大人ってどんな人のこと?(その6)
2024/02/15
昨日投稿した記事の続きで、
大人とはどんな人のことをいうのかについて、
考察してきたこの記事も6回目となりました。
もちろん、前提としてこの問いには
考えを深めることによって見つかるような
唯一の正解がどこかにあるわけではないので、
わたしがそれを明確に定義して
皆さんに示したいからではありません。
これまで5回にわたって投稿してきた記事は、
この記事を読まれる皆さんが、
この問いについて自分で考えようとするときに
〝素材〟になりそうなことを
記してきたつもりでいるんですが、
これまでの投稿に未読記事がある方は
そうした主旨を鑑み、適宜参照された上で
本日分の記事を読んで下さると有難いです。
さて、昨日の記事では、精神科医・泉谷閑示さんの
『「普通がいい」という病』第10講に示された
人間の変化成熟のダイナミクス6段階を
紹介しました。
この6段階は、本日の記事にて
これから書こうとしている内容とも関わるので
再度書いておきますね。
A.生まれたての状態。「本当の自分」のみだが純粋でこわれやすい。「自分」と意識は未だない。
B.徐々に社会適応のために神経症性や「偽りの自分」を身につけていく。しかし、時々窮屈さを感じた「本当の自分」が反発する。いわゆる反抗期。必死で「自分」を獲得する。一人称を模索する。
C.反発の挫折と社会への屈服。「偽りの自分」に「本当の自分」が飼い慣らされる。社会適応が完成し、一人前に社会人になる。神経症性のピーク。「他者本位」0人称。駱駝。
D.「本当の自分」が反逆を始めようと疼きはじめる。自分を見失ってしまったための苦悩が起こったり、心身の不調や、急に起こってしまう不適応などの形でシグナルが現れてくる。「他者本位」の行き詰まり。
E.「本当の自分」による革命動乱。溜め込まれていた怒りの噴出。一人称の出現。個人主義。「自分本位」。自力。獅子。
F.「自分」という一人称が消え、大いなる存在にゆだね、自然や偶然に身を開いていく。宗教的な意味での0人称。他力。小児。純粋さと強さの共存。創造的遊戯。
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昨日書いた記事のとちょっとだけ違いますね。
気がつきましたか?
そうです、色が2色になりました。
A→B→Cのプロセスは〝ラーニング〟
つまり、何かを身につけ成長していこうとする
たし算的アプローチであり、
泉谷さんの言われる「塑造的自己形成」が
中心になるとおもいますが、
DはCに行き詰まった状態でもあるので、
Dより先は、それまでのやり方を変えなければ
Cに逆戻りすることになるでしょう。
おそらく、現実にいまの世の中においては
Dの状態をネガティブに捉える人が
少なくないでしょうし、
そうした人はCに戻ろうとするでしょうが
それはそれで真っ当な姿勢に違いなく、
何の問題もありません。
でも、Dの状態になったことをチャンスと受け止め、
別のシナリオに移る道を選んだ人がたどる
D→E→Fのプロセスにおいては
〝アンラーニング〟
つまり、これまで身につけたもののうちで
不要なもの削り取り、本当に必要なものだけ残し
再構築していくひき算的アプローチが必要で、
「彫刻的自己形成」が中心となるでしょう。
・・・ということで、本日の記事の
人間の変化成熟のダイナミクス6段階は、
そうしたアプローチの基本姿勢の違いを
色分けして表現してみたんですが、
「精神の三段階、駱駝→獅子→小児」は
C→D→E→Fのプロセスを言ってますね。
精神科医の泉谷閑示さんは、
高校時代に『ツァラトゥストラ』を読み
自分の人間観に大きな影響を与えられたそうです。
わたしもまた(その3)の記事で、
自分の精神年齢について
「17歳くらいからあまり成長してません」って
常々公言するのを憚らず、
過去に在籍していた塾生の何人かから、
「子どもみたいな人」って言われたことを
〝褒め言葉〟と解釈したと書きましたが、
それが何故〝褒め言葉〟なのか
わかっていただけましたか?
