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内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その11)

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内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その11)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その11)

2024/08/26

昨日8/25に投稿した記事の続きです。

 

響月ケシーさんが8/14にインスタで配信された

動画『自分の神様の育て方』の内容を

取っ掛かりにして書いた記事が発端となって、

「内的観点と外的観点の両方を同時にもつ」

というテーマで記事を書き始め、

今日が11回目となりました。

 

これまでに書いてきた内容を前提として

話を進めることがあるので、

未読分のある方は、

まずそちらから先にお読み下さい。

ケシーさんの8/14インスタライブ『自分の神様の育て方』

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その1)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その2)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その3)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その4)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その5)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その6)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その7)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その8)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その9)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その10)

 

さて、昨日の記事では、

池谷裕二さんが母校の高校生たちに行った

レクチャーをまとめてつくられた

『単純な脳、複雑な「私」』第3章から

〝自由〟についてのやりとりを紹介しましたが、

今日はその続きです。

 

たとえば、「自由とは何か?」について考える際に、

そもそもその〝自由〟というのを

内的観点から考えているのか、

外的観点から考えているのかを区別しないで

議論を始めてしまうと、

だいたい答えは出なくて

水掛け論に終わってしまいがちです。

 

今日紹介しようとしている箇所では、

ベンジャミン・リベットが唱える

準備電位説に辿り着いた有名な実験が紹介され

「自由意志は存在するか?」

という問いが展開されているんですが、

じつはこの話は、寺子屋塾ブログでは以前にも

次の記事で取り上げたことがありました。

身体が昔覚えていた動きをおもいだす練習

 

この池谷さんの著書で語られている

〝自由〟についてのやりとりを素材としながら、

内的観点と外的観点の両方の側面から

そもそも自由とは何なのか、

注意深く読み解きながら考えてみて下さい。

 

たとえば、内的観点から考える自由というのは、

本人の意志や、主観にもとづく実感の部分であり、

それをわたしたちは〝心〟と呼んでいるわけです。

 

また、外的観点から考える自由というのは、

脳神経系の動きとして科学的に計測可能な部分や、

身体の動きとして他者が観察、確認できることを

指していると言ってイイでしょう。

 

つまり、この両者を区別するということは、

「心のはたらき」と「脳のはたらき」を

明確に線引きして考えるということでもあります。

 

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

3-36 「動かそう」と意図したときには、脳はもう準備を始めている
ところで、哲学にはこういう問題がある。〈手を上げる〉という動作、〈手が上がる〉という動作の比較だ。そのふたつの動きを引き算すると何が残る? つまり、〈手を上げる〉から〈手が上がる〉を引いたら、そこに残ったものは何だろうか。

 

———自分の意志。

 

自分の意志、自由な意志。つまり、「自由」がそこに残るってことだね。ということは、その答えは、自由が存在することを、そもそも前提にしているね。
もちろん、「自由な意志が残るに違いない」と考えるのは、真っ当な考えだ。「何も残りません」なんて答えたら、変人扱いされるのがオチだよね。後でこれについて僕なりの考えを話そうと思う。
自由意志について話すときに、絶対に外せない有名な実験があるので、今はまず、それについて説明したい。その一部は『進化しすぎた脳』という、以前の僕の本でも紹介している。
それは25年ぐらい前に行われた発見された事実だ。その実験から意外なことがわかった。その研究者は「自由意志」が存在するかどうかを確かめようと思って、手首を動かす実験、「好きなときに手首を動かしていいですよ」という実験をやった。
被験者にイスに座ってもらって、テーブルに手を置く。目の前の時計を見ながら、好きなときに手を動かす、ということを試してみた。そして、脳の活動を測ったんだ。
この実験では測れるパラメータが4つあるよね。


まず認知の指標がふたつある。第1に「手を動かそう」とする意図。そして、実際に手が動いたら、「あっ、動いたな」とわかる知覚。 このふたつがあるね。
一方、脳側から見たときにもふたつの指標が得られる。手を動かすために「準備」をする脳活動と、実際に動くように出す「指令」の脳活動だ。
いいかな。まとめると①「動かそう」 ②「動いた」 ③「準備」④「指令」の4つだね。
実験では、この4つの指標について計測して、それが生じるタイミングを測った。その結果、この4つは、どういう順番で進行したと思う?順番に並べてみてほしい。

 

———準備、動かそう、指令、動いた、ではないでしょうか?

