改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その20)
2023/06/25
昨日投稿した記事の続きです。
改めて、「書くこと」と「教えない教育」の
関係を明らかにする というテーマを設定し
書き始めたこの記事も、
回を重ねて今回で20回目となりました。
したがって、いきなりこの記事から読まれても
前提となっている話や
これまでのプロセスがある程度見えないと、
主旨が伝わりにくいかもしれないので、
未読記事のある方は、
この記事の最後に記した
関連記事リンク集から
適宜アクセス下さるとありがたいです。
昨日は昼間に中村教室で22回目の
インタビューゲーム4時間セッションが
ありました。
インタビューゲームについては、
このblogでも何回も紹介してきたんですが、
プログラムのなかで
インタビューのまとめを書くプロセスは、
ずっと前回までこのblogで19回にわたって
テーマとしてきた
「教えない教育」と「書くこと」のつながり
に関わることであり、まさに
考現学そのものなんだ!と気付いたことから
松岡正剛事務所のニュースレター
一到半巡通信 No.57(2000年9月)に掲載された、
平井雷太さんの 松岡さんは私にとっての
「教えない教育」 の先生でした という記事を
ご紹介しました。
「インタビューは初めてだったのにもかかわらず、
できるできないを考えず、できた結果を評価せず、
まずやってみることで、
自分なりにできてしまった」という話は、
「人からちゃんと教えてもらわないと
インタビューなんてできない」
と考えている人にとっては、
衝撃的内容だったかもしれません。
また、「インタビューしたことで、
聞く相手によってさまざまな自分がでてきて、
固定観念が壊れていく体験をしながら、
自分のアイデンティティが
次第に消えていきました。」という話も
インタビュー体験を重ねることで、
自分という人間のアイデンティティーが
確立されるとおもっていた人には想定外でしょう。
実はその〝逆〟なのです。
わたしも、こうしてblog記事を毎日投稿してますが、
書けば書くほど、
自分が確立していくわけではなく、
逆に自分の存在感が稀薄になっていくというか、
透明な感じになっていくというか、
頑張って背負っていた余分な荷物を下ろして
どんどんラクになっていくような感覚なのです。
昨日のふりかえりセッションでも、
インタビューのまとめ方をめぐって、
さまざまな意見が出されました。
でも、あれこれアタマで考えて、
まとめを書くのにものすごく
時間がかかってしまったり、
それに苦しみを感じたりしてしまうのは、
どこかに唯一無二の正しいやり方があるという
勘違いによることが少なくありません。
わたしも30年前に最初に
インタビューゲームを体験したときには、
質問がおもい浮かばなかったり、
相手の話をメモしたものの
どのように整理してよいものか困り果てたことを
おぼえています。
でも結局、「できることしかできない」し
その現状を受け入れるしかなく、
まだ、何か手に入れたわけでもないし、
何事かを為したわけでもないのに、
目の前に起きていることに一喜一憂したところで
始まらないんですが・・・
自分やまわりの現状をふまえることなくして
何かを目指して頑張ることの不毛さに
わたし自身が気付いたのは、
もうすこし先のことでしたが、
人間というものは、大きな脳をもち、
過去をふり返ったり、未来を予測したりする
能力を発揮できるが故に、
何かを手に入れる前提で、自分の心持ちを組み立て
手に入れられるかどうか、
身につくかどうかを先回りしておもい煩い、
いまの自分に見えている自分の姿など、
自分のほんの一部でしかないのに、
ちょっとおもいどおりにならないと、
落胆したり、失望したりという
ひとり相撲をとってしまうんですね。
昨日のセッションには、
その17で7年前に書かれた
blogのふり返り記事5回分を紹介した
廣安祐文くんが参加していたのですが、
かれが早速ふりかえりを
今日付けのblogに書いていたので、
関心のある方は読んでみてください。
・no.2703 ~第22回インタビューゲーム4hセッションに参加した~
さて、今日の本題です。
「井上さんがずっと90年代の半ばから
考現学を書き続けてきたやり方に近い考え方で、
文章の書き方を指南しているような
参考になる本って何かありませんか?」
と問われることがこれまでに何度かあったので、
その時にいつも紹介してきた1冊について。
1986年に書いた本で、原題は、
Writing Down the Bones Feeling the Writer Within
アメリカでは100万部を超える
ミリオンセラーになり、現在では14カ国語に
翻訳されているようです。
1995年に春秋社から邦訳書が最初に出たときは、
というタイトルでした。(冒頭写真の一番左側)
この本のことをわたしに教えて下さったのは、
東京の日本CI協会で仕事をしていた頃に知り合い、
お世話になったエディターの有岡真さんでした。
有岡さんは、この本をテキストにして、
ライター講座のようなことを
やってみたいと仰っていたのです。
わたしも、もし文章の書き方を学ぶような場の
