そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その4)
2023/09/16
昨日投稿した記事の続きです。
ウィトゲンシュタインの話題から端を発し、
そもそも〝わかる〟とはどういうことかを
考察しているんですが、今日で4回目となりました。
だいぶ長くなってきたので、
これまでに書いた3回分の記事内容を
まずざっと整理しておきましょう。
これまでの記事中に紹介したリンク記事などは
最後にまとめてシェアしておきますので、
未読記事があれば確認してください。
まず、(その1)では、佐伯胖さんや
阿部謹也さんの著書に書かれたことを紹介しながら、
学習者にとって、何かが「わかる」ということは、
まわりにいる教える人間が、
分からせようとはたらきかけることで、
人為的に達せられるものではなく、
学習者たちが他者と主体的に関わろうとする中から
自発的に生まれるものであって、
そうであればこそ、
わかるということは、
学習者自身の実践と変容を伴ってはじめて
言えることだということに触れました。
(その2)では、(その1)の最後でシェアした
福岡伸一さんと山口周さんの
対談記事をおさらいしたんですが、
知識や情報を単にアタマに
インプットするだけの行為というのは、
「わかる」とは言わず
「知る」と言うべきであって、
もし、アタマの中にただ知識を詰め込むだけなら、
そのことにどれだけの価値があるのか、
疑問を呈したわけです。
でも、「わかる」なのか「知る」なのか、
あるいは、「わかる」についても、
まったくわからない状態を0、
完全にわかっている状態を100として
数値化したとしても、
どれだけわかっているかという理解度合いは、
その本人のアタマの中にしかない
見えないことですから、
確認する術がありません。
それで、「わかる」とはそのまま
「変わる」ことだというのは、
いったい何が「変わった」のか?と問うたわけです。
つまり、このことを言い換えれば、
結局わかったことによって、
自分がどれだけ変化し得たかを
学習者本人が実感できているかどうかが
重要ということで、
そういう意味では、共感すること以上に
違和感を掘り下げることもまた
必要になってくるんだと。
(その3)では、
(その1)(その2)をとおして見えてきたのは、
「わかる」とは「変わる」ということであり、
「わかる」と「知る」の区別についても
現実には自覚すること自体が困難で、
簡単には実現しないことに触れました。
でも、その難しいことを、すべてに優先させて
実現すべき重要なことであるかどうかを
問うとなると、
必ずしもそうとは言えないんじゃないかと。
つまり、「わかる」ということについては、
自分の辞書で解釈することこそが
わかることなんだというような誤解もあるので、
相手の文脈に自ら飛び込むナンテことは、
容易に実現出来る生半可なことではないと
認識する姿勢と同時に、
「わかる」ことを必要以上に
重視しすぎない姿勢もまた重要で、
「わからない」ままでもやってみる姿勢や、
わかったつもりにならず
「問い」を持ち続けることの大切さに
触れたわけです。
さて、以上長々とふりかえってきた
(その1)から(その3)をふまえ、
(その4)とした本日分の話ですね。
(その1)で「わかる」ということを数値化し、
まったくわからない状態を0、
完全にわかった状態を100としても、
この2つのうちのどちらかしかないわけではなく
両者の間には100通りどころか、ほぼ
無限のグラデーションが存在すると書きました。
でも、ちゃぶ台返しのような言い方に
聞こえるかもしれないんですが、
わたしはそもそも、この完全にわかる、
100のうち100わかるなどということは
あり得ないんじゃないかと考えているんです。
じつは、このようなことを以前に
つぶやき考現学として書いたことがあり、
その詞を紹介しながら詳しくコメントしたので、
次の記事をご覧ください。
この「わかることには際限がない」という話は、
人間の大脳のはたらきそのものに対する
根源的問いかけでもあります。
(その1)の記事の最初の方に、
何かが「わかる」ということについては、
教えようとする外側の人間から
人為的に与えられるのではなく、
学習者自身の内側から起きてくるものと書きました。
その後に続けて書いた、
「わかる」ことが「変わる」ことであるという話も、
大脳がわかるから、その結果として
視座や行動が「変わる」という風に見えて
そのじつ、順序が逆で、
視座や行動が「変わった」ことを
事後的に大脳が後から追いかけ、
後付けで認識したという風にも言えるんだと。
つまり、わたしたちが「わかる」という言葉を
使うときには、
自分の外側からやってきた情報を
うまくキャッチして、
それを自分の中に取り込むようなイメージが
強いんじゃないかとおもうんですが、
実は、外側にあるものや
外側から与えられる刺激は、
学習者にとっての呼び水というか
あくまでひとつのきっかけにすぎなくて、
もともと自分の身体に内在している
既にわかっていることを確認し、
掘り起こしたり、深めたりしているんじゃないかと。
そのように捉えてみると、
アタマで「わかった」ことを
いざ、行動に移そうとしたとき、
現実にはなかなかおもいどおりに
動いてくれないことが少なくないのがなぜなのか、
その理由が見えてきますね。
つまり、身体の動きを
アタマがすべてコントロールしているという
認識自体が幻想であって、
実際には、大脳にできることは
ブレーキをかけることぐらいであって、
身体が先に動いて、
大脳がそれを後から認識しているのが
本来の姿であるわけです。
しかも、大脳思考ばかりが優位にはたらいて、
頭でっかちになっている現代人には、
この大脳と身体のインターフェース順序に
取り違えがあることすら
気がついていない人たちが
すくなくないんじゃないかと。
この続きはまた明日に!
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