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「断片で届く世界を生きる」とは?──長男の書いたブログ記事を読んで

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「断片で届く世界を生きる」とは?──長男の書いたブログ記事を読んで

「断片で届く世界を生きる」とは?──長男の書いたブログ記事を読んで

2026/06/06

1ヶ月ほど前に、今年31歳になった長男が、

ブログnoteに、

これまでの半生を振り返る内容の

自己紹介記事を書いてました。

 

中味は、重度難聴の当事者として、

自分には、どんなふうに世界が届き、

どうやってその断片をつなぎ合わせて生きてきたか、

その実地レポートと言えるものです。

 

よって、長男がこの記事を書いた主旨については、

【終章】末尾に書かれているように、

同じ難聴の当事者やその家族に向けた

メッセージであり、

近しい間柄の人間に向けての

近況報告を兼ねたものと言ってよいでしょう。

 

タイトルは『わたしの世界は断片で届く』とあり、

幼少期から今日までを俯瞰している内容で

長い長い文章なんですが、

事実ベースで坦々と記述されているので、

けっして読みにくくはありません。

 

親のわたし自身もこれを読んで

新たな発見があったくらいですから、

まずは、読んでいただけたらと。


わたしの世界は、断片で届く(ainoue:note)

 

読み終えたあと、しばらく言葉が出ませんでした。

 

親として息子の言葉に

胸が熱くなっただけではありません。

 

教育の仕事に長く関わってきた自分にとって、

「人が育つとはどういうことか?」という

真正面のテーマを

静かに問い返される文章だったからです。

 

記事にもあるように、長男は、

自分の聞こえの条件が年齢とともに変化する中で、

文字起こしやAIの活用、事前準備と事後処理、

複数の言語を習得するなど、

いくつもの回路を組み合わせながら、

日常を〝運用〟しています。

 

そこで語られているのは、感動的な話というより、

むしろ坦々とした〝設計記録〟でした。

 

聞こえにくいことを制約として嘆くのでなく、

聞こえにくい現実をそのまま

要件として自分なりに受け取り直して、

できる〝運用〟を自分で組み立てていくこと。

 

そしてその姿勢は、いま彼の

〝ソリューションアーキテクト〟という仕事に

そのままつながっているように見えます。

 

 

さて、親としてわたしは

いったい何をしてきたのか、それを

ここに言葉にして残しておきたいとおもいました。

 

とはいえ、ここにわたしの

子育ての成功談を書くつもりはありません。

 

わたし自身、結婚する前から教育の仕事に関わり、

息子たちが生まれる前から

〝教えない教育〟を標榜してきた人間です。

 

先ほど、「親としてわたしは

何をしてきたのか」と書いたばかりですから、

矛盾しているように感じられるでしょうが、

その表現自体が正確ではありません。

 

そもそも、親として子どもに対してできることなど

ほんの僅かでしかないというのが

わたしの持論ですから。

 

つまり、わたしがここに書いておきたいことは、

親として何をしたかでなく、

むしろ〝何をしなかったか〟であり、

しなくてもよい余計なことをしない大切さというか、

そうした突拍子もないことを考えてきた、

こんな人間がいたという

足跡だけでも書き残しておきたいと。

 

実は、昨日まで3日間書いてきた記事も、

今日この記事を書くための

前段のつもりでした。

 

昨日まで3日間の記事を未読の方は

以下の記事を読まれる前にぜひご覧下さい。

親に必要な〝適切な無関心〟ということ

「きちんと教育するほど、いかに教育を受けないかを編み出す」逆説(養老孟司の教育談義・その1)

「きちんと教育するほど、いかに教育を受けないかを編み出す」逆説(養老孟司の教育談義・その2)

 

 

1. 「支援する」より「運用の余白を守る」

教育の世界では、とかく「何を教えるか」

「能力をいかに伸ばすか」が語られます。

 

もちろん、それが必要な場面も少なくありません。

 

でも、長男の記事を読んで改めておもったのは、

人間の成長の核心にはしばしば、

本人が能動的に回し始める〝運用〟があることです。

 

これは、わたし自身の体験や

これまでの人生を振り返っても実感していることで

養老孟司さんの記事で確認してきました。

 

つまり、この〝運用〟とは

だれにでもできることを、

だれにでもできるようにやればいいだけなので、

特別な才能や根性、精神力が

あるかないかという問題ではないのです。

 

・聞き取れない場面を前提にして、事前に固有名詞を調べておく

・リアルタイムで取りこぼしても、あとで要約して再構成する

・一つの方法に賭けず、文字起こしを冗長化する

と、こんな風に長男は書いていました。
 

つまり、こうした生活を成立させる「仕組み」を、

自分に合う形で組み立てていく姿勢。

 

よって親ができるのは、

その仕組みを〝作って与える〟ことでなく、

むしろ、うまくいかない現実に突き当たったときも

本人が試行錯誤しながら

そうした仕組みを作っていける余白を奪わないこと、

狭めてしまわない姿勢なのだと。

 

もちろん、そのようなうまく行かないときに、

親が手を出し、口を出せば、

その場はうまくいくようになるかもしれません。

 

でも、その代わりに、

本人自ら運用設計しようとする芽や

そうした力を摘んでしまうことがあるんだと。

 

わたしはそのことを、

教育現場でも何度も見てきました。

 

 

2. 「心配を渡さない」──親の沈黙の技法

長男の記事に、親自身の言葉として

次のように引用されています。

 

「心配を理由に『やめておけ』とは言わない」

 

これを読んだとき、少し苦笑いしました。

 

わたしはそんな風にキッパリ言い切れるほど

立派だったかどうかは分かりません。

 