 

うーん、最初に脳が「準備」して、それから次に「動かそう」と感じるのか.……それでいい? 反論はあるかな。

 

———いえ。動かそう、準備、指令、動いた、だと思います。

 

まず「動かそう」と意識してから、脳が動かす「準備」を始めて、「指令」が行って「動いた」と。

 

———本で読んだことがあります。 不思議な感じだけど、実は、「準備」が先だと。

 

ほお、聞いたことある? そう、さすがだね。実は、この実験の話は、脳の研究者のあいだでは有名で、そうなんだ、いま君が言ってくれた通り。常識とは違って「準備」が先なんだ。

 


本人が「動かそう」と意図したときには、脳はすでに動かす「準備」を始めているらしいんだよね。0.5〜1秒くらいも前に。より最近の研究によれば、7秒も前に準備が始まっている場合もあるという。
実験で得られた順番を説明すると、手を動かすための「準備」がまず始まる。そして準備が整って、いよいよ動かせるぞとなったときに、私たちの心に「動かそう」という意識が生まれる。つまり「動かそう」と思ったときには、すでに脳は動くつもりでいて、とっくに準備を始めたということだ。これがひとつのポイント。


もうひとつのポイントは、この後にもある。手に「指令」が行って動くのと、「動いた」と感じるのはどちらが先かという問題だ。
実は、これも常識とは逆で、「動いた」と先に感じる。それに引き続いて「動け」という指令が手に行くんだ。つまり、筋肉が動くよりも前に、「動いた」という感覚が生じる。
このことについてはあまり世間では述べられていなくて、ちゃんと説明しないといけないと思う。 ただ、この話題は後に回そうね。ここでは「自由」の話に絞りたい。

 

 

3−37 自由意志は生き残れるか?
さて、この実験が世間に紹介されて、「僕らの自由意志って一体なんだ」という疑問が、改めて問われるようになった。だって、君らが「動かそう」と意図するかどうかは、脳研究者が君らの脳活動を見ていれば事前に予測できるってことでしょ。
「君はあと0.5秒後に手を動かしたくなる」なんてね。これじゃあ、まるで『北斗の拳』だ。「お前はもう動かしている............」と(笑)。脳を観察していると、本人よりも先に、本人の行動がわかってしまう。バレバレなんだ。
これを聞いても、君らはやっぱり自由意志はあるって思う? 

 

———……。

 

あらら、シーンとなっちゃった……。 まあ、たしかに精神的に衝撃をもたらすデータだよね。 手首を動かすなんていうのは、僕らの日常の行動としては、とりわけシンプルな動きだよね。そうしたシンプルな運動ですら……ほらほら、いま君らは手首を動かしてるね。今まさに行っているその行為が、事前に決まっているとしたら、やっぱり不思議な感じがしないかい?


———うーん、どう考えても、準備に従っているだけとは信じられない。


たしかに「自分の意志」で動かしてるような気がするよね。にもかかわらず、君が動かそうとする少なくとも約0.5秒前には、もう脳が動かす準備を始めている。自分が「動かそう」と思ったときは「すでに時遅し」で、動かすことが決まっているわけだ。

 

———なんだか自分が自分でないような気がしてきました……。

 

 

3−38 自由の条件とは
そもそも「自由」であることの条件って何だと思う? 今は「準備」「動かそう」の話は忘れてもらっていいよ。自由であることの「条件」について、こういうときに自分は自由だと感じるというのを挙げてみて。

 

———人間である以上、完全にとまではいかないけれども、他者、条件、物、そういうものによって自分の行動や意志が制限されないことじゃないですか?

 

他から影響を受けない、か。なるほど、これは言葉を換えて言うと、「自分の意図が行動結果と一致する」ということでもあるよね。
意図したのに、それとは異なる結果が得られたら、他から何らかの影響を受けている可能性がある。それでは「自由」は感じられないよね。だから、意図と結果が一致することは最低条件として必要だ。これをひとつ目の「自由の条件」にしようか。
ほかに何かないかな? 自由の条件。
自由の条件で意外と見落とされがちなのは、「意図が行動よりも先にある」ことだ。意志が先に生じる。これも当たり前だけど、見落としちゃいけないポイントだよね。
だって、手首が動いちゃった後に、手首を動かしたくなっても、自由は感じないでしょ。だから 「意図が結果よりも時間的に先行する」こと、これがふたつ目の自由の条件だ。
もうひとつ条件があるんだよね……わかるかな。それは「自分の意図のほかに原因となるものが見当たらない」ということ。この3つだ。
自由を感じるためには、少なくともこの3つの条件を満たしている必要がある。このうちひとつでも欠けたら、もはや「自由さ」を感じない。まとめよう。

 

 ①自分の意図が行動結果と一致する
 ②意図が行動よりも先にある
 ③自分の意図のほかに原因が見当たらない

 

さて、自由の条件が揃ったところで、もう一度、さっきの「手首を動かす」の実験に戻ってみよう。あの実験では、この3つの自由の条件のうち、どれかが欠けてる?

 

———2番目。

 

ん?「意図が行動よりも先にある」。どうだろう。
もう一度、実験結果を思い出してもらいたいんだけど、「準備」→「動かそう」→「動いた」→「指令」という順番だったよね。どう? よく見ると、別に矛盾していないね。「動いた」と感じるよりも先に「動かそう」と思っている。だから条件②は満たされている。
じゃあ、条件①「意図と結果の一致」はどう? 

