愛することと恋すること⑪最終回 〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論(総括その3)
2024/10/22
昨日10/21投稿した記事の続きです。
栗本慎一郎さんが1982年に出版された
3つめに置かれている
「恋することと愛すること」の章を
10/12〜18まで7回にわけて紹介しました。
また、その内容の前提となる考え方が
「恋することと愛すること」の前の2章に
書かれていたことをおもいだし、
急遽それを要約、抜粋した記事を大前提編として
10/19に投稿しました。
順序としては逆になってしまったので、
この記事から初めてアクセスされた方は
⑧大前提編を先に読まれることをお奨めします。
そして、一昨日10/20からは、
わたし自身の恋愛経験も踏まえつつ、
①〜⑧に対しての総括コメントを書き始め、
本日分で3回目になりました。
1〜2回目の内容をふまえた記事になるので、
未読記事がある方は、まずは次からご覧ください。
さて、昨日までの総括その1、その2で
大事なところは概ね書けたように感じていますし、
そろそろ締めくくりたいと考えているのですが、
いずれにしても、けっして
わかりやすい話ではなかったことは確かなので、
これまで書いてきた内容を補足しながら
全体を総括できればとおもいます。
たとえば、昨日の記事では⑧大前提編を整理して
・あらゆる生物は生まれながらにして
〝この世のすべて〟を理解する力を持っている
・すべての物事は個別的、特定的であって
一般的な理解などというものはない
ということを書きましたが、
わたしたちは学校でこういうことを習いませんし、
納得できないとおもわれる方も
少なくないかもしれません。
でも、そんな風に
「これは正しい」「これは間違っている」と
判断しようとしている姿勢自体が、
一般的な理解、つまり正解が存在していることを
前提としているわけですから、
理解が「ことば」次元にとどまり、
「ことば」に囚われてしまっている
可能性が高いわけです。
さきほど、
わかりやすい話ではなかったことは確か
と書きました。
でも、そもそもこの〝わかる〟というコトバが
本人の主観にすぎない
はなはだ曖昧なものですし、
コトバ次元で「わかっている」ことなんて、
ほとんどはおもいこみであり、
勘違いだと考えた方がいいんじゃないかと。
だからこそ、自分にとっての
「わかっている」ことと「わかっていない」ことの
境目がどこにあるかを常に意識して自覚し、
「問いを立てること」や
「対話的なやりとり」が大事なわけなんですが。
とにかく、7回・・・いや8回に分けて紹介した
栗本さんの文章を繰り返し繰り返し
読んでみて下さい。
①人は恋の衝動によって、実はそれを通じて
自己や共同体の維持、保存を求めて動いている。
②愛とは恋と重なることもあるが、
むしろ自分の身よりも相手を保護したり、
救ったり、後押ししたりする相手中心の行為を
自らに課することである。
③ところが、この愛という苦しい行動を、
人間は心の底では恋以上に求めている。
愛に何を求めればよいのか――、
その①相手に自分の愛を押し付けても
プレッシャーをできるだけ感じさせないこと
その②愛とは最終的に自己のためにあるのだから、
愛しうる相手を慎重に選ぶこと
その③愛において唯一相手に求めてよいのは、
愛してしまっている自分への許しを求めること
などなど、とくにまとめにあたる⑤⑥⑦には
大事なことがたくさん語られていましたね。
でも、これをどう読み解くかについては、
唯一の正しいやり方があるわけではないので、
とりあえずは、あなたなりの
読み解き方をするしかありませんから。
すべての物事は個別的、特定的であって
一般的な理解などというものはないって話が
あまりピンとこないという方は、
次にシェアする東京大学東洋文化研究所
安冨歩教授(2023年末に退職)への
インタビュー記事をご覧ください。
終盤部にある重要箇所、関連箇所を
こちらにも抜き書きして引用しておきます。
(引用ここから・太字は井上)
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―― 先生の研究は、現実世界と非常に近いところにありますよね。
結局研究も、基本的には自分の問題として考えています。自分がくだらないことに囚われて、それによって自分がひどい目に遭うのを減らすための研究なんですよね。そういう研究は楽しいし、研究によって生きるのが楽になってくる。ただ、直接自分の盲点について考えることなんてできない。なぜなら盲点なんだから。そこでどうするかというと、満洲事変とか・・直接には関係のない対象に没入し、おのずから自分のまずい部分、無意識に入っていた部分が現れてくるようにするんです。これはすごく大事な方法だと思っています。