ただ、少なくとも意識していたのは、

心配を子どもに背負わせないことでした。

 

親は子のことを心配します。

あたりまえのことです。

 

その心配が消えることなどありません。

 

けれど、心配をそのまま子どもに渡してしまうと、

子どもは「やりたいこと」と一緒に

「親の不安」まで背負うことになる。

 

すると、判断軸がねじれます。

 

子どもの行動起点が「どうすればできるか」でなく

「どうすれば親を安心させられるか」が

中心になってしまいかねません。

 

それは、教育現場でも同じです。

 

指導者が不安や焦りを持ったままで
生徒に関われば、

生徒の学びは途端に委縮してしまうことを、
わたしは進学塾で小中学生と関わっていたときに
何度も痛感させられました。

 

よって必要なのは、励ましの言葉の多さでなく、

生徒本人が自分の選択を

自分で引き受けられるだけの
強さと静けさなのではないかと。

 

わたしは、親としても教育者としても、

「ああだこうだ」と正しさを語りたくなる自分を、

何度も制止してきました。

 

それを制止できるかどうかは、

そうした自分の姿をどこまで

自覚できているかにかかっているからです。

 

だから、自己観察の日常化であり

〝セルフラーニング〟なのです。

 

沈黙は、イコール無関心ではありません。

 

6/3の記事に書いた通り、

余白を認め、境界線を守り、

他者として尊重する〝適切な無関心〟を保つには

それなりの技術が要ります。

 

寺子屋塾はそうした技術について、

語ることの出来る希有な場でもあります。

 

 

3. 学校を〝宇宙の中心〟にしない

長男には学生時代、

学校の外に居場所がありました。

 

和太鼓、ボランティア、スポーツの場……

そこでは「聞こえにくい子」という属性が

中心になりすぎず、

ただ一人の若手として自然に関わってもらえたと。

 

そして、

「そうしたコミュニティに属せたことは、
自分の人生にとってかなり幸運な出来事だった」

と長男は書いていて、

親子ともども本当に感謝しかありません!

 

このことからわたしが受け取った教育論は

非常に明快で、

まわりの人間としてできることは、

できるだけいろんな人と出会えるチャンスをつくり

世界を単線化しない姿勢———これに尽きます。

 

学校だけ、成績だけ、クラスの人間関係だけを、

子どもの宇宙の中心にしない。

 

もちろん、生活時間の多くを占める学校は、

子どもたちにとって

大切な場所であることにはかわりがありません。

 

でも、「学校がすべて」になった瞬間、

学校に合わなかった子の世界は

一気に狭くなってしまいます。

 

〝学び〟が生まれる場は、本来もっと広いもので、

多様な人と関わること、

役割を持つこと、

身体条件に合わせて工夫すること、

経験を通して自分なりの判断軸を育てること

 

こうした〝深層〟の学びが回っていれば、

表層の出来事(うまくいく/いかない)だけに

人生の全重量を乗せなくて済むので。

 

当然これは、学習塾にもそのままあてはまる話で、

わたしはこのことを、寺子屋塾という場で

32年間実践しながら検証してきました。

 

 

4. 自灯明・法灯明──努力を讃えるより、原理を見つめる

5/22からブログ記事に
11回にわたって書いてきたこと
ですが、

最近、わたしは

お釈迦さまの臨終の言葉とされる

「自灯明、法灯明」を折に触れておもい返しています。

 

自分を灯とし、法を灯とする。

 

こちらの記事に書いたことを、

教育に引き寄せて端的に要約するなら、

次のようになるでしょうか。

・自灯明:自分を観て、自分で考え、工夫しながら

     内側に〝拠り所〟を作って行く力

・法灯明:その力が育つための原理や構造、環境

 

もちろん長男の歩みは、本人の努力だけでは

到底成し遂げられないもので、

行き過ぎた言動や失敗も数知れず、

まわりの皆さんに

迷惑やお世話をおかけしたこともありました。

 

そうした諸々のことも含めて

本当に感謝!感謝!です。

 

本人の工夫も少なくないかもしれないけれど、

同時に「冗長化」「事前準備」「事後処理」

「情報経路を増やす」といった原理(法)に沿って、

生活を組み立てているところに希望を見ます。

 

なぜなら、本人の努力を一方的に讃えるだけだと、

努力できない日の居場所を

奪ってしまうから。

 

だからこそ、わたしはその原理について語りたくて、

この記事を書きました。

 

誰にでも再現可能な形で、

そして、誰かの助けになるような形で。

 

繰り返すようですが、

わたしが親として長男に対してできたことなど、

ほんの僅かなことでしかなく、

自分の子どもだからといって、

難聴の障害があるからといって、

特別扱いしたことはありません。

 

だから、「本人の灯」が消えないように、

そして「法の灯」が見えるように、

世界を狭めないこと、

余計な介入で運用の〝余白〟を狭めないこと———

できることはこの一点だけです。

 

息子の世界は、断片で届く。

 

だから彼は、毎日それを再構成して生きている。

 

たぶん、それは教育の世界も同じで

わたし自身もまた、日々そのことを実感しながら

実践してきました。

 

養老先生が言われていたとおり、

人に教えられるのは〝形〟でしかなく、

その中味ではありません。

 

だから、完成形を渡そうとするのでなく、

必要な道具だけを手渡し、

自ら気づくチャンスをつくることで、

断片から再構成できる力と、

それを自分で運用し続けられる環境を手渡すこと。

 

塾という場もまた、おそらくそのためにあると、

そんなふうにおもっているんですが。


あとは、今日こうして書いたわたしの言葉が

書かなくてもよかった

余計な一言にならないことを祈るのみです。

 

 

最後まで読んで下さり有り難うございました。<(_ _)>

 

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