寺子屋塾

「情報洪水と価値の相対化」とは?(庄司薫『狼なんかこわくない』より)

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「情報洪水と価値の相対化」とは?(庄司薫『狼なんかこわくない』より)

「情報洪水と価値の相対化」とは?(庄司薫『狼なんかこわくない』より)

2024/12/06

少し前に塾生のひとりから、

「先生は毎日ブログを書かれていますが、

 何かを伝えたいという気持ちがあって、

 そうされているんですか?」

問われたことがありました。

 

 

まあ、ふつう、そういうふうにおもいますよね。

 

でも、わたしは、いわゆるイデオロギーの時代は

もう終わってしまったと考えていて、

正しさを主張するという行為自体が

そもそも成り立たなくなっているというか、

ほとんど価値がないと捉えているので、

基本姿勢として何か主義主張したくて

記事を書くことはほとんどありません。

 

少し前に、栗本慎一郎さんの著書

『ホモパンツたちへ』を紹介しながら書いた

経済人類学的恋愛論の総括の記事でも

書いたことなんですが、

端的に言うと

すべての物事は個別的、特定的であって

一般的な理解などというものはない

って捉えているからなんです。

 

でも、言葉は1つの方便にすぎず、

メディア、媒体にすぎないので、

こんな風にもっともらしく

言語化している行為自体が既に

「一般論」になってしまっているというのが

落とし穴でもあって。

 

もし、わたしがこうしてブログに書いていることを

読まれる皆さんが、鵜呑みにされたり、

コトバとして単に受け取られるだけだと、

そうした行為自体が既に、

「一般論的理解」となっているってことに

気づいている必要があるってことなんですが。

 

だから、わたしがブログに書いているような話は

あくまで読まれる皆さんの内側に

モトモトあるものが何なのかに気づくための

ひとつのトリガーでしかありません。

 

そういう意味で当塾では

〝教えない教育〟を看板にしているので、

そのコトバの向こう側に

コトバにできないような何があるかを

想像してほしいというか、

自覚的であろうとする姿勢が

大事であるというか、

自分のアタマで考えて

内側から答を出してほしいわけなんですね。

 

 

それで、今日の寺子屋塾ブログは、

こういうこと考えるようになったきっかけの書物、

わたしが小学校6年生だった

1971年に書かれ、

高校2年生だった16歳の頃に読んだ

庄司薫さんの『狼なんかこわくない』から、

情報洪水と価値の相対化 と書かれた節を

丸ごと引用して紹介することにしました。

 

内容的には、以前に書いた

次の記事とも類似しているテーマのものなので、

未読の方は併せてご覧下さい。

庄司薫『バクの飼い主めざして』のこと

 

 

『狼なんかこわくない』の扉には

次のような言葉が置かれています。

 

 

文庫本の裏表紙はこんな風で

表紙、カバー装丁は和田誠さん。

 

 

 

(引用ここから)

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23 情報洪水と価値の相対化

ところで、考えてみると、ぼくにおけるこのような二つの世代の境界的感じというのは、他もいろいろとあるように思われる。たとえば、活字文化からテレビ文化への移行といったものその一つだが、これはもっと一般的に言えば、情報洪水時代への対応の仕方、情報化社会への適応の仕方の特殊性として考えるべきなのかもしれない。


すなわち、ぼくの実感で言うと、ちょうど高校時代からテレビが始まって、例の好奇心に燃えるぼくはたちまち「テレビッ子」のハシリになってしまったわけだが、それと同時に活字文化も含む日本社会の全情報量は急に増加し始め、ぼくが『喪失』を書いていた頃には、とうとうとても追いつかないほどの加速度をもって社会の全情報が爆発的に増え始めた、といった感じがあった。


そして、このような情報洪水の中では、青春という時代も構造的に変らざるを得ない。何故なら、青春という時期は、若い人間が、その生きる社会の情報の一定量を習得することで伝統につながり、さらにそこで習得した情報の質と量が社会の全情報の中で占める意味を見定めることで自己と社会との関係を認識する時期と言うことができる。

 

言いかえれば、「成熟」するための情報の選択処理期間といってもいいわけだ。ところが、情報洪水の中ではこの情報の選択処理が困難になり、若者はその「成熟」を達成できぬまま、平たく言うといつまでも「オトナ」になれない不安定な状態を続けざるを得なくなってくる。つまり、青春における、成熟のための情報の選択処理期間という性格が基本的に崩れてきてしまうわけで、具体的にはいつまでたっても「大きな子ども」よろしくウロウロするような若者が増えてきてしまうことになる。


もちろんここで、いつの時代にも若者は情報の選択処理に悩んできたのであって、なにも現代の若者たちだけが困っているわけではない、という反論が例の「古典的青春論」的な立場から出てくるにちがいない。すなわち、いつの時代の若者も、歴史の重みともいうべき厖大な知識や技術の蓄積を前にして自らの卑小感・無力感に悩まされてきた。

 