研究というのは、みんな私自身のための研究なんですよ。親鸞は、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と言います。阿弥陀の本願があり、ブッダの教えがあり、インドや中国の偉いお坊さんの教えがあり、そして法然上人から今私が受け取ったこの教えをつらつら考えてみるに、これは親鸞ただ一人のためにある、なんて言うんです。これはなんとありがたいことかって。それしかないと思うんですよね、知識というのは。
オーダーメイドなんですよ。マイケル・ポラニーの言うように、自分用の「個人的知識(personal knowledge)」しかないんです。世界のどこかにあるはずの自分用の知識を、自分で読み解く。そういうふうに考えると、他の人の研究って、すごくありがたいんです。自分が考えるためのよすがだったり、考えようと思っていたことを代わりに考えてくれたり。そのかわり、自分が納得できないものは、たとえどんなに世評が高くとも、価値はありません。自分でやった研究も、たとえどんなに他人が褒めてくれようとも、無価値です。なぜなら自分が納得できないのですから。それが学問というものではないでしょうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(引用ここまで)
すべての物事は個別的、特定的であって
一般的な理解などというものはないってことに
関連する箇所は太字で示しました。
セルフラーニングとの関わりで言うと、
たぶん、多くの大人の人にとっては、
算数・数学のプリントを学習することは
やってもやらなくてもどちらでもいいことで、
非日常的なことだとおもうんですが、
それは、上記の記事にあるように、
直接自分の盲点について考えることなんてできない。
なぜなら盲点なんだから。
そこでどうするかというと、満洲事変とか・・
直接には関係のない対象に没入し、
おのずから自分のまずい部分、
無意識に入っていた部分が現れてくるように
しているわけです。
安冨さん自身もこれについては、
「すごく大事な方法だと思っています」って
書かれていますが、
なぜ、いまこの寺子屋塾では、
大人の人たちが、
算数や数学のプリントに
日常的に日々取り組んでいるかというと、
そのことが非日常的で
自分と直接には関係のない対象であるからこそ、
無意識領域や盲点までを含めた
自己観察につながる可能性があるからなんですね。
あと、昨日から繰り返し繰り返し書いている、
すべての物事は個別的、特定的であって
一般的な理解などというものはないというのは、
〝恋愛〟に関してもそのまま言えることで、
すべての恋愛は個別的、特定的であって
一般的な恋愛などというものはないわけです。
一般的な〝恋愛〟など
この世に存在しませんが、
でも、恋について、愛についての〝本質〟が
どこにあるかを問う姿勢は重要だとおもうわけで、
その本質について考える上で
最も重要なキーワードは
④の最後の方で栗本さんも紹介されていた
吉本隆明さんがつくられた〝対幻想〟ではないかと。
さらにいうと、個人幻想、対幻想、共同幻想という
3つの幻想世界が
相互にどのように接続しているかを含めて、
全体として捉えられているかどうかが
個人的にはとても重要だとおもっているんですが。
最終章「いのちの時代に生きる」に
そのあたりの話が詳しく展開されていますので、
関心のある方は本書を入手しご覧ください。
・・・てな感じで書いていくと
キリが無くなりそうなので、
まだまだ書き漏らしたことはいくつかあるんですが、
別途テーマを変えていずれ書くことにして、
愛することと恋すること
〜栗本慎一郎の経済人類学的恋愛論は
このあたりで締めくくろうとおもいます。
これまで投稿してきた記事で、
恋愛やその周辺にまつわる内容のものは、
ピックアップしてシェアしておきますので、
未読の記事があれば、
そちらをアクセス頂けると幸いです。
【恋愛やその周辺をテーマに書いた過去記事】
・インタビューゲームでなぜ人生が変わるのか(番外編2・二村ヒトシ『すべモテ』)
【栗本慎一郎関連の過去投稿記事】
・もともと知っているのなら、なぜわたしたちは本を読むのですか?
・栗本慎一郎「ユニークであろうとすればユニークにはなれない」(今日の名言・その76)
・「統合する」ということ(その1)栗本慎一郎『パンツをはいたサル』①
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●2021.9.1~2023.12.31記事タイトル一覧は
こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ
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