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改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その23)

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改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その23)

改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その23)

2023/06/28

昨日投稿した記事の続きです。

 

改めて、「書くこと」と「教えない教育」の

関係を明らかにする というテーマを設定し

書き始めたこの記事も、

回を重ねて今回で23回目となりました。

 

明日投稿予定の次回にてこれまでの話を総括し、

ひと区切りにするつもりですが、

いきなりこの記事から読まれても

前提となっている話や

これまでのプロセスがある程度見えないと、

主旨が伝わりにくいかもしれませんので、

連投記事中に未読記事のある方は、

この記事の最後に記した関連記事リンク集から

適宜アクセス下さるとありがたいです。

 

 

さて、一昨日の記事で紹介した

3冊の本に共通するテーマ

コミュニケーションの問題を掘り下げていくと、

言語の持つ構造や日本語の特質というところに

突き当たらざるを得ないというところから、

昨日は、吉本隆明さんが

主要三部作の主著『言語にとって美とはなにか』

展開された

〝自己表出〟と〝指示表出〟という概念を

紹介しました。

 

渋谷陽一さんがまとめられた

『吉本隆明 自著を語る』から引用して紹介した

吉本さん自身の言葉の最後の方に、

言葉っていうのは最終的な言い方で言えば、

コミュニケーションのための言葉〝指示表出〟と、

自分を納得させるための言葉〝自己表出〟という

二つの側面がある。そうするとこの

〝自己表出〟と〝指示表出〟の織物って言うか、

織られて出てきた布きれが言葉なんだ。

とありましたが、

結局、言葉が伝わったり伝わらなかったりするのは、

自己表出という、対象そのものに対する

意識の動きの面

指示表出という、対象を他者に指示しようとする

意識の動きの面という

2つの面が不可分に存在しているからなんですね。

 

以前にこちらの記事

解剖学者・三木成夫さんの著書『内臓とこころ』を

紹介したことがありましたが、

その表現を借りるとするなら、

自己表出は、植物由来の内臓感覚を土台とし

アート性が強く、

指示表出は、動物由来の大脳思考を土台とし

ビジネス性が強いという言い方もできるでしょう。

 

さらに言うと、この連投記事で延々と紹介してきた

考現学の発想に基づいて文章を書くことは、

他者が読むことを意識しつつも、

いま、ここ、自分に軸足を置きながら、

他者への伝達以外の要素を諸々含んでいるので、

指示表出性よりも自己表出性の方に

ウエイトを置いた表現

いうことができるようにおもいます。

 

古 池 や 蛙 飛 び 込 む 水 の 音

という皆さんよくご存知の俳句があります。

 

これを日本語を使う日本人が聞けば

その情景とその句の短い言葉に詠み込まれた

情感を感じとることまでできたりするのは、

それだけ日本語のそのもののもつ自己表出性や、

俳句という言葉の芸術における

歴史の積み重なりという自己表出性の高さ故と

言える訳なんですが、この俳句を

The sound of water in an old pond and frogs jumping in

のように英語に翻訳してしまうと、

指示表出性だけが強くなってしまい、

「え?結局何が言いたいの?」ってことに

なりかねません。

 

わたしたちは、つい言葉は

コミュニケーションのためだけにあると

おもってしまいがちですが、

そもそもコミュニケーション機能というのは、

言葉の根幹ではなく、

後から生まれた副次的な要素にすぎないと

考えておくことができれば、

「わからない」「伝わらない」ということで

必要以上に悩むことも

少なくなるんじゃないでしょうか。

 

 

さて、昨日のおさらいはこれくらいにして、

今日の本題に移りましょう。

 

言葉の問題を考える上で、

理解を深めると役立つ言語の構造や特質について

もうひとつ挙げておきたいのが、

ウィトゲンシュタインの言語哲学です。

 

ウィトゲンシュタインの著書には引用が全くなく、

ウィトゲンシュタイン自身が考えた

プロセスのみがそのまま綴られているんですが、

考えたプロセスを記述していく姿勢は

吉本隆明さんにも通じるところが

あるかもしれません。

 

ヴィトゲンシュタインについては、

今までにもこのblogで何度か取りあげているので、

未読の方は次の記事をご覧ください。

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より(今日の名言・その29)

ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」

 

とくに、後期ヴィトゲンシュタインの

「言語ゲーム」という考え方を知ることで、

言葉に対するいくつかの誤解は解きほぐされ

コミュニケーションで悩むことが

少なくなるようにわたし自身は感じています。

 

たとえば、野球のルールに

「ファール」という言葉がありますが、

野球というスポーツをまったく知らない人に

「ファール」の意味について説明することを

考えてみてください。

 

不可能ではありませんが、

それが易しくないことだということは

すぐにわかりますよね?

 

なぜなら、ファールという言葉の意味を

理解しているから

野球というスポーツが理解できたり、

プレイできるようになったりするのでなく、

実際に野球をプレイしたり、観戦したりすることで

「ファール」の意味が

理解できるようになっていくというのが

コトの順序で、

野球をまったくやりもしないうちから

いきなり「ファール」という言葉の意味から

教えようとするのは、

順序が逆だからです。

 

つまり、野球の「ファール」というのは、

野球というスポーツの文脈を前提として

理解できるようになるものといえ、

野球以外、たとえば、バスケットボールにも

「ファール」がありますが、

それは別の意味を持っているわけです。

 

「ファール」という言葉で説明しましたが、

「ファール」に限らず、

それ以外の多くの言葉も同じで、

1つ1つの単語の意味を国語辞典で引いて覚え、

学校で国文法を習ったから、その結果として

言葉が話せるようになったという人など

現実には存在しないでしょう。

 

わたしたちは、生活の中での

まわりの人とのコミュニケーションが先にあって、

ものの名前などは、

そのコミュニケーションを通して

事後的に覚え、理解してきたはずです。

つまり、言葉の理解が確実にできているから

言葉を使えるようになったのではなく、

他の人とのコミュニケーションが先にあって

その結果として言葉の意味が、

理解できるようになったのではないでしょうか。


このように、先に実践したことによって

ゲームが成立したのにもかかわらず、

事後的にルールがあたかも

先にあったかのように見えてしまうので、

ヴィトゲンシュタインはこれを

「言語ゲーム」と名づけたわけです。

 

また、この「言語ゲーム」という考え方は、

「教える教育」がもっている

根本的な問題についても暗示していていて、

このblogではときどき登場する、

〝原因と結果の取り違え〟のひとつでも

あるんですね。

 

この続きはまた明日〜!

※冒頭の画像はグスタフ・クリムトが描いた

 ウィトゲンシュタインの姉マルガレーテの肖像

 

【関連記事】

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改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その1)

(その2)

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