しかし、古典的青春観に従えば、そういった不安と絶望をのりこえて創造的な価値を歴史につけ加え、さらに歴史自体を動かしつくりかえていくところにこそ「若さ」の意味がある(若者よがんばれ!)、といったことになるわけだ。ぼくは、このような古典的・楽天的見解が、原理的に正しいと認めたいと希望する点において、なんら人後におちるものではないと一応は考える。

 

しかし、ぼくが注目するのは、おそらくは 「許容量」とでもいうべきものについてなのだ。なにごとにも許容量があるように、人間の生存 に限界がある以上ぼくたちが処理できる情報にも許容量があるのはいうまでもない。そして、いつの時代にも若者は情報の選択処理に悩んできたのだ、といった楽天的一般的見解が、ついに現実にはナンセンスにならざるを得ないような全社会の情報量というのも、必ずあるにちがいないと思わざるを得ない。


しかもここには、20世紀を通じての最大の特徴ともいうべき、さまざまな絶対的価値観のいっせい崩壊、価値観の多元化・相対化、という巨大な底流がある。すなわち、情報量がいくら増えても、その選択処理の基準をなす価値観が社会を貫通している場合には、情報洪水はくいとめられる、少なくともその勢いを減速する期待はもつことができると思う。

 

ところがいまや逆に、その頼みとする価値基準がその絶対性を失ってひたすら多元化への方向をたどっているのだ。ここに情報洪水が、たんなる「量」の問題ではすまずに「質」の問題に転化する基本的構造があるにちがいない。つまり、ごく率直にいって、ぼくは、このぼくたちが生きている現代は、価値の相対化と同時進行する情報洪水が、若者が成熟するための情報の選択処理期間という古典的な青春のとらえ方の妥当する情報の「許容量」を、ついに越え始めた時期であると考えているのだ。

 

ここには当然いろいろな変化が起きてくる。たとえば、いわゆる青春期に若者は必ず成熟してオトナにならねばならない、などという固定観念は通用しなくなる......。ここから、今も言ったような、いつまでたっても「大きな子ども」よろしくウロウロするような若者が増えてくることになるわけだが、問題はそれが、ただウロウロするだけではとどまらない根深い危険を抱えているところにあると思う。「許容量」を越えて危険になるのは、なにも空気中の有毒物質だけではないのだから。


たとえばまず、知識にしても技術にしても、そもそも情報というやつは、ちょうど「もの」と同じに人間がそれを使うことを前提としている、という素朴な原則から眺めてみよう。そうすると、情報が「許容量」を越えてふえるということは、ぼくたちが使いきれない情報がふえるという意味になる。

 

そしてこの場合ぼくたちは、ちょうど未知の存在や理解できぬ現象に対してなによりもまず不安や警戒心や敵意を抱くのと同じように、使いきれぬ情報、使わぬ情報に対しても、 或る本能的な不安や敵意を知らず知らず抱くことになる。まるで、人間によって使われるために生まれた「もの」が、使われずに残される「スクラップの怨念」とでもいうものをぼくたちに向けて育てている、とでもいうかのように。

 

そして「もの」の場合には、「浪費は美徳」というスローガンがここに生まれた。これは、許容量を越えてやたらとふえ続ける「もの」とわれわれとの間にスモッグのように累積する相互不信を解消するための、その場しのぎの「生活の知恵」とでもいうべきものにちがいないのだが、同じことが情報の場合にも生じてくるわけだ。

 

すなわち、やたらとふえ続ける情報に関しても、われわれは、「浪費は美徳」的なムダ使いを強要されてくるような感じになる。「もの」の浪費とはすなわち「もの」を大切にしないことだが、情報の浪費というのも、すなわちこれまで人類がつくり上げ生みだしてきたさまざまな「英知」や知識をも含む情報を大切にしないことを意味するだろう(いわゆる「情報化社会」という時の「情報化」という言葉は、まさにこの意味を含んでいる)。

 

かくして、成熟のために必要な知識や技術や「生活の知恵」の獲得、情報の選択処理のための期間という意味での「古典的青春」を生きることを阻まれた若者は、そこで迷うだけではなく、このような現実の状況自体に対する敵意や憎悪を育てることになる。そしてこういう不安と敵意、そして憎悪や怨念は、やがてこのような現実をもたらした人類の歴史全体に対する拒絶反応にまで至るにちがいない......。

 

庄司薫『狼なんかこわくない』Ⅱ若さという名の狼について より(文庫版P.147〜152)

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(引用ここまで)

 

ここに書かれた内容を土台に

このような情報過多な時代を

具体的にどう生きるかについては、

一昨年に10回にわたって書いたので、

未読の方は次の記事もどうぞ!
情報洪水の時代をどう生きるか(その0)

情報洪水の時代をどう生きるか(その1)

情報洪水の時代をどう生きるか(その2)

情報洪水の時代をどう生きるか(その3)

情報洪水の時代をどう生きるか(その4)

情報洪水の時代をどう生きるか(その5)

情報洪水の時代をどう生きるか(その6)

情報洪水の時代をどう生きるか(その7)

情報洪水の時代をどう生きるか(その8)

情報洪水の時代をどう生きるか(参考本24)

 

 

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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は

 こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ

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