自分の内側にある分離をどのように統合すればよいか?
2026/08/01
由佐美加子さんのザ・メンタルモデルについて
昨日の記事で最終回としたんですが、
7/20の読書会に参加されたお一人から
「自分の内側にある〝分離〟が
さまざまな問題を引き起こしていると
わかったんですが、
それをどのように〝統合〟すればよいのかが
よくわかりません」
という質問を頂いたので、今日はそれについて。
結局、言葉で説明可能な内容については、
昨日まで投稿した46本の記事で
ほぼ書き尽くしたと考えているんですね。
でも、その書かれた内容は
ひとつの媒体でしかなく
そこに書かれている言葉の意味を
アタマで解釈したところで何にもならないんです。
つまり、どうすればいいかというノウハウとして、
だれにでも当て嵌まるような正解が
用意されているわけでなく
言語化できないところにあるわけですし、
どうすればいいかは個別に異なるので
体験を通してでしか掴めない。
そのために、わたしは寺子屋塾という
日常的にトライアンドエラーを繰り返しながら
自由に対話できる〝場〟を設けているわけで。
でも、こういうことを言っていても始まらないので
由佐さんの動画を1本、
文字起こし付きで紹介することにしました。
この動画の後半部分で、
統合するプロセスについて具体的に
言及するだけでなく、
デモ実演しているところがあるので、
あくまで間接的なものでしかありませんが、
そこで語られていることを
自分自身に置き換えて考え、工夫し
日常的に実践できれば
もしかしたら参考になるかもしれません。
☆☆から自由になるシリーズ 第2回「人生の自作自演のドラマ」から自由になる
(文字起こし・ここから)
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カイくん:
皆さん、こんばんは。今日は「〇〇から自由になる」シリーズ、コミュニティラーニング第2回という形になっていまして、テーマは「人生の自作自演のドラマから自由になる」です。みーちゃん、ではチェックインからお願いします。
みーちゃん(由佐美加子):
はい。このオンラインのシリーズは、難しいことを一切やらずに、すごくシンプルに、かつ実践的に、日常で誰でもすぐ実践できるテクノロジーだけを伝えていきたいな、というふうに思って、カイくんと一緒にやっています。今日は「自作自演のドラマから自由になる」というテーマにしています。
前回は、「反応する」ということを扱いました。不本意に誰かを攻撃してしまうとか、防衛してしまうとか、そういう「反応」についてやりました。今回は、自分がどういう役柄を演じてしまっていて、それは何でなのか、ということを、すごくシンプルなフレームから見ていく形にしたいなと思っています。
カイくん:
はい、よろしくお願いします。チェックインは、名前と率直な気持ちと、もう一個問いを出しますね。「駆り立てられるようにやってしまうこと」「そんなにやらなきゃいいのに、やり過ぎてしまうこと」は何ですか?「なんでそんなにするの?」と人に言われるようなことですね。外側から見ていると、「なんでそこまでする必要があるの?」みたいに言われてしまうようなこと。駆り立てられてやってしまうことがあるとしたら、それは何だろうな、という問いで、湧いてくることをシェアしていただければと思います。
みーちゃん:
ウェルカム、皆さん。いらっしゃい。楽しんで。
カイくん:
では皆さん、チャットボックスを開いていただいて、右下にありますね。チャットで結構ですので、「こんなときに駆り立てられるようにやってしまいます」というものを、それぞれちょっと書いていただいていいですか。どんなことなのかな、というのを共有した上で進めていきたいなと思っています。
はい、来ていますね。「割り込みとか、ムカつく車。ムカつく車ってすごいですね。意味はないのに、ついて追いかけてしまう。」「常に最悪を想定して、準備・計画・分析する。」素晴らしい。「部下が困っていることを、なかなか聞いてもらえない。」うん。「泣く。悲しむ。」
なるほどね。
「仕事とか、うまくいきそうになると投げ出してしまう。」「入っていて硬くなり、自分のスペースから動じない。」「人となりを担うと張り合おうとする。」いいですね。「人生において何が本当か、人生のポイントとなるコツをメモに残すこと。3,300日、1日も欠かさず書き続けているメルマガ。」なるほど。「何かをしようとしてしまう。上に入ると、あれこれ先々の仕事まで準備しようとする。」面白いね。「仕事とかアウトプットについて『どう?』と聞かれたとき、つい良いように、ポジティブに答えてしまう。」「YouTubeを見始めると、あれこれ見始めてやめられなくなる。」「駆り立てられることが、あまりピンと来ていない。」駆り立てられるようにしていることに気づいていない、というのは面白いですね。
みーちゃん:
OKです。今日、何をしたいと思っているかというと、まず前提として、「人は、痛みを避けるために生きています」ということがあります。わかりますかね。その痛みを避けようとするときに、駆り立てられたように何かをやってしまっています。駆り立てられてやってしまうことは、なぜやってしまうのか。そこをちゃんと見ていくと、自分はどういうことを避けたくてこれをやっているのか、ということが見えてきます。
