「狼なんかこわくない」と言いきるために(庄司薫『狼なんかこわくない』その4・最終回)
2024/12/09
昨日投稿した記事の続きです。
12/7に投稿した記事から、
『狼なんかこわくない』のことを書いていて、
今日が4回目の記事になるんですが、
タイトルに記した通りこれが最終回になります。
これまでの記事を未読の方は、
昨日までに書いてきた次の3回の記事を
順番にご覧になった上で
本日の記事をご覧ください。
・「情報洪水と価値の相対化」とは?(庄司薫『狼なんかこわくない』より)
本日紹介するのは、
昨日の記事で紹介した箇所の続きで、
本書全体を総括している
最終章のエンディング部分です。
(引用ここから)
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6 「狼なんかこわくない」と言いきるために
さてところで、ここで話が終ればなんとなくかっこがいいとは思うのだけれど、実際問題としては、やはりここでも「人生という兵学校」は相当にややこしかったということについても触れるのが自然だろう。たとえば、ぼくにとって「最も嬉しい贈物」と思えた芥川賞が、その一方ではぼくを「マスコミ」という怪物を中心とする現代社会のまっただ中の「白兵戦」にまきこむきっかけになったりしたのだから。
芥川賞がたんなる文学賞をこえた一種の社会的事件になっていることはぼくも知っていたし、「ゲリラ」をめざすぼくとしては相当の覚悟もしているつもりだった。すなわちぼくは、芥川賞が一種の社会的事件になっているということは、要するに文学とは無関係ともいえる一種の虚名が先行し、その虚名めがけてさまざまな出来事が殺到するということなのだから、結局のところそういった本来の文学とは無関係な出来事についてはこれをいっさい拒絶すればいい、などと割りきって簡単に考えていたのだ。ところが、百聞は一見にしかずというか、「ゲタをはくまでは分からない」というか、世の中のことは結局その場になってみないとほんとうには分からないものだ。
つまり、なにごとにも「許容量」があるわけだが、それは「YES」と引受けられる仕事の量ばかりでなく、「NO!」と拒絶できる量についてもいえることらしい。しかもあえて言うならば、どうやらこのせわしない現代においては、「YES」と言うより「NO!」と言うことの方がはるかに時間とエネルギーを消耗する仕掛けになっている。
言いかえれば、何かをやることよりやらないですますことの方がむずかしい、といった倒錯した状況がそこにはある。そしてこの 「NO!」ということのむずかしさは、このエッセイの冒頭で述べたようなすべての○╳式的 「要約」を拒絶しようなどと肩に力を入れて頑張る時、極端に大きなものとなる。
かくしてぼくは、なんともおかしな話だけれど、要するに何もしないで頑張るという戦いのためにあきれるほどの力を使う羽目におちいった。言うまでもないことだが、人間にできることは極端に限られているわけで、ぼくたちはそのしたいと思うほんのわずかのことをするためにも、気が遠くなるほど多くのことをしないですまさなければならなくなる。
しかし、それにしても、そのしないですますことにあまりにも力を奪われる時、これをどう呼ぶかといえばすなわち「本末転倒」であり、これをどう形容するかといえばすなわち「滑稽」ではあるまいか?
