あたりまえに見えることも実はあたりまえではない(つぶやき考現学 No.48)
2023/09/10
あたりまえにあるとおもっているものは
それがあることの有り難さになかなか気づけず
自分のまわりから失われたときにはじめて
それが何よりもかけがえのない
大切なものであったことにおもい至る。
心身の健康、おいしい空気、平和な社会・・・
いつでもあたりまえにあると
おもっていたこと自体が
じつはとんでもない錯覚、間違いであって
けっしてあたりまえではない
血のにじむような努力の積み重ねで
かろうじて成り立っていたものであり
あたりまえにあるのではなかったと気づいて
愕然としてしまう。
あたりまえにあるとおもっていたものが
失われてしまったあとではなく
失われるまえに
その大切さに気づくことこそ大切。
そして、それがあることが
けっしてあたりまえなどではなく
それを大切にしながら生きることが
いかに難しいことであるかを
つねに自覚できる人間でいたい。(2014.7.11)
※井上淳之典のつぶやき考現学 No.48
COMMENT:8月の半ばに近内悠太さんの
5回にわたって投稿しました。
その最終回の記事の後半部分で、
近内さんの本の第8章の後半部に、
休みなく岩をころがして
永遠に山の頂まで運び上げるという
無益で希望のない刑罰を課された
アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』が
紹介されていたことに触れています。
何も起こらないようなあたりまえの日常が、
じつは決してあたりまえなどではなくて、
無益で希望のないような労働を
日々黙々と重ねている
シーシュポスのような存在こそが
そうした日常を支えているんだと。
つまり、そうした日常は
あたりまえにあるのではなく、
顔も名前もわからないような、
無数の無名のアンサング・ヒーローによって
支えられているんだとありました。
近内さんの『世界は贈与でできている』を
まだ読まれていない方はぜひ
読んでみて下さい。