自分でちょっと考えてほしいのは、「このことは、どんな痛みを避けるためにやっているのか」「それをやっていると、何を味わわなくていいのか」ということです。自分が今書いてくれたものに関して、ちょっと見てください。痛みを回避するためにやっている行動の特徴は、駆り立てられるとか、不自然にやり過ぎるとか、「なんでそこまでやらなきゃいけないの?」と人に言われる、ということがよくあります。
つまり、自然な状態の行動としてやっていないんですね。ただ、たちが悪いのは、人間はそれを「情熱」に変えたり、「正しいこと」に変えたりして、正当化して生きているということです。だから、めちゃくちゃわかりにくい。この特徴は、これをやっても「喜びがない」というところです。そこがすごく特徴的になります。
本来、自分が本当に喜びだと思うことをやっているときには、最もエネルギーが回るし、最もバイタリティがある状態になれます。でも、この駆り立てられている行為に、人生のものすごく多くのエネルギーを持っていかれてしまっているので、基本的にそこでとても疲れてしまいます。
それが悪いわけではないんだけど、「やりたくてやっているんじゃない」というのがポイントなんです。では、まず自分で、今出してくれたものの奥に、何を自分は避けたいと思っているのか。もしくは、どんな痛みを味わわなくて済むのか。これをやっている限り、何を感じなくて済むのか。それをちょっと自分でメモしてみてください。
カイくん:
質問が来ています。「本当の自分の喜びからやっているものと、駆り立てられてやっているものの違いは何ですか?」
みーちゃん:
その質問が出るということは、喜びからやっていることがよくわからなくなっている、ということです。その違いがわからない。効力感と本当の喜びの違いが、もうわたしたちはわからないんですよ。いつも駆り立てられているから。基本的なデフォルトとして、自分が「これが喜びだ」と思っていることすら、痛みを回避するためのものなんですね。デフォルトとして。
カイくん:
デフォルトがそっちなんですか。残念だね、なんかね。
みーちゃん:
だから、達成しても疲れてしまうわけです。喜びって、基本的には決して疲れないから。
カイくん:
もう一つ質問です。「駆り立てられる」と「反応」の違いは何ですか?
みーちゃん:
反応というのは、自分の内側で起こっていることです。反応が起きるというのは、何かが瞬間的にトリガーされる、刺激される、何かが起こるということです。その後、駆り立てられて何かをやってしまうというのは、その反応が起こしているものです。本当は感情を見に行って、その奥にある真実を見なさい、というプロセスを踏むところを、それをなかったことにして、感じないために、外側に向かって何か行動してしまう。その痛みを回避する行動をしてしまう。それが「駆り立てられる」と言っていることです。
反応というのは、本来、感情メインなんですね。内側で起こるわけです。でも、その反応を内側に見に行かない。感じに行かないんです。その瞬間、私たちは痛みに触れてしまうんじゃないかと、瞬間的に反応だけが立ち上がっている。それをシャットダウンするために、すっと外側に入って、行動を通してその痛みに行かないようにする。これが「駆り立てられる」ということです。では、質問がないようでしたら、なぜそれをやってしまうのか。回避しているものを見に行ってください。
カイくん:
皆さん、続々と書いてください。ではまたチャットで、気づいたこと、自分のその反対側が何だったのか。避けたい痛みは何だったのか、落ち着いて書いてもらっていいですか。「予想外の自分と出会うのが嫌」「組織に対して必要なことをやってしまう。自分のことは二の次にして行動して、その組織に必要とされたい。必要とされないと存在価値がない」うん。
「人のつらい顔を見るのがつらい。」でもそれって、その人の体験を妨害している、みたいなことでもありますね。「拒絶」「自分は必要とされない。必要とされなければ、ここにいられない」「駆り立てられるようにしゃべり出す。役立つ人であると認められたい」「お前は大したことないな、と見下される」「居場所がない。存在価値がない、ということですかね」「孤立。そこにいないかのように放っておかれる」「役に立たない自分であることを見せられるのが嫌」はい。
みーちゃん:
大抵そんなものですね。ありがとうございます。共通しているテーマが見えますか。皆さんのこの全員分。何が共通だと思いますか。みんなが避けた痛みの共通項です。
それは「分離」です。分離は、人間の痛みの根幹なんですね。生まれてきたときに分離するじゃないですか。母親の胎内で、すべては一つという世界でぷかぷか浮いていた状態から、バーンと世の中に出された瞬間に、個として分離するでしょう。そこがやっぱり、痛みの根っこなんじゃないかなと思います。必ず分離があります。