もっとも考えてみればこの「滑稽」な「本末転倒」の責任はなによりもこのぼく自身にあったと思われる。例の好奇心というやつのせいなのだ。つまりぼくは、このぼくが生きている現代に対して貪欲といってもいいほどの猛烈な好奇心を抱いているのだけれど、その貪欲さときたら、ほかならぬこの自分自身が生命からがら右往左往するような事態さえも客体化して眺めてしまうほどのものらしい。
言いかえればこのぼくは、このぼく自身がそのたとえば「芥川賞作家」とか「薫ちゃん(!)」とかいった形でいわば当事者としてオタオタする状況を、この世界を知るための一つの貴重な体験として見つめ、そこから長期にわたるゲリラ戦の戦場訓のようなものを発見していこうとするような変てこに快活な好奇心を持っているらしい。これはしかしほんとに始末が悪い。
しかし落着いて考えてみれば、そもそもこんなことを平気で言えるようになったこと自体がぼくに一種の「免疫」或いは「筋肉」ができたことを意味するのではあるまいか、とぼくは今おおいに楽天的にそして希望をこめて観測している。『赤頭巾ちゃん気をつけて』に出てくる「馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死しないための方法序説」というやつには、「逃げて逃げて逃げまくる方法」という一章があるのだが、この章のエピローグは次のようなものだ。
某は高坂弾正と申て、信玄公御被官の内にて一の臆病者也。子細は下々にて童子共のざれごとに、保科弾 正鏡弾正、高坂弾正にげ弾正と申ならはすげに候。 ー『甲陽軍鑑』品第五巻第二 一ー
これに即して言うならば、(わが親愛なる「好奇心」には申し訳ないけれど)今のぼくの一つの大きな夢は、たとえば「某は庄司薫と申て、作家の内にて一の臆病者也」と言えるようになることであり、「庄司薫はにげ薫」という評判を確立することだと言ってもよかろうか。
そしてぼくは、そうやって得た「自由」の中で、例のぼくの大好きなあることないことを、いや、ないことないことをただひたすら書くことを夢見るのだ。ちょうどあのぼくの「若さ」のまっただ中における春休みに、ひとり部屋にとじこもってほかならぬ自分自身という強敵を相手にして必死に戦った時のように。
そしてまたそれから十年ののち、再び鉛筆をにぎって、ほとんど誰にも会わず口もきかず、ひとりぼっちでいつの間にかビッコひきひき歩いたりしながら書いた時のように。ぼくはそうして、さまざまな形で、たとえば「馬鹿ばかしさのまっただ中で犬死しないための方法」を描くことを夢見る。
何故なら、このエッセイで述べた「加害者」として存在せざるを得ない自己の発見、そしてそこから生まれる激しい自己嫌悪と自己否定の衝動が結局は閉鎖的な自己抹殺あるいは他者否定へと向うことの危険は、たんに「若さのまっただ中」における危険ではなく、現代そのものの危険にちがいないのだから。
またぼくは、たとえば「平和のさ中に戦闘者であるための方法」を描くことを夢見る。何故なら、平和のさ中の自己形成の困難、価値の相対化と情報洪水が同時進行する状況のもとにおける自己形成の困難は、これもまたたんに青春における問題にとどまらず、現代を生きるわれわれすべての問題にちがいないのだから......。
もちろんこれは、ぼくの夢にすぎない。したがって言いかえてみれば、ぼくがほんとうに「狼なんかこわくない」と言いきれるようになるかどうかは、この夢の将来、すなわちそのすべてが今後のぼくの努力にかかっているということになるのだろう。そして、でも今ぼくは、この自分自身の青春についてしかもその「ほんとのこと」を語るというどう見ても苦手な難事業を終えて、改めてぼくのこの「夢の将来」に望みをかけると同時に、このエッセイが、このたった今もその自分自身の「若さ」のまっただ中で、ほかならぬ自分自身という恐るべき最強の「狼」を相手にひたすら消耗的な白兵戦を戦い続けているにちがいない若い人々にたとえわずかな示唆なりとも与えられればとひそかに願っている。でも、それにしても青春とは、ほんとうになんという難しい時代なのだろうか。【183〜187ページ】
※庄司薫『狼なんかこわくない』文庫版より
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(引用ここまで・文中の太字化は井上)
「情報洪水と価値の相対化」に
書かれていましたが、
今日のような情報洪水の時代というのは、
なにもインターネットやパソコンが普及して
始まったわけではありません。
庄司さんが本書を書かれた50年以上前に、
すでに、若者が成熟するために必要な
情報の選択処理期間という
古典的青春のとらえ方の妥当する情報の
許容量を越え始めていたわけで。
「しないでもいいことをしない」ということが
いかに難しいことであるかが
書かれていましたね。
わたしが勝手に太字にした箇所
平和のさ中の自己形成の困難、
価値の相対化と情報洪水が
同時進行する状況のもとにおける自己形成の困難は、
これもまたたんに青春における問題にとどまらず、
現代を生きるわれわれすべての問題にちがいない
とありましたが、
本当にその通りだとおもいます。
庄司さんは「自己の客体化」という言い回しを
よく使っておられましたが、
この「自己の客体化」がまさしく、
当塾で実践している
セルフラーニングにつながる、
自己観察の姿勢と言ってよいでしょう。
いつもこのブログで書いてることですが、
まあ、自分の外側ばかり見てても
真実などどこにもないですよ!ってことです。
このような情報過多な時代を
具体的にどう生きるかについては、
一昨年に10回にわたって書いたので、
未読の方は次の記事もどうぞ!
ちなみに、冒頭の写真は、
1960年代から70年代にかけて
庄司さんが書かれた
薫くんシリーズ4部作の文庫版ですが、
オリジナルの中央公論社ではなく、
2014年に新潮文庫に収められた時のものです。
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こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ
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