 

———一致している。


手首を動かそうと意図して、実際にその通りに動いているから、条件①は満たしているね。最後の条件③は?「ほかに原因が思い当たらない」。


———これは、もう脳が勝手に準備しているから、満たされてないと思います。


なるほど。自分の意図の前にはもう脳が準備をしている、つまり脳が原因になっているから、一見この条件にはひっかかるように見える。でも、動かそうと思っている本人の視点から見れば、この条件も問題ないよね。だって僕らは「実際に意図より先に脳が準備している」ことを知らない。だから、「自分の意図」以外に原因となるものが、その当人には見当たらないわけだ。
ということは、「手首」の実験データは、自由の条件を、少なくとも観念的には、すべて満たしている。つまり、先の実験は僕らの自由を否定してはいない。心外な実験結果ではあったけど、だからといって、「僕らは自由である」という感覚が否定されたことにはならないわけだ。

 

 

3−39 他者に制御されているのを知らなければ、それは「自由」である

たとえばこんなゲームがある。スクリーンの上に単語がいっぱい並んでいる。机とか、ペンとか、鉛筆とか、クルマとか、キリンとか、そういう日常的な単語がいっぱい並んでいる。
そして、画面の上の方に写真を見せる。たとえば、クルマの写真とかね。その写真が出たら、コンピュータのマウスを動かして、カーソルをクルマという単語の上に移動させるゲームだ。
これも「意志」の実験だ。クルマの写真を見たら〈クルマ〉という単語の上に、カーソルを自分の「意志」で持っていく。もちろん、あえて持っていかないという「自由」も残されているから、これは自由意志の実験でもあるんだ。
それを君らにやってもらうんだけど、ところが、ここにちょっとトリックがあって、みんなが使っているマウスは、実はコンピュータにつながっていない。だからカーソルの動きとは無関係なんだ。そこで僕が今、クルマの写真を出すでしょ。そして、僕が君らに見えないところで、カーソル を〈クルマ〉という単語に動かしてあげる。あるいは、ペンの写真を出したら〈ペン〉に、キリンの写真が出たら〈キリン〉に動かしてあげる。そういう実験をやったんだ。
実験の後で被験者に質問する。「自分でカーソルを動かしてるような気がしましたか」と。すると「はい。感じました」と答えた。実際には違うよね。僕が陰でこっそりと動かしているわけだから。この被験者は「自由」をちゃんと感じている。ただ、そのからくりを知っちゃうと、もう自由じゃないよね。他人に操作されているわけだから。でも、知らなければ、先ほどの「自由の条件」をすべて満たしている。本人は自分の意志よりほかに原因があるなんて思ってない。
この実験、後で被験者は「自分で動かしてたのではないのですか!」と驚いたそうだ。 この場合、「自分自身が行っている」という自由な感覚(の条件)は、「他者から制御されている」ことに気づかないことだ。

 


3-40 自由意志の「存在」よりも、自由意志の「知覚」こそがポイント
そしてもうひとつ、この実験からわかることがある。「自由は、行動よりも前に存在するのではなくて、行動の結果もたらされるもの」ってことだ。これは大切なポイントだ。
普通の感覚だと、自由意志って、「行動する内容を自由に決められる」という感じで、あくまでも「行動の前に感じるもの」だと思いがちだけど、本当は逆で、自分の取った行動を見て、その行動が思い通りだったら、遡って自由意志を感じるんだね。結果が伴わない限り自由はない。
つまり、自由の発生順が逆なんだ。自由っていうと君らは「未来」に向かって開かれているような気がするでしょ? でも実際には、自由は「過去」に向かって感じるものだ。
ここで僕が論じたかったのは、「自由意志が存在するかどうか」という問いは、その質問自体が微妙なところがあって、今の議論のように、むしろ、自由を「感じる能力」が私たちの脳に備わっているかどうかという疑問にも変換しうる。自由意志は、存在するかどうかではなくて、知覚されるものではないか、とね。

ちなみに、「知覚されたら存在する」と考えるのが、僕のスタイルなんだけど、昨年の全校講演で、ピンク色の斑点が円状に点滅していて、円の中心点をじっと見ていると、すべての斑点が消えてしまうというのを覚えてるかな?

 

——−−あれは驚きました。

 

あの場合を思い出してほしいんだけど、モニターにピンク色が映っているかどうかなんて、脳にとってはどうでもよくて、自分にとって見えなくなってしまったら、それは「なかった」ことと同じだよね。
もちろん、無意識のレベルでは感じている可能性はある。けれど、検証可能という意味での「存在」の基準は、あくまでも「知覚される」ことだ。
これと同じ意味では、自由意志は現に、人間によって認知されるわけだから、だから自由は「存在する」と言ってしまってよいと思うんだ。単なる錯覚かも知れないけど、少なくとも意識の上では「自由」だ。そんな点を、まず確認しておきたかった。
ところが、その自由が、物質的な意味でも「自由」かどうかというと、まったく話は変わってくる。そこで次に、本質的なレベルで僕らは本当に自由かどうかを考えてみたい。

 

池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」 または、自分を使い回しながら進化した脳をめぐる4つの講義』

 第3章 脳はゆらいで自由をつくりあげる より

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 


この続きはまた明日!

 

 

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