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「きちんと教育するほど、いかに教育を受けないかを編み出す」逆説(養老孟司の教育談義・その2)

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「きちんと教育するほど、いかに教育を受けないかを編み出す」逆説(養老孟司の教育談義・その2)

「きちんと教育するほど、いかに教育を受けないかを編み出す」逆説(養老孟司の教育談義・その2)

2026/06/05

昨日6/4に投稿した記事では、

養老孟司さんが

日本の教育の問題点を語られた

10分ほどの動画をシェアしました。

 

今日は昨日、記事の最後で予告したとおり、

養老さんの動画内容をふりかえりながら

わたしのコメントを書きます。

 

いろいろな場所で講演されたお話を

編集されて作られたもののようですが、

今日も動画をシェアしておきます。

 

文字起こしテキストは

昨日の記事をご覧ください。

【養老孟司】日本の教育の問題点はどこにあるのか?一番気に入らないことをお話します

 

 

体験が先に欠けている

養老さんのお話を

「学力」や「読解力」の問題としてだけ受け取ると、

どうしても、起きたことへの

〝反応〟になってしまいやすい気がします。

 

でも、たぶん養老さんが指摘されている核心は、

もう少し手前のところなんですよね。

 

「教育の問題」は〝何を教えるか〟以前に、

学習が成立する前提条件

「身体を含む感覚↔運動の循環=身につく」を、

制度が奪ってしまっているんじゃないかと。

 

つまり、知識以前の「体験」の部分が、

そもそも薄くなっているんじゃないかと。  


養老さん曰く、いまや野山を走り回る子が

ほとんどいないのに、

さらに学校に集めて座らせ続けるって

どうなの?と。

 

学びって、頭の中だけで

いきなり立ち上がるわけではなく

まず感覚が世界に触れ、身体が動いて、

そのあとに考えが生まれてくるものだから。

 

体験が乏しいまま、

一方的に「考えよう」「読もう」と言われても、

考えるための素材そのものが足りない、

ということが起きてしまうわけで。

 

だから、順序が逆というか、

子どもたちの

世界への関わり方(学習の方向性)自体が

いつの間にか閉じてしまっているんですね。

 


「そういうもんだ」の罠

最も象徴的なのが、インクが消える理由を問われ

「そういうもんだと思ってました」と返す

学生さんの話です。

 

これ、無知というより、〝問い〟に入らないための

便利な〝型〟なんですよね。

 

何が起きても「そういうもんだ」で閉じれば、

自分のアタマを使って

考えなくて済むわけですから。

 

しかも厄介なのは、こうした回避が、

本人の怠慢というより、

長い教育経験の中で少しずつ洗練されていく点。

 

養老さん曰く、きちんと教育されるほど

「上手に教育を受けない方法」を

身につけてしまうんだと。

 

文章が出てきた瞬間に「読みたくない」と感じて、

問題文を読まず、正解を当てにいく。

 

でも、そうした

反応としての〝不真面目さ〟を責めるより前に、

問いを避ける方向性が、

既に出来上がってしまっているところ———

たぶん、ここが核心なんだろうなと感じました。

 


言葉は意味でなく作用

そうなると言葉は

「意味を説明する道具」というより

場の空気や姿勢を動かすというか、

表面をなぞるだけの

〝作用〟として働いてしまいます。

 
「授業」「指導」「学力」「読解力」というふうに、

言葉は、学びを「入力して、評価するもの」へ

寄せやすいわけで。

 

そういう環境においては、

子ども側も、感覚や身体と無関係なところで、

正解を言い当てる技術や、

叱られている〝形〟だけを

受け取る技術を磨いていく。

 

養老さんが言われるように、

説教したところで、肝心の説教の中身は移らずに

「怒っている〝形〟」だけが移る。

 

つまり、教育で伝わりやすいのは、

「意味より器」「内容より形式」であると。

 

ここって、かなり大きい指摘ですね。


養老さんのメッセージは、

寺子屋塾の「まずやってみる」「触れてみる」

「確かめる」「書いてみる」機会を

いかに増やすかを

「教える」よりも大切にしたいという話に

そのまま連なっているんですが、

言葉の選び方ひとつで、学びの方向性が、

変わってしまうからです。

 


身につく回路を回す

養老さんが強調される〝学習の根本〟とは、

感覚と運動が関連して回っていくこと。

 

3ヶ月の解剖実習で学生さんが真面目になり、

大人になっていくという話は、

そのことをすごく分かりやすく見せてくれます。

 

手を動かし、対象に向き合い、

時間をかけて考える回路が立ち上がると、

人は自然に〝本気〟になる。  


ここで大事なのは、

そのような自覚を「状態」でなく

「働き」として捉えることかもしれません。

 

分かった気になる状態を作るのではなく、

触れる→動く→気づく→問いが生まれる

→言葉にするというプロセスを通じて、

「働き」を回していく。

 

そうした回り方こそが、

いわゆる「身につく」なんだろうとおもいます。

 


教えない教育の設計

寺子屋塾の〝教えない教育〟という

キャッチフレーズは、

「教育とは、教え育てること」という一般常識と

真っ向から対立しているように聞こえるので、

誤解されやすい言葉でもあります。

 

でも、一昨日の記事にも書いたとおり、

「管理、強制しない」という姿勢は、

放任することではありません。

 

らくだメソッドのプリント教材には、

問題に対する説明文がほとんどなく、

「まずやってみる」ことを最初に置けば、

うまくいかない現実に必ず突き当たります。

 

でもそれは、最初から

受け身の形で思考を駆動させないことが

大切だと考えているからで、

体験と対話を主軸に置いた学習回路を

いかに設計するかってことなんです。

 

こんにちでは、ICT学習が拡がって、

パソコンやタブレットのディスプレイを眺めながら、

キー入力やタッチペンを

操作することも多くなりました。

 

当塾では、zoomによる

オンライン学習も導入しながら

アナログなプリント教材に

いまなおこだわり続けているのは、

紙と鉛筆を使って、

まず手を動かして問題を解いてみるという

感覚→運動→思考の回路を、

日常の学びに戻す実践でもあります。

 

たとえ小さなことであっても

まず、体験することから始める。

 

自分で観察して、自分で手を動かして、

記録して、比べて、言葉にしてみる。  

 

養老さんの話は、

学校の制度論に聞こえる部分もありましたが、

核心はもっと根源的なところにありました。

 

学習は、上から一方的に注がれるものでなく、

日本語で言う「身につく」

つまり、身体の内側から回りはじめたときに

本物になってゆく。

 

養老さんの話を聞きながら、

あたりまえの学びのあり方について、

もう一度ちゃんと確かめたくなりました。

 

 

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