ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons 21世紀の人類のための21の思考』(その2)
2026/05/26
5/21からこの寺子屋塾ブログでは、
お釈迦さまの臨終のことばとされる
「自灯明、法灯明」について
書いています。
今日の記事も昨日までの続きなので、
昨日までに投稿した記事を未読の方は
まず以下から先にご覧下さい。
・『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経(涅槃経)』【井上の解釈】
さて、昨日は前段の話でしたが、
今日はいよいよ核心部
ハラリさんがヴィパッサナー瞑想と
どのように出会い、
どう体験されたかに触れている
「第21章 瞑想」の内容をご紹介します。
この章は全部で8800文字ほどの分量があるので
2回に分けて投稿することにしました。
今日は前半部分です。
自己観察———つまり、自分を見るということ、
あるがままを観察するとは、
いったいどういうことなのか、
「自灯明、法灯明」とはどういうことなのか、
ここにはとても具体的に書いてあるので、
ハラリさんが伝えたいとおもわれたことを
書かれているとおりに
そのまま受け止められるだけで、
なぜわたしがこの箇所を紹介したかったか
その一切合切について
きっとすぐ理解されることでしょう。
(引用ここから)
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第21章 瞑想———ひたすら観察せよ
これほど多くの物語や宗教やイデオロギーを批判してきたのだから、自らも矢面に立ち、私のような懐疑的な人間が、どうして毎朝依然として晴れ晴れとした気分で目覚めることができるのかを説明してこそ公平というものだろう。そうするのがためらわれるのは一つには、自分本位になるのを恐れるからであり、また、私にはうまくいくことが誰にでも効き目があるという、誤った印象を与えたくないからでもある。遺伝子やニューロン、経歴、ダルマは人それぞれで、私ならではの特性を誰もが共有してはいないことを十分承知している。だが、私がどんな色の眼鏡を通して世の中を眺めているか、そして、そのせいで私のビジョンや著述がどのように歪められているかを、読者に知ってもらうのは、良いことなのかもしれない。
ティーンエイジャーだった頃の私は、絶えず悶々としていた。世の中というものが少しも理解できず、人生について抱いていた大きな疑問の数々に、答えがまったく見出せなかった。とくに、この世界や私自身の人生にはどうしてこれほど多くの苦しみがあるのか、そして、それについて何ができるのか、わからなかった。身の周りの人や、読んだ本から得られるものはすべて、手の込んだ虚構だった。神や天国についての宗教神話も、祖国やその歴史的使命についてのナショナリズムの神話も、愛と冒険についてのロマンティックな神話も、経済成長と、物の購買や消費が私を幸せにすることについての資本主義の神話も。これらがおそらくみな虚構であることに気づくだけの分別は持ち合わせていたが、どうすれば真実を見つけ出せるかは見当もつかなかった。
大学で学び始めたとき、そこは答えを見つけるのに理想的な場所だと思った。だが、がっかりだった。学究の世界は、人間がこれまでに創り上げた神話をすべて解体するための強力な道具は提供してくれたが、人生にまつわる大きな疑問に対する、満足のいく答えは与えてくれなかった。それどころか、しだいに狭く限られた範囲の疑問に焦点を絞ることを私に促した。とうとう気がついたら、私はオックスフォード大学で中世の兵士たちが記した自伝的文書について博士論文を書いていた。趣味で哲学書をたくさん読んだり、哲学的な議論をたっぷりしたりし続けたが、果てしない知的娯楽にこそなったものの、本当の見識はほとんど得られなかった。なんとも苛立たしい日々だった。
やがて親友のロンに、少なくとも数日間は読書や知的議論はすべてやめ、試しにヴィパッサナー瞑想の講座を受けてみるべきだと言われた(「ヴィパッサナー」とは、古代インドのパーリ語で「物事をありのままに観察する」の意)。私は、これはニューエイジのわけのわからない活動だと思い、もうこれ以上新しい神話について聞かされるのはご免だったから断った。だが1年間やんわりと促され続けた後、ついに2000年4月、10日間のヴィパッサナー講習に行くことになった。