それで、寺子屋塾の学習とこの話が
どう関わっているかをすこし書いてみましょう。
寺子屋塾では、個別学習、個別対応を原則とし、
自分を知るプロセスを重視している
セルフラーニングという学び方を採用しているので
AからFまでどの段階の人であっても、
また、どの段階へ行こうとしている人でも
比較的オールマイティに受け入れ可能だし、
どの段階の人にとっても
効果が期待できる汎用性の高いものです。
とくに、Dの段階にいる人が、EやFの段階に
進んでいきたいとおもわれた時に
どんなアプローチが必要であるかを
学習塾という枠組みで、提案できる場は
恐らくレアな存在でしょう。
ただ、A→B→Cのプロセスに必要な学びを
提供している場については、
世の中にたくさんありますから、
どうしても当塾でなければいけない理由は
見つけにくいかもしれません。
また、F段階に「子ども」があることについては、
山口周さんが1/14に
ご自身のnoteに投稿されていた
これからは子どもの時代がやってくるという
主旨の記事をおもいだしたんですが、
ご覧になってみてください。
わたしは山口さんのnoteは有料で購読しているので
全文読めるんですが、無料で読める途中までに
吉本隆明さんの『共同幻想論』巫女論で、
「対幻想」の分析に用いている
柳田國男『遠野物語拾遺』の二つの言い伝えが
紹介されていますし、
その話だけでも読む価値があるとおもいます。
ちなみに、タイトルからも想像できるんですが、
有料になっている後半の話の中核は、
ニーチェの『ツァラトゥストラ』でした。
それで、『「普通がいい」という病』には
人間の変化成熟プロセスについては、
もうひとつ大事なことが書かれているので、
そのことに触れておきましょう。
A→B→C→D→E→F という風に書くと、
変化プロセスの表現が直線的なので、
AがスタートでFがゴールであると、
あたかもFで終わりであるかのような、
あるいは、前よりも後の方がすぐれているように
受け止められがちなんですが、
実はそうではないし、
次の図で点線で示されているように、
Fの先もまだ続きがあるんですね。
こういう見方、考え方は
『「普通がいい」という病』の
第7講「螺旋的思考」で展開されているんですが、
「0人称」と「1人称」とについては
別の段階に同じ言葉が繰り返し書かれ、
上の図のように螺旋階段状に変化していく様子を
示しているわけです。
つまり、各々の段階はあくまで
ひとつのステップにすぎず、
必ずしも前よりも後の方が
すぐれているということではありません。
このブログの毎日更新をスタートさせてすぐの頃
わたしが1998年に書いたこんな詞を
紹介したことがありました。
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何かがおかしい、このままではいけないと、
問題に気づくのが第1段階。
原因は何なのか、だれの責任なのだろうと、
問題を作っている敵を探すのが第2段階。
原因を無くそう、悪いヤツは倒さなければと、
その敵と懸命に闘おうとするのが第3段階。
たとえ敵に勝ち、敵を倒しても空しいだけで、
闘っても敵はなくならないと気づくのが第4段階。
問題を作っている敵は外側にいるのではなく、
自分の中にいることに気づくのが第5段階。
自分の中にいる敵は、自分がつくったもので、
そもそも敵などなかったと気づくのが第6段階。
高い段階に到達することが目的でなく、
一つひとつの段階はすべて必要なもので、
そのプロセスこそ大事と気づくのが第7段階。(1998.3.11)
こんなふうにひとつひとつの
プロセスが大事という捉え方や
螺旋階段状に同じことを繰り返しながら
徐々に変化していく捉え方は
わたしの場合、20代の頃から読み始めた
易経から学びました。
易経64卦の最初にある卦は乾為天で、
最後の64番目に火水未済が置かれていますが、
この「未済(びせい)」は
「まだ終わっていない」という意味で、
終わりにあるのに終わっていないということは、
最初の乾為天に戻るという
意味でもあるわけです。
また、易経には「陰極まれば陽、陽極まれば陰」
というフレーズもあり、
陰陽の二軸は二律背反的ではなく、
相補的というか
ひとつのことを表と裏の両面から
捉えているというか、
「万物は循環する」という考え方が
ベースになっているんですね。
次の図は数学学者のライプニッツが
描いたとされている64卦の図です。
※この続きはまた明日に
【過去投稿記事・関連記事】
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