そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その7)
2023/09/19
ウィトゲンシュタイン本2冊の紹介記事に端を発し
「そもそも〝わかる〟とはどういうことか」を
テーマに書き始めたこの記事も、
これで7回目になりました。
こうした連載記事については、
いきなりこの記事から読まれても
内容が伝わるよう努めて書いているつもりですが、
これまでのプロセスが見えないと、
主旨が伝わりにくい面があるかもしれず、
この記事の最後に過去記事、
関連記事のリンク集を付けておきますので、
未読記事について可能な範囲でアクセスください。
さて、昨日投稿した(その6)では、
掌握可能な領域の拡張という話から入って、
わたし自身がこれまで経験してきた
「わかる」ことについての解像度が
上がった体験について書きました。
話を聞き取り文字に書き起こす作業について、
わたしが寺子屋塾を起業した翌年に作成した
素材にしながら書いたんですが、
で使われている言葉をお借りするなら
言語表現の隙間を捉え
真意を汲み取る力の鍛錬という点において、
非常に効果的だったと感じています。
「人の話を聴く」ということは、
だれにもどこにでもあるごく普通の
とても日常的な行為といってよいでしょう。
でも、話の内容云々以前に、その相手の人の話を
自分がどこまで正しく聴けているのかとなると、
まったく自信がありません。
昨日の記事で書いた講演録作成について言うなら、
イベントが終わった時点で
わたしが「わかった」とおもっていたことと、
録音テープを何回も聴き直し、
文字に起こして講演録が完成し、
それを繰り返し繰り返し読み込んだ後に
わたしが「わかった」こととの
中味の違いのあまりの大きさに、
愕然としたというか、驚嘆させられたからです。
読書の場合、音声を聞き取って
文字に起こすプロセスはありませんが、
さらっと一通り読むだけ、というときと、
何度も繰り返し読み返して
大事な箇所を抜き書きしたり要約したり、
読書ノートを作成したりしながら読むときとでは、
「わかる」度合いは
明らかに違ってくるでしょうから。
以前、1冊の本を100回読むことを目標に
繰り返し繰り返し読んで、
未来デザイン考程で使っている
簡易情報集約法のワークシートに
内容を整理したことがあり
そのことをblog記事に書いたことがあるんですが、
この話もこの「わかる」というテーマに直結する内容なので、
ご覧になってみてください。
・吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』の内容を整理してみて
それから、読書の方法論ということについては、
松岡正剛さんが主宰する編集工学研究所がまとめた
『探究型読書』という本を紹介している
次のblog記事も参考になるかもしれません。
また、「知る」と「わかる」というテーマに
関連して、
知識をアタマに詰め込むばかりでは、
頭のメモリー消費量は増えても、
空き領域は減るばかりで
掌握領域の拡張にはつながりにくいと
(その5)には書きました。
教室の本棚やノートパソコンのメモアプリを
情報のイケス(脳外メモリ)として活用する話も
関連情報としてご覧ください。
・脳以外の場所に情報の〝イケス〟をつくる知的生産術(その1)
・脳以外の場所に情報の〝イケス〟をつくる知的生産術(その2)
こんな風に、わたし自身がこれまで経験してきた
「わかる」ことについての
解像度が上がったと感じる実体験談や
関連する話題は
他にもまだまだいろいろあるんですが、
どんどん記事が長くなってキリがないので、
これくらいにしておきます。
だいぶ話が拡散してしまいましたね。
これまではいかにして「わかる」かという視点で
方法論や心得などを書いてきましたから、
視点を反転し、
何が「わかる」を阻害しているのかという視点で
ポイントを整理してみましょう。
人間の情報処理プロセスを示した次の図は
これまでのblog記事で何度か紹介してきましたが
憶えていますか?