この分離の体験をどう受け取っているかには、若干バリエーションがあるんですよね。そこに、見捨てられるという形で出る人もいるし、受け入れられないという形で出る人もいるし、拒絶もいるし、自己価値がないという形で出る人もいる。でも基本的には、分離の痛みなんです。では、この分離感をどうやって統合していくのか。ここで大事なのは、今のやり方、つまり駆り立てられるようにやっている行動を続けても、痛みはなくならないということです。これがミソです。
では、どういうふうにこの分離感を扱っていくのか。基本的には「受容」にあります。受容とは何かというと、「痛みは、頭が作り出した概念にすぎない。受け入れたらいいのは感情である」ということです。いいも悪いもつけないで、「あるものはある」と、身体で受け取っていく。そのキャパをつくっていく以外に、統合の道はないです。
私たちのエネルギーを統合しているのは、頭の思考ではなくて身体なんですね。この身体が全部を統合しているわけです。私たちの分離を作り出しているのは身体だけれど、統合しているのも身体だ、というところがすごくポイントです。なので、身体の力を使います。頭で分離させてしまったものを、身体で統合させていくというプロセスです。ここまでOKですか。
では、ちょっと誰か、デモで相手になってほしいんですけど、誰かやってくれる人はいませんか。何をしてほしいかというと、今のやつを統合していくプロセスをやります。見ていてもらったら、大体わかると思います。統合を頭でやるのはすごく難しいので、身体を使います。感じることが、受容の最強の機能なんですね。
だから、自分の身体の中にあるエネルギーを感じて、その言葉から反応しているエネルギーを自分で全部受け取っていく。そういうプロセスをやっていくと、統合されていくということが起こります。すると、その言葉に意味がなされなくなります。エネルギーとして統合されていたら、分離してエネルギーに反応することができなくなるからです。
だから、頭で考えてもダメなんです。今、私は少し言葉でサポートしていますけど、基本は自分の中にある感覚を追いかけていく、というのが技なんですね。とにかく感覚を追いかけていく。「私はこれに気づけます」という形で追いかけていけば、身体のレベルでは統合していけると思います。
カイくん:
はい、ありがとうございます。では最後に、まとめ的にお願いします。
みーちゃん:
ドラマは何で起こってしまうのかというと、痛みを回避したいからです。そして、「痛みを回避したい」と思って生きていることに、ほとんどの人は気づいていません。その痛みの実態は、「痛みがある」という記憶と概念なんじゃないか、というのが今の仮説です。その痛みを取り巻いているところに、過去に身体の中に残っている、感じ損ねている感情が蓄積されている場合があります。悲しみと怒りが、やっぱりそこにはすごくたまっている。
その痛みを一所懸命回避しようと思って、外側で駆り立てられたようにいろんな行動をしているんだけれど、その行動をどんなに重ねても痛みはなくならないし、実際には回避できていない。結局すごく疲れてしまう。でも、その行動パターンを止められない。自動行動としてそれがセットされてしまっているから、生きている中でその痛みに触れそうになると、駆り立てられたように、その一つのパターンのコードを繰り返してしまう。そして、満たされない。そこに不自由さと苦しみがあるんじゃないかな、という仮説があります。
では、どう扱っていくのか。感じ損ねている感情を統合したり、身体のいろんなところに残っている分離したエネルギーを統合したりするには、やっぱり身体を使うしかありません。どんなに頭で、「駆り立てられてやっている行動はよくないから、逆をやろう」としても、全然歯が立たないんです。それは、身体の中に残っている感情だったり、いろんな重さだったり、人がそう表現するような感覚だったりします。それを身体の器で統合できたときに、その痛みをつくっている概念だったり、その言葉で反応するようなものの扱い方が変わります。
なぜかというと、分離しなくなっているからです。そこに反応が起きなくなる。私の一部であるものには反応しません。分離しているものに反応しているんです。だから、そこに統合がもたらされると、そのことに関して反応が起きなくなる。あとは、駆り立てられてやっている行為の裏に、避けたい痛みが必ず眠っています。「なんか、こういうふうにやっちゃってるな」と思ったら、その裏側を観に行って、そこに気づいてもらうだけでも、すごく価値があるんじゃないかなと思います。駆り立てられるようにやってしまうのは、痛みを避けるためです。
ただ、そこに効力感があったり、人から認められていることもたくさんあります。だから、「なんでこんなに疲れるんだろうな」となる。それは、喜びではなくて、痛みを回避しているだけなんです。あるところまでは行くんだけど、本当の意味での自由と充足が来ない。そのキャラから抜けられないんです。自分がもう、それ以外の私にはなれなくなってしまう。「いい人」だったり、「優しい人」の反対側にはなれない。「面倒見ない人」にはなれない。そういうことです。
カイくん:
なるほど。そんな第2回でした。はい。
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(文字起こし・ここまで)
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