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若々しさのまっただ中で犬死にしない方法序説(庄司薫『狼なんかこわくない』その2)

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若々しさのまっただ中で犬死にしない方法序説(庄司薫『狼なんかこわくない』その2)

若々しさのまっただ中で犬死にしない方法序説(庄司薫『狼なんかこわくない』その2)

2024/12/07

昨日投稿した記事の続きです。

 

昨日は、1971年に書かれた

庄司薫さんの『狼なんかこわくない』から

情報洪水と価値の相対化 と題された節を

引用して紹介しました。

 

あの文章を

わたしが最初に読んだのは

高校2年生だった16歳の頃でしたから、

もうかれこれ50年近くも前のこと。

 

『狼なんかこわくない』は、

『赤頭巾ちゃん気をつけて』で

芥川賞を受賞した2年後に、それまでの経緯を

ふりかえって書かれた長編エッセイで、

このとき庄司さんは34歳。

 

庄司薫さんは1937年生まれですから、

わたしより22歳上のいわゆる団塊世代、

全共闘世代にあたり、どんな人なのかについては、

次の記事に少し書きましたので、

読まれると参考になるかもしれません。

庄司薫さんの小説(赤・白・黒・青4部作)のこと

 

わたし自身はそうした経緯に

リアルタイムで接してきていますが、

このブログ記事を読まれる皆さんにとっては、

現代とは背景の異なる

50年以上も前という時代に書かれ、

しかも、1冊の本の限られた一部分だけを

切り取った形のものですから

その主旨を正しく把握しようとしても

大きな困難が伴うのが普通でしょう。

 

それで、今日は『狼なんかこわくない』について、

どういう文脈で本書が書かれるに至ったか、

もうすこし背景的な話を紹介しておきたく、

文庫本の巻末に収められている

萩原延壽さんが書かれた解説文を

丸ごと引用して紹介することにしました。

 

ちなみに、萩原延壽さんは1926年東京生まれ、

2001年に亡くなられた歴史家であり作家で、
東京大学法学部を卒業され、

庄司さんの11年先輩にあたる方です。

 

(引用ここから)

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この本の魅力をどこに見つけるかは、ひとさまざまであろうが、わたしの場合、庄司薫君が青春の「倫理学」を語りながら、同時にそれが「政治学」にもなっている点であると、ひとまずこたえておきたい。ひとまずという留保を付したのは、この本をよみおわったとき、以上のような漠然とした感想がうかんだからで、それにどれだけ肉付けをあたえられるかは、まだわたしにも見当がついていない。


そこで、どこからはじめるか、であるが、さいわい、「純粋」と「誠実」という――庄司君のことばを借りれば――「最高を狙う」若者が青春のさなかで出会う「巨大な矛盾」を、庄司君が6項目に整理している個所があるので、それをまず引用してみよう(65ページ)。

 

 

1.人間にとって「純粋」と「誠実」こそ最高のものである。


2.「純粋」と「誠実」は、生まれつき与えられたもの、「若さ=純粋さ・誠実さ」といった気楽なものではなく、たんなる単純さや素朴さでもない。


3.それは、ぼくたちの一生を通じた「持久戦」の中で、一瞬一瞬戦いとらねばならぬ無限の到達目標である。


4.この持久戦を戦い抜くには、きわめて複雑で困難な戦局にも耐えられる強さが必要であり、その強さを支える現実的な力が必要となる。


5.しかし、その「力」を獲得しようとすればぼくたちはこの現実の比較競争関係に入らざるを得ず、その場合は必ず比較における優劣、競争における勝敗が大きくうかび上ってきてその過程でぼくたちは他者の力を弱め傷つけ、自分はその最も人間らしいなにかを「喪失」する。


6.しかもなお、ぼくにとってその最も人間らしい価値とは、「純粋」と「誠実」である。

 


