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般若心経は間違い(苫米地英人の「真・仏教入門」)

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般若心経は間違い(苫米地英人の「真・仏教入門」)

般若心経は間違い(苫米地英人の「真・仏教入門」)

2026/05/30

5/23からこの寺子屋塾ブログでは、

お釈迦さまの臨終のことばとされる

「自灯明、法灯明」について

書いています。


今日の記事も昨日までの続きなので、

これまでの投稿を未読の方は

まず、以下から先にご覧下さい。

ブッダ臨終の言葉「自灯明、法灯明」について

『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経(涅槃経)』【訳文】

『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経(涅槃経)』【井上の解釈】

ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons』(その1)
ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons』(その2)

ユヴァル・ノア・ハラリ『21Lessons』(その3)

ヴィパッサナー瞑想とは(GABAラボ動画の文字起こし)

釈迦は何を悟ったのか(苫米地英人の「真・仏教入門」)

 

昨日は、苫米地英人さんが

お釈迦さまの悟りについて語っている

動画の文字起こしテキストを紹介しました。


昨日の記事を書いていた時点では、

その内容にコメントするつもりでいたんですが

般若心経について語った

続きの動画があるので、

今日はその文字起こしテキストを投稿して

明日投稿する記事で

昨日の記事と今日の記事の2回分に

まとめてコメントしようとおもいます。

 

【超訳】聞くだけで心が軽くなり菩薩になれるDr.苫米地のお経解説

 

(文字起こしテキストここから)
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般若心経は、根本的に間違ってます

有名なのは、スマナサーラ長老と対談したことがあるんだよね。長老が言っている仏教が「本物の釈迦が言ってた仏教」に最も近いと思ってもらったらいい。上座部仏教ね。ただ、スマナサーラ長老に俺が言ったのは、「今、六本木の街角を歩いてる男の子・女の子に、〝苦〟についていくら語っても、もう聞かないんじゃないの?」ってこと。そしたら長老は「でも私は僧侶だから、やっぱりそれを語るしかない。あなたはそういう制約がないから羨ましい」と言ってた。

 

スマナサーラ長老は、すごくいいおじいちゃんで、特に「自分が僧侶である」ということに徹底的に使命感を感じてる人なんだよね。わざわざ日本に来て上座部仏教を教えてるくらいだから、あなたみたいな人を「大乗」っていうんだよって言ったんだ。「人を救いたい」「人を悟らせたい」っていう人たちを「大乗」って言うでしょ? だから、これからは上座部とか言わないで「大乗」って言ったらって話したんだけどね。まあ、そういう話は一旦置いといて。

 

般若心経が「間違っている」とはどういう意味か

スマナサーラ長老は「般若心経は間違っている」みたいなタイトルの本を出されていて、彼が言ってることは100%正しい。もちろん、長老が言っていないこともいくつかあって、どれが長老が言ってないことで、俺が言ってることかは、正直、長老の本を読んでからだいぶ経って忘れちゃった。だからそこにあんまりこだわらずに、般若心経のどこが間違ってるか、という一番基本の話をするね。これは、上座部の人が見たら恐らく腰抜かすだろうし、俺もそうなんだけど。

 

大乗仏教の人たちは、釈迦の死後500年ぐらい経ってから出来上がった、いわゆる大乗の経典(華厳経とか法華経とか)を研究することにものすごく興味があって、釈迦そのものの人生には意外と興味ないんだよ。中国で経典が伝わってきた時に、そういうものが「伝わるような状況じゃなかった」っていうのも大前提だし、最近だとサンスクリットで書いたものはものすごく興味がある。でも、釈迦の時代の言葉は、南のパーリ語系の言語として残ってる。般若心経について語るにあたって、一つ重要な大前提がある。

 

「お経」とは何か(釈迦の遺言と口語の問題)

釈迦は、死ぬ何ヶ月か前に「そろそろ俺、死ぬぞ」って言ってるのね。予想してるわけだ。で、周囲にいた弟子たちが「あなたが死んじゃったら私たち大変。あなたの教えを後に残したい」と言った。「お経」っていうのは、釈迦が相手に合わせていろんなことを語る———対機説法って言うんだけど、相手に合わせて語るやり方ね。俺は今、視聴者に対して語ってるわけで、それを俺がチベットの寺で密教のお坊さん相手に話す時や、天台の師匠の前で話す時とは全然違うことを語る。相手に合わせて喋るのが対機説法ね。釈迦はそうして、たくさんの人の前で悟りについて語った。今で言う説法だけど、それを「お経」と言うんだよ。

 

だから「お経」って、紙に書いて一所懸命暗記したりするけど、紙に書かれた〝文〟のことじゃない。釈迦が実際に面と向かって、悟りについて語ること。それが本来の「お経」なんだ。釈迦が死んじゃったらヤバいでしょ。だから「これまで言ったことを記録に残して語り継がれるようにしてもいいですか」と弟子が言った。釈迦は「いいですよ」と言った。

 

ただし、釈迦はこう言った。「サンスクリット語(当時の文語)で残すのはやめなさい」。文語は係り受けのルートがすごく厳しいから曖昧性が低い。だから格調は高いし、文語で書き残したい気持ちは分かる。でも、釈迦は「私は日常会話の言語で語ってきてるんだから、それを文語にされちゃったらダメでしょう」と言った、という話になってる。それを忠実に守って、インド南方やスリランカあたりで使われてた口語がパーリ語(系)として伝えられて、今でもパーリ語のまま残ってるのがスリランカだ、と。

