寺子屋塾生が書いているらくだメソッドの記事(その7・小6教材)
2024/07/07
2017年9月から寺子屋塾で学習している
板倉匡利くんは、すでに算数・数学教材を
最後までひと通りやり終えているんですが、
一昨年11月から二巡目の学習を開始しています。
二巡目は、ただプリントの問題を解くだけでなく、
プリントの中味を確認しながら、
板倉くん自身のblog
そのプロセスを紹介する記事を書き続けているので、
この寺子屋塾blogでも
学年別にまとめて紹介してきました。
・寺子屋塾生が書いているらくだメソッドの記事(その1・幼児教材)
・寺子屋塾生が書いているらくだメソッドの記事(その2・小1教材)
・寺子屋塾生が書いているらくだメソッドの記事(その3・小2教材)
・寺子屋塾生が書いているらくだメソッドの記事(その4・小3教材)
・寺子屋塾生が書いているらくだメソッドの記事(その5・小4教材)
・寺子屋塾生が書いているらくだメソッドの記事(その6・小5教材)
それで、この4月に小6教材が終了していて、
現在彼は中2教材を学習しています。
5〜6月はわたしが論語や易経関連の記事を
ずっと投稿し続けていたこともあって
すこし間が空いてしまったんですが、
彼が4/25に書いていた
小6教材全体のふりかえり記事を
以下ご紹介しようとおもいます。
(引用ここから)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
さて、らくだプリントの小6の教材が
ひととおり終わりました。
今回もこれまでの投稿を振り返って
思ったことを書いてみようと思います。
期間としては3か月ほど取り組んでいたようです。
31番まで教材がありましたから平均にして
1つを3回繰り返していたことになります。
3か月というと僕としても長いように思うのですが、
3か月前の投稿でもタイトルを見ただけで
なんとなくどのようなことを書いたか
思い出せるのは不思議なものです。
ひと通り振り返ってみても
小数に思ってもいなかったほど
苦戦したことから始まって
最後は方程式で直感が発揮した
教材だったなと思います。
小数のところについては今思い出しても、
まさか自分の中の不安が起因して
ゲシュタルト崩壊するほど自分のペースを
大きく崩されて時間をかけることになったのが
大きな出来事だっと感じています。
その小数が苦手なことから抱いた不安、
そして直感がはたらくと思ったこと、
これはどちらも観念だと
いえるのではないでしょうか。
小数のところでは観念に
大きく振り回されたように感じます。
その観念は自分で作り出しているものなので、
自分で自分を振り回していると考えたら
滑稽なことですけどね。
一方で直感がはたらくと思ったが
はたらかなかった時には、すぐに諦めがつきました。
小数の時のようにスランプに陥らなかったのは
ある意味、自分が作り出していた観念に折り合いを
すぐにつけられたからなのかもしれません。
結果としてその後に自然と
直感がはたらく時が訪れもしました。
では小数のところでもがきながら
取り組んでいたことはムダなことだったかというと、
そうは思いません。
むしろバカみたいにあえてじっくりと
向き合っていた、観念に付き合っていたことで
得られたこともあるように思います。
それはスランプに陥った時には
坦々とやるしかないということです。
これは定点観測のことにもつながりますが、
いかに無目的状態で取り組み続けられるかが
問われることとなるでしょう。
そしてやり続ければ、いずれは脱せられるのです。
この話をまとめると、観念を脱し方は2つあって、
1つは自分の観念と折り合いをつけること、
もう1つは向き合って坦々と続けることです。
もし今悩みがある人がこれを読んだのならば、
何かのヒントとなったらいいなと思います。
※引用元記事【観念を脱するには】
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(引用ここまで)
算数、数学の問題を解いているときに
目の前にある問題に集中することは
もちろん大事なことではあるんですが、
過ぎたるは及ばざるが如しで
そのことばかりにフォーカスしてしまうと、
大事なことを見逃してしまうことがあります。
とくに、らくだメソッドの学習においては、
プリントを学習している自分だけでなく、
学習しているその自分を
外側から俯瞰して観察する
もう一人の自分が作動し始めること
つまり、セルフモニタリングが可能になって
自己理解が進んでいったり、
そもそも学習することってどういうことなのか、
学習の本質について自分で
考えられるようになったりしていくところが
他の教材とは大きく異なる特徴なんですね。
ただ、こういうわたしの言葉や
板倉くんがこの記事で書いている
・自分の観念と折り合いをつけること、
・向き合って坦々と続ける
という言葉は、実体験や実感したことに基づく
内的観点からのものなので、
実際に自分でらくだメソッドで学習してみないと
なかなか伝わりにくいかもしれません。
人間というのは、たいてい
目の前の事実に苦しんでいるのではなく、
目の前の事実をどのように解釈しているのか、
その自分の解釈がうみだした観念に
苦しめられているんですね。
だから、そういうプロセスそのものを
認識できるようにする工夫———
つまり、自己観察している
もう一人の自分の眼を外側に持つというか、
その観念を、外側から眺めて、
事実と観念、自己認識を区別できるようになると
観念から解放されラクになっていくってことが
起きるわけです。
カウンセラーのレジェンド、
加藤諦三さんもほぼ同じことを書かれていました。
また、このあたりのテーマについては、
わたしも以前に
つぶやき考現学で書いたことがあるので、
未読の方は併せて参照してください。
明日は、板倉くんのらくだメソッドの
ふりかえり記事のその8で、
中1教材の部を紹介する予定です。