庄司君がこの本の全体を通して、つよい疑惑の眼をむけているのは、しばしば「傷つきやすい青春」ということばに要約される、「古典的青春論」である。だが、その「古典的青春論」を上の6項目にあてはめてみると、最初の項目と最後の項目、つまり、「純粋」と「誠実」が美徳であることは教えてくれても、その中間に位置する4項目、つまり、その美徳を獲得し、保持し、拡大し、分配する過程については、なにごとも教えてくれない。いわんや、その過程にともなう代償、つまり、「喪失」については、まったく眼を閉ざしている、というのが、庄司君の主張である。


その結果、どういうことになるかといえば、いわば最初の項目を踏まえ、最後の項目を仰ぎみるだけで、動きのとれない、立往生の状態が出現することになる。しかし、「若さ」のエネルギーは立往生の状態をゆるさない。そこで、それが「被害者」意識にもとづく「他者否定」に走るか、あるいは「加害者」意識に由来する「自己否定」にむかうか、ともかく「犬死」という末路をたどることは眼にみえている。


かくして、最初の項目と最後の項目を媒介する中間項の発見が庄司君の課題になり、その課題をとくことが沈黙の「十年間」、 中央公論新人賞受賞から芥川賞受賞にいたる期間の意味ではなかったかと、わたしは推測している。


さて、庄司君がどういう中間項を発見したかは、すでに見た通りだが、それを要約すれば、「純粋」と「誠実」という美徳に「力」という援軍を付与したことだといえるだろう。「純粋」と 「誠実」が天賦のものでない以上、それは目標価値としてしか存在しえない。とすれば、その目標価値をめざしながら、じつは出発点のあたりで堂々めぐりをくりかえすのではなく、目標価値に到達する手段、それも人生という長い「持久戦」の試練に耐えうる手段を解明しなければならない。

 

そして、庄司君の着眼は、その手段には「力」という装備が必要だと結論したのである。これは、ひろい意味での政治的思考の導入であるといってよい。わたしが前に「倫理学」であると同時に、「政治学」にもなっているという感想を述べたのは、そのためであり、その政治的思考の必要を説いているのが、4つの中間項の骨子である。


しかし、本来、「純粋」と「誠実」という、目標価値に到達するための援軍として呼びよせた「力」が、自己運動を開始し、目標価値そのものに襲いかかり、それをかみ殺す危険がないわけではない。もともと「力」はニュートラルな性質のものであるはずなのだが、これまで数多くの「悪事」をはたらいてきたため、「権力は腐敗しやすい」 (Power tends to corrupt) という、有名なアクトン卿の命題があるくらいである。


だが、「力」を獲得する過程で、「自分はその最も人間らしいなにかを『喪失』する」とかき、 またこの本の別の個所で、獲得した「力」を社会に「還元」する意志と方法について語っている庄司君のことだから、このアクトン卿のことばを知らないはずはない。じじつ、「力」の問題性に関する省察は、さまざまな表現をとりながら、この本の中にくりかえし登場してくるのだから、これ以上わたしが蛇足を加える必要はないだろう。


ともあれ、「倫理学」の中に「政治学」を持ち込むという、あぶない、それゆえ勇敢な作業に従事しているところに、わたしはこの本の魅力を見つけるのだが、それがこの本の唯一のよみ方であるというつもりは毛頭ない。複雑な配線装置をほどこしたこの本は、そのどの一端からはじめるかによって、まだまだ別のよみ方を可能にする、たのしい誘惑に満ちている。

庄司薫『狼なんかこわくない』文庫版

 巻末に収録されている萩原延壽さんの解説文
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(引用ここまで)

 

この続きはまた明日!

 

【過去に投稿した関連参考記事】
情報洪水の時代をどう生きるか(その0)

情報洪水の時代をどう生きるか(その1)

情報洪水の時代をどう生きるか(その2)

情報洪水の時代をどう生きるか(その3)

情報洪水の時代をどう生きるか(その4)

情報洪水の時代をどう生きるか(その5)

情報洪水の時代をどう生きるか(その6)

情報洪水の時代をどう生きるか(その7)

情報洪水の時代をどう生きるか(その8)

情報洪水の時代をどう生きるか(参考本24)

 

 

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