだ。
まとめ
前回まではプリント1枚やるごと
メモからの引用を行なっていたが、
そもそもプリントをやっていないのだから
書きようがないので割愛する。
かつて、就職活動をしていた時期に
「3年は同じ会社に勤めろ」と
口酸っぱく言われたことを思い出す。
3年続けたらなにがわかるのだろう?
そう思って、僕は首を傾げていた。
仕事とは違うけれど、らくだメソッドを
3年続けてみて、
「1周したなぁ」と感じる。
なにをもって一周というのかは
さっぱりわからないけれど、
1つ区切りがついた。
先のことはいつだってわからないけれど、
今後はこれまでと一線を画すような
展開になっていくのではないだろうか。
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(引用ここまで)
記事(その7)にわたしのコメントとして、
学習プロセスの段階を表す「守破離」で言うなら、
「守」の段階をほぼ終え「破」にさしかかった
タイミングにあるのではないか
ということを書きました。
「石の上にも3年」ということわざがありますが、
どんなことでも3年やってみると、
基本的なことはほぼ習得できると
考えてよいのかもしれません。
昨年、方条遼雨さんの『上達論』を読んで以後は、
「基本」とか「基礎」とかいう言葉を
あまり安易に使わないよう心がけてはいるんですが。
「破」の段階ということは、
本田さんはこのときすでに
グラフィック・レコーディングの学習を
始めていて、
ここからは横軸に広げていく段階と
書かれているとおり、
らくだメソッドで学んで身につけたことを
別の学習に活かして行くという、
次なるフェーズに入っていたわけです。
たとえば、
らくだメソッドの学習においては、
「1日1枚のプリント」というのは、
あくまで原則にすぎないので、
そうしなければいけないことはありません。
記事(その6)にも書いたとおり、
1日は24時間だれにも平等に与えられていて、
そのうち、学習に必要な30分程の時間が
とれないような人はほとんどいないはずで、
そうした事実から考えれば、
1日1枚のプリントができない理由など
どこにもないことになるだけなので。
そして、1日1枚のプリントを原則としつつ、
それと同時に、
学習に対するまわりからの強制を一切排し、
何を、どれだけ、どのように学ぶかについて、
最終的にすべてを決める権利を
学習者自身に委ねているので、
いま、ここ、自分つまり
内発的動機のみを手がかりに
瞬間瞬間を選択していく鍛錬になるのです。
このとき本田さんは、
週1回、教室にやってきたときだけ
プリントをやる状態だったとも
書かれていましたが、
学習者本人が選んでそうしているのですから、
まったく問題がありません。
また、プリントをやるときに
プリントだけに集中する姿勢は大事なんですが、
とはいえ、何かひとつの事に集中するということは、
言い換えると
それ以外をすべて排除してしまうことでもあるので、
生物的な視点からすると、
ひとつの事に集中してしまうことは、
非常にリスクの大きい状態でもあるわけで。
プリントをやること自体は、
学習のためのひとつの手段にすぎませんし、
とくに、大人がらくだメソッドで学ぶ場合、
ほとんどが、算数・数学の問題を早く正確に
解けるようになることが主目的ではないというのは、
記事(その1)にも書きました。
ときどき、プリントをやること自体が目的になり
プリントの問題を解くこと自体に
フォーカスし過ぎてしまう人がいるんですが、
そうした人は、
それ以外の場所に潜んでいる豊かな学びのタネを
見逃してしまいがちな傾向があって、
それはとっても勿体ないことではないかと。
本田さんは、
らくだメソッドにおける算数・数学の学習は
その流れが明確にされているため、
自分の動きがありありとわかる
と書いていますし、また、
教材としてのらくだメソッドの凄さというのは、
要するにそこに成長感が内包されている。
と書いているんですが、
これって、どういうことかわかりますか?
「ピアノ演奏」
「料理」
「鉄棒の逆上がり」という
3つのプログラムがあるとします。
これらはもちろん各々別のことで、
まったく関連性がないプログラムなんですが、
たとえば、この3つのことを新たに自分で学習し、
習得しようとしたとき、
もし、各々が上達し習熟していくプロセスに
共通する普遍的な要素があることを
単に大脳次元、言葉次元だけの理解でなく、
身体次元、無意識次元で
身につけることができていたならば、
以後、新しいことを学ぼうとしたときに、
それを応用することが
可能になるってことなんですが。。
でもこれは、体験のない方には伝達不可能なことで、
いま寺子屋塾に在籍して学んでいる
30余名の面々も皆、
「ここで何を学習しているかは
体験していない人には言葉で伝達不可能!」と
口を揃えて言っています。
それでも、こうして日々blogを更新し、
言語化することについては、
止めずにチャレンジし続けていこうとおもうんですが。
なお、本田さんのnoteにアップされている
元記事は次のアドレスからどうぞ!
明日の記事では3年3ヶ月のふりかえり文を
紹介する予定ですが、
そのふりかえり文にて
3ヶ月毎にふりかえりを書くやり方に区切りをつけ
以後は本田さん自身が節目と感じた
任意のタイミングで書く形に変更されたので、
こういう3ヶ月毎の記事を続けて紹介するのは
明日が最後になります。
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