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なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか?(その8・最終回)

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なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか?(その8・最終回)

なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか?(その8・最終回)

2023/05/30

5/23よりこのblogでは、

なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか、

「対幻想」という概念を生み出した吉本隆明さんが

なぜ日本人だったのかについて

考察する記事を書いてきたんですが、

もうこれで8回目になるので、

そろそろ区切りをつけようとおもっています。

 

未読の方は、まずは次からどうぞ!

なぜ「対幻想」は日本で生まれたのか?

(その2)

(その3)

(その4)

(その5)

(その6)

(その7)

 

阿部謹也さんの『世間とは何か』や、

夏目漱石の講演録を紹介しながら、

外国にはあまり見られず、日本社会に特有の

「世間」と「社会」の二重構造が

どのような経緯で生まれてきたかについて

触れてきました。

 

夏目漱石という人は、

「日本には個人がない」と慨嘆するだけでなく、

社会と個人のかかわりについて、

真剣に考えた人だったと言ってよいでしょう。

 

「日本という国で、個として目覚めた人が

 もし、自分なりの生き方をしようとしたときに

 どのような障害に見舞われるか」というのが、

漱石が書いた小説に共通するテーマです。

 

ただ、阿部謹也さんも『世間とは何か』で

指摘されていたんですが、

日本においては、世間というものが現実に

はっきりした輪郭を持っていたにもかかわらず、

漱石は、西欧流の社会をイメージしながら

日本の個人を捉えようとしたために、

世間と社会を区別して

考えられなかったんじゃないかと。

 

たとえば、『坊っちゃん』という小説は、

学校という世間を対象化しようとした作品ですが、

『坊っちゃん』の読者は、

坊っちゃんに肩入れしながら読んでいる一方で、

みな現実には自分が坊っちゃんではなく、

世間というものにどっぷり浸かった

赤シャツの仲間でもあることを

薄々感じとっているわけです。

 

よって、そうした世間に対する無力感のために、

架空の作品の中で赤シャツや古狸を懲らしめ

活躍する坊ちゃんに

快哉を叫んで溜飲を下げることで、

ガス抜きにはなるかもしれないけれど、

世間を対象化できたわけではないでしょう。

 

最近の人気TVドラマで言えば、

『半沢直樹』のような存在というか、

ああいうドラマがヒットしたからと言って、

そのことで日本の政界、財界が

根本から体質を改めようとする動きが

起きてくると考える人は

たぶんそんなに多くはないでしょうから。

 

 

とはいえ、わたしは単純に、

欧米のようなあり方が「良い」ことで、

日本のようなあり方が「悪い」ことだと

単純に考えているわけではありません。

 

たとえば、

東日本大震災のような大きな災害が起きた時でも

日本ではパニックや暴動、略奪などが起こらず、

食料支給時においても

行列をつくって順番をしっかり守る様子に

世界各国から驚きの声が上がったんですが、

これは世間の良いところですね。

 

世間の悪いところは、同質性を強調する集団のため

同調圧力が強く、

コロナ禍での自粛警察やマスク警察などを

生み出したことなどがそうですし、

 

また、昨日5/29は、

岸田首相が秘書官の長男を更迭したニュースが

流れていましたが、

公職に身内の人間を就かせるようなことは

まさにそうで、

公的な立場とプライベートの区別すら

できない振る舞いというのは、

その親にしてその子ありということでしょう。

 

「社会」の逆が「世間」であり、

多数の「私」が溶け合っているのが「世間で」

そこには「個」は存在しないと

5/4にtwitterで書いておられた

山口周さんの言葉をおもいだしました。

 

 

さてそれで、吉本さんという人は、

日本のこのような世間—社会という

二重構造状況をふまえて、

どう捉えてどのような視点を持てれば、

根本的な解決につなげられるのかと

考えられたわけです。

 

 

個人と集団というのは、

このように逆立する関係にあるので、

個を立てれば集団が立たず、

集団を立てれば個が立たずで

対立関係に陥りやすいんですね。

 

そこで、個と集団の間に対幻想、つまり、

夫婦、親子、兄弟姉妹という家族を位置づけ、

「個人」ー「家族」ー「社会」という三者関係で

捉えることですわりがよくなるというか。

 

しかも、それぞれすべて異なる次元に属し

同類ではない独立した存在であると。

 

上の図は、宇田亮一さんの

『吉本隆明「共同幻想論」の読み方』から

拝借したものなんですが、

人間はすべて父親と母親との交わりがあって、

母親のお腹から生まれるわけですし、

対の関係が最初にあり、そこが母体となって、

個人も社会も分化、分離して行くと考えるのは

無理がありません。

 

あと、なぜ三者なのかというところから

おもいうかんだことは、

河合隼雄さんが、

『中空構造 日本の深層』に書かれた、

古事記に登場する日本の神さまは、

3者がセットになっているって話でした。

 

 

 

この天之御中主、月読、火須勢理という

真ん中にいる神さまは、

何をしているかよくわからないというか

何もしない神さまらしいんですが、

どうもこうした三者関係というのが、

日本的システムのひとつの特徴なのではないかと

河合さんは結論づけられています。

 

 

そもそも『共同幻想論』が

『古事記』と『遠野物語』という

日本の神話や民話を記した書物をテキストに

読み解きながら書かれた書物なので、

「対幻想」という概念が日本で生まれたのは、

当たり前と言えば当たり前の話です。

 

また、吉本さん自身の敗戦体験は

外せないということは分かっていたので、

今回は主に〝世間〟という言葉をキーワードに、

江戸末期から明治にかけての

日本が近代化していくプロセスと

対幻想誕生の背景を絡めながら探ってみました。

 

日本文化の特徴とか、

日本的なるものとは何かとなってくると、

あまりにテーマが大きすぎて、

簡単には追いかけられないところがありますし、

今日の記事で触れたような、

日本の神さまがなぜ三者関係なのか

ということの周辺については、

いずれ考えてみたいテーマです。

 

※古事記の神さまの図版は、NHK-Eテレにて

2015.1.2に放映された『100分de日本人論』より

 

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