たとえば、書くことをテーマに24回続けて書いた
最後の記事の後半部に登場していたんですが、
この記事の前半部では
ウィトゲンシュタインのことにも触れています。
・改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その24・最終回)
その記事には、
①の入力段階で自分の解釈を混入させてしまい
②の加考段階(情報に思考を加える)に入る前で
自分の妄想に振り回されている人が多いと
書いたんですが、
実は、これとほぼ同じ話が、方条遼雨さんの
書かれています。(20.解釈の精度〜23.才能)
また、この ①入力 → ②加考 → ③出力 の図は
次の記事にも最後のまとめで使いました。
・事実を柔らかく受け止められる心はどうしたら育つ?(その3)
「わかる」を阻害するのは、情報入力段階で
自分の解釈を混入させてしまい
素直に情報を受け取れていないことなんですが、
残念ながら、態度を改めたり、
決意表明したりするだけでは改められません。
なぜなら、この素直さというのは、
性質でも態度でもなく「能力」であるからです。
それで、ひとつめの心得としては、
目の前に起きていることを、
自分の解釈を加えずに
目の前で起きたことのまま受け取れる素直さとは
能力であることを自覚し、
そうした能力が、
結果として育つようなしくみを
日常の中にプログラムとして組み込むこと。
さて、ふたつめの心得です。
(その1)の記事)には、佐伯胖さんや
阿部謹也さんの著書に書かれたことを紹介しながら、
学習者にとって、何かが「わかる」ということは、
まわりにいる教える人間が、
分からせようとはたらきかけることで、
人為的に達せられるものではなく、
学習者たちが他者と主体的に関わろうとする中から
自発的に生まれるものであって、
そうであればこそ、わかるということは、
学習者自身の実践と変容を伴ってはじめて
言えることだと書きました。
この話をひとことで要約するなら、
人間とはもともとわかろうとする生き物だ
と言ってよいでしょう。
また、わたしは(その5)の記事にも
これとほぼ同じ内容のことを
人間の脳にはつねにわかりたがっている性質がある
と書きました。
だから、学習者の心得としては
この、誰にもそなわっている「わかろうとする力」が
自然にはたらくような姿勢で日々を過ごすことが
何よりも大事ではないかと。
でも、この「わかろうとする力」に対して、
わざわざ自分でブロックをかけて
はたらかないようにしてしまっている人が
すくなくないように見受けられるのです。
もちろん、人間のこのわかろうとする性質は、
過剰にはたらいてしまうと、
・性急にわかろうとしてしまう
・わかったふりやわかったつもりになってしまう
・わからないことに対して恐怖を感じてしまう
・判断留保できず短時間で結論を出そうとしてしまう
など、マイナス面が出て来てしまいますから
気をつける必要はあるでしょう。
よって、この、誰にでももともと備わっている
「わかろうとする力」が作動しないよう
阻害しているものが何なのかを
日常のなかで見極めること、これがふたつめです。
いまの寺子屋塾では、大人の塾生が
8割以上になっているんですが、
大人の人たちが、とうの昔に卒業した
小中学時代の算数数学のプリントで
いったい何を学習しているのか、
フシギにおもわれる方が少なくないんですが、
何をやっているのかを煎じつめて
端的に書くとするなら次の2つに
集約されると言っていいでしょう。
①素直さとは能力であると自覚し、 そうした能力が結果として育つしくみを 日常の中にプログラムとして組み込むこと
②「わかろうとする力」が作動しないよう 阻害しているものが何かについて 日常のなかで見極めようとすること
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この続きはまた明日に!
【過去投稿記事と参考記事】
・そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その6)
・「知る」とはどういうことか(「論語499章1日1章読解」より)
・改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その24・最終回)
・佐伯胖『「わかる」ということの意味』
・解るとはどういうことか(阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』より)
・天才とはバカであることを自覚している人(つぶやき考現学 No.55)
・自由に3つの意味あり(つぶやき考現学 No.43)
・「わかっているけどできない」ってどういうこと?(つぶやき考現学 No.104)
・起業のポイント・その2「やりっ放しにせず総括し記録を残す」
・甲野善紀 x 方条遼雨『身体は考える 創造性を育む松聲館スタイル』⑧(最終回)
【外部リンク記事】
・本質は「あいだ」にある〜動的平衡という生命のあり方に学ぶ〜【第3回】「動的平衡」と「絶対矛盾的自己同一」
・自分がダメだという自覚がない人」が思考停止する理由(連載『問題発見力を鍛える』vol.5)