お手伝いを頼まれるようなことがあれば、
この本をテキストにと常々考えていて、
2006年3月、その改訂増補版にあたる
『魂の文章術 書くことから始めよう』(真ん中)
が出されたんですが、
その本もすぐに間もなく絶版となって、
入手難の状態が続いていました。
どうしてこういう良い本がすぐに
絶版となってしまうんだろうとフシギでしたが、
ナタリー・ゴールドバーグという人は、
30年以上仏教を学んで、曹洞宗片桐大忍老師のもと、
6年間にわたって修行した経歴があり、
いわゆるアカデミックな世界で、
オーソドックスに書き方を伝えるような
一般的なものとはちょっと異なることに
起因するのかもしれません。
あくまでわたしの個人的推測でしかないんですが。
それでようやく2019年に待望の復刊を果たし
扶桑社からソフトカバーの
『書ける人になる 魂の文章術』(右側)が
出されました。
以下、本書の最初の方にある「第一の思考」から
引用して内容の一部を紹介します。
(引用ここから)
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文章修行の基本は、制限時間を決めて行う練習だ。10分でも20分でも1時間でもいい。それはあなた次第。最初は短い時間から始めて、1週間したら時間を延ばそうという人もいるだろうし、最初から思い切って1時間とる人もいるだろう。時間の長さはさして問題じゃない。たいせつなのは、何分、何時間であれ、自分が決めた練習時間のあいだは完全に没頭することだ。
次に、書く際のルールを挙げよう。
1.手を動かしつづける(手をとめて書いた文章を読み返さないこと。時間の無駄だし、なによりもそれは書くことをコントロールすることことになるからだ)。
2.書いたものを消さない(それでは書きながら編集していることになる。たとえ自分の文章が不本意なものでも、そのままにしておく)。
3.綴りや、句読点、文法などを気にしない(文章のレイアウトも気にする必要はない)。
4.コントロールをゆるめる。
5.考えない。論理的にならない。
6.急所を責める(書いている最中に,むき出しの何かこわいものが心に浮かんできたら、まっすぐそれに飛びつくこと。そこにはきっとエネルギーがたくさん潜んでいる)。
以上のことはぜったい守ってほしい。というのも、この練習の目的は、じゃまなものを焼き払って〝第一の思考”――エネルギーがまだ世間的な礼儀や内なる検閲官によってじゃまされていない場所にたどり着くこと、言いかえれば、こう見るべきだ、感じるべきだと考えていることではなく、実際に自分の心が見て感じることを書くことにあるからだ。ものを書くことは、自分の心の奇妙な癖をとらえるまたとないチャンスだ。むき出しの思考のぎざぎざした縁を探索しょう。ニンジンをおろすように、紙の上にあなたの意識という色とりどりのコールスロー〔キャベツの千切り サラダ〕をぶちまけよう。
第一の思考には途方もないエネルギーがある。第一の思考は、心がなにかに接してパッとひらめくときに現れるものだ。しかし、たいてい内なる検閲官がそれを押しつぶしてしまい、私たちは第二、第三の思考の領域、思考についての思考の領域で生きている。最初の新鮮なひらめきからは二倍も三倍も遠ざかったところで生きているのだ。たとえば、「私は喉からヒナギクを切り取った」という文句がとつぜん心に浮かんできたとしよう。すると、1+1=2の論理や、礼儀正しさ、恐れ、粗野なものに対する当惑などを仕込まれた私の第二の思考はこう言う。「ばかばかしい。自殺してるみたいじゃない。喉をかき切るところなんか人に見せちゃいけない。どうかしたんじゃないかと人に思われるわ」。こうして検閲官の手に思考を委ねてしまうと、こんどはこんなふうに書くことになるだろう。「喉が少し痛んだので、私はなにも言わなかった」。正確、そして退屈だ。
第一の思考はエゴにじゃまされることもない。エゴとは、統制のとれた状態に自分を置こうとする働き、世界は堅固で永続的で論理的であることを証明しようとする働きだ。世界は永続的ではなく、たえず変化しており、人々の苦しみに満ちている。だから、もしエゴに支配されていないものを表現すれば、それもまたエネルギーに満ちあふれている。なぜなら、それはものごとのありのままの姿を表現しているからだ。そのとき、あなたは表現の中にエゴという重荷を持ち込んでいるのではなく、しばらくのあいだ意識という波に乗っているのであり、自分独自のディテールを使ってその波乗りを表現しているのだ。
坐禅をするときは、坐蒲の上に坐って足を組み、背筋をまっすぐ伸ばし、手は膝の上に置くか、体の正面でを組む。白壁に向かい、自分の息を見守る。怒りや抵抗の大嵐が吹き荒れようと、喜びや悲しみの雷雨がやってこようと、どのような感情にもとらわれず、背筋をしゃんとして足を組んだまま、壁に向かって坐りつづける。やがて、どんなに大きな思考や感情が湧いてこようと、振りまわされないようになる。それが修行だ。つまり、坐りつづけるということ。
※ナタリー・ゴールドバーグ
『書ける人になる 魂の文章術』第一の思考より
この続きはまた明日!
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