それまでは、瞑想についてはほとんど何も知らなかったので、ありとあらゆる種類の込み入った神秘的な理論を伴うものだとばかり思っていた。したがって、瞑想の教えがどれほど実践的なものかを知って仰天した。講習の指導者S・N・ゴエンカは受講生に、足を組んで目を閉じて座らせ、鼻から出たり入ったりする息に注意をすべて向けるように指示した。「何もしてはいけません」と彼は言い続けた。「息をコントロールしようとしたり、特別な息の仕方をしようとしたりしないでください。それが何であれ、この瞬間の現実をひたすら観察するのです。息が入ってくるときは、今、息が入ってきていると自覚するだけでいいのです。息が出ていくときには、今、息が出ていっているとだけ自覚します。そして、注意が散漫になり、心が記憶や空想の中を漂い始めたら、今、自分の心が息から離れてしまったことを、ただ自覚してください」。これほど重要なことを教わったのは初めてだった。
人は人生についての大きな疑問を投げかけるときには普通、いつ自分の鼻から息が入ってきて、いつ出ていっているかになど、まったく関心がない。そんなことではなく、死んだらどうなるかといったことを知りたがる。とはいえ、人生の本当の謎は、死んだ後に何が起こるかではなく、死ぬ前に何が起こるかだ。もし死を理解したければ、生を理解する必要がある。
「死んだら私は、完全に消えてしまうだけなのか?天国に行くのか?新しい体に生まれ変わるのか?」と人は問う。こうした疑問は、誕生から死まで持続する「私」というものがあるという前提に基づいているので、「死ぬときにこの『私』に何が起こるか?」という疑問が生じる。だが、誕生から死まで持続するものなどあるのだろうか?体は刻々と変化し、脳も刻々と変化し、心も刻々と変化し続ける。自分を詳しく観察すればするほど、この一瞬から次の一瞬にさえ持続するものなどないことがはっきりする。それでは、いったい何が全人生を一つにまとめているのか?もしその答えがわからなければ、人生は理解できないし、死など理解できるはずもない。何が人生を一つにまとめているかを発見したときに初めて、死にまつわる大きな疑問の答えも明らかになるのだ。
「魂が誕生から死まで持続し、それによって人生を一つにまとめている」と人は言うが、それはただの物語にすぎない。あなたは一度でも魂を目にしたことがあるだろうか?これは、死の瞬間だけではなく、どんなときにも調べることができる。一瞬が過ぎ、次の一瞬が始まるときに何が起こるかを理解できれば、死の瞬間に何が起こるかも理解できる。たった一回の呼吸の間、自分を本当に観察できれば、すべてが理解できるだろう。
自分の呼吸を観察していて最初に学んだのは、これまであれほど多くの本を読み、大学であれほど多くの講座に出席してきたにもかかわらず、自分の心については無知に等しく、心を制御するのがほぼ不可能だということだった。どれほど努力しても、息が自分の鼻を出入りする実状を10秒と観察しないうちに、心がどこかへさまよいだしてしまう。私は長年、自分が人生の主人であり、自己ブランドのCEOだとばかり思い込んでいた。だが、瞑想を数時間してみただけで、自分をほとんど制御できないことがわかった。私はCEOではなく、せいぜい守衛程度のものだった。私は自分の体の入口(つまり鼻孔)に立って、出入りするものを何であれただ観察するように言われた。ところが、しばらくすると集中力を失い、持ち場を放棄した。それは目から鱗が落ちるような経験だった。
講座が進むと、受講生は呼吸だけではなく体中の感覚も観察することを教わった。至福や恍惚といった特別な感覚ではなく、暑さ、圧力、痛みなどといった、ごく普通の平凡な感覚だ。ヴィパッサナーのテクニックは、心の流れは体の感覚と密接に結びついているという見識に基づいている。私と世界との間にはつねに体の感覚がある。私は外の世界の出来事にはけっして反応しない。いつも自分の体の感覚に反応しているのだ。その感覚が不快なときは、嫌悪感を持って反応する。感覚が快ければ、もっと欲しいという渇望を持って反応する。他の人がやったことや、トランプ大統領の最新のツイートや、遠い昔の子供時代の記憶に反応していると思っているときにさえ、じつは必ず、目下の身体感覚に反応している。自分の祖国や神を誰かが侮辱したので憤慨したなら、その侮辱が我慢できないのは、腸が煮えくり返るような感覚や、胸を締めつけられるような痛みのせいだ。祖国は何も感じないが、私たちの体は本当に痛みを感じる。
怒りとは何か、知りたいだろうか?それならば、腹が立っているときに体の中で起こって消えていく感覚をただ観察すればいい。私がこの瞑想の講習に行ったのは24歳のときで、それまでおそらく1万回は怒りを経験していただろうが、怒りが本当はどんなふうに感じられるかをわざわざ観察したことは一度としてなかった。怒ったときにはいつも、怒りとは実際にはどんな感覚かということではなく、自分の怒りの対象、すなわち誰かがしたり言ったりしたことに焦点を合わせていた。
私は自分の感覚を観察する10日間のこの講習で、そのときまでの全人生で学んだことよりも多くを、自分自身と人間一般について学んだように思う。そして、そうするためには、どんな物語も学説も神話も受け容れる必要はなかった。あるがままの現実を観察するだけでよかった。私が気づいたうちで最も重要なのは、自分の苦しみの最も深い源泉は自分自身の心のパターンにあるということだった。何かを望み、それが実現しなかったとき、私の心は苦しみを生み出すことで反応する。苦しみは外の世界の客観的な状況ではない。それは、私自身の心によって生み出された精神的な反応だ。これを学ぶことが、さらなる苦しみを生み出すのをやめるための最初のステップとなる。
私は2000年に初めて講習を受けて以来、毎日2時間瞑想するようになり、毎年1か月か2か月、長い瞑想修行に行く。瞑想は現実からの逃避ではない。現実と接触する行為だ。私は毎日少なくとも2時間、実際に現実をありのままに観察するが、残る22時間は、電子メールやツイートの処理やかわいい子犬の動画の鑑賞に忙殺される。瞑想の実践が提供してくれる集中力と明晰さがなければ、『サピエンス全史』も『ホモ・デウス』も書けなかっただろう。
瞑想が世界のあらゆる問題の魔法の解決策になるなどとは、私は断じて思っていない。世の中を変えるためには行動を起こす必要があり、こちらのほうがなおさら重要なのだが、団結する必要がある。50人が団結して協力すれば、500人がばらばらに取り組むよりもはるかに多くを成し遂げられる。もし本当に気にかけていることがあれば、それに関連した組織に加わることだ。今週中にもそうしてほしい。
とはいえ、人間の心や自分自身の心、自分の内なる恐れや偏見やコンプレックスとの対処法を理解すれば、効果的に行動したり協力したりすることが易しくなる。そうしたことをすべて理解する方法は、瞑想以外にもたくさんある。セラピーや芸術やスポーツのほうが効果が出る人もいるだろう。人間の心の謎と取り組むときには、瞑想は万能薬ではなく、科学的な道具箱に追加する貴重な道具と見なすべきだ。
※ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons 21世紀の人類のための21の思考』第21章 瞑想(前半部分)
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(引用ここまで)
私見ですが、
「私は自分の感覚を観察する10日間の……」
と始まる12番目のパラグラフが
この前半部分のコアですね。
わたしが次の部分を初めて読んだとき、
ハラリさんの身に起きた奇跡のようなできごとに
ホント驚愕しました。
自分の感覚を観察する10日間のこの講習で、
そのときまでの全人生で学んだことよりも
多くを、
自分自身と人間一般について学んだ
なんとステキな表現でしょう!
そして次の箇所。
そして、そうするためには、
どんな物語も学説も神話も受け容れる必要はなく、
あるがままの現実を観察するだけでよかった。
私が気づいたうちで最も重要なのは、
自分の苦しみの最も深い源泉は
自分自身の心のパターンにあるということだった。
何かを望み、それが実現しなかったとき、
私の心は苦しみを生み出すことで反応する。
苦しみは外の世界の客観的な状況ではない。
それは、私自身の心によって生み出された
精神的な反応だ。
これを学ぶことが、
さらなる苦しみを生み出すのをやめるための
最初のステップとなる。
ふつうはこんな風に書けないですね。
なんと素晴らしい洞察力でしょうか。
さて、明日は第21章の
後半部分を紹介する予定ですが、
それが待ちきれないという方は、
第21章の全部を丸ごと朗読している
YouTube動画を見つけたので、
聴いてみてください。
挫折なし!聞く名著 ハラリ「21lessons」第21章 瞑想
ではまた明日(^^)/