だから言うことは、大乗仏教は釈迦の死後500年ぐらい経ってからカッコつけるために、わざわざサンスクリットで残しちゃったわけで、おまえ、釈迦の言うこと全然聞いてねえだろうが、というのが本音だ、って話になる。当時のインドの口語はサンスクリット語じゃないし、もちろん今のパーリ語とも同一ではない。本当は当時の口語で残されるべきだった、と。それなのに日本は最悪で、漢語(文語)じゃん。いま日本で誰も漢語喋ってませんから。釈迦が「やっちゃいけない」と言ったことを未だにやってる。寺に行くと漢文で読んでるでしょ。

 

さらに問題:般若心経は「呪文化」している

その前にまず、「書かれ方が釈迦じゃねえだろ」ってこと。般若心経は、そのままお経みたいに読んでるけど、中身を観自在菩薩が言ったっていうのは構わない。でも、それを「観自在菩薩行深」みたいにしてしまったら、釈迦がやっちゃいけませんと言ったことになる。内容を、その時の言葉(口語)で語りなさい。それがお経なんだ。だから俺が今やってることは「お経」なんだぜ、って言ってるわけね。内容を語ってるでしょ。

 

釈迦はまず呪文を禁じた。マントラを禁じた。当時のバラモン教は呪文いっぱい唱える、魔術みたいな世界があって、「そんなものは人の役に立たん。嘘じゃん」っていう立場だった。でも、般若心経の最後に「羯諦羯諦波羅羯諦……」って付いてるでしょ。あれはどう考えても呪文じゃん。釈迦が「やっちゃいけない」と言ったことです。ここは大前提として。

 

「仏教を少しでも勉強した人」が腰を抜かす点

じゃあ内容に行くよ。ちゃんと大乗のそういう点を置いといて、釈迦の人生、釈迦の弟子たち、ということを少しでも勉強したことがある人たちが腰抜かすことが一つあります。冒頭に般若心経には「観自在菩薩がこう言いました」って書いてあるわけ。観自在っていう自由自在に見ることができる菩薩様がこう言いました、と。で、途中で「シャーリプトラ(舎利子)」が出てくるの知ってる? シャーリプトラっていうのは仏弟子の一人ね。

 

この経は、観自在菩薩がシャーリプトラに「おめえ、悟り分かってねえだろ。釈迦の言ってること分かってねえじゃねえか」って言って聞かせる形を取ってるお経なのね。要するに、観自在菩薩が「シャーリプトラ、おまえバカ野郎」って言ってる構造なんだよ。これ、ちゃんと仏教を知ってる人は腰抜かす。

 

「アラハン(阿羅漢)」っていう概念があって、阿羅漢っていうのはすでに悟った人。釈迦の弟子は基本、悟ってるわけ。シャーリプトラは、その阿羅漢の中でも上位級。上座部仏教では「ブッダ」は釈迦のみに対して使うけど、大乗仏教では悟った人を全部「ブッダ」って言う。ブッダは覚醒した人って意味だからね。そういう意味ではシャーリプトラは「ブッダ」級の人なんだよ。

 

一方、菩薩っていうのは修行中の人を菩薩って言う。大乗仏教では「悟るための修行中の人」が菩薩。今この話を聞いてる皆さんは、悟りの修行中という意味では菩薩だよね、みたいな言い方をする。でもつまり、このお経は「悟り途中の菩薩が、阿羅漢(=悟った弟子)であるシャーリプトラに説教してる」構図になる。だから仏教を知ってる人が般若心経読むと腰抜かすんだよ。

 

さらに言うと、中国語で「舎利子」を「舎利子(シャーリーシ)」って訳すのは、子どもの子で、馬鹿にするときに「子」を付けるニュアンスがある、とか。そこまで含めて、観自在菩薩っていう〝偉い人〟が、シャーリプトラに語ってる、というイメージでこの経が作られたんだと思う、というわけ。

 

もう一つの種明かし:「偽経」説

もう一個、種明かしをします。ファクトね。ファクトは、般若心経は漢訳版とサンスクリット版の二つがあります。今までの言われ方だと、「サンスクリット版がまずあって、大量にある経典(大般若経)のエッセンスが般若心経で、それを漢訳した」みたいに言われてきた。でも歴史上、現物として残ってるものを見ると、一番古い般若心経は法隆寺にある漢訳版で、八世紀頃のもの。日本は偉いんだよ、サンスクリット版のすごく古いものが日本にある。ただし、漢訳版は七世紀ぐらいからある。おそらく六世紀ぐらいには成立してて、七世紀のものはすでに発見されてる。
 

一方でサンスクリットの大量の経典は、チベット大蔵経として、近代に入ってから翻訳研究が進んだ。チベットの資料がまずフランス語になって英語になって日本語になって入ってきたのが昭和以降。だから「日本の坊さんは昭和になるまで本当の仏教知らなかった」と言われる、という話もある。で、サンスクリットの経典がチベットで大量に発見されているのに、法隆寺の漢訳経より古いサンスクリットのお経は結局発見されてない。今あるものでも、漢訳版の方がサンスクリット版より100年早い、と。
 

そう言われてみれば、普通お経って「如是我聞」から始まるんだよね。もしくは長い前置きがある。そういうパターンがある。ところが般若心経は「如是我聞」ではなく、「観自在菩薩がのたまった」から始まってる。般若心経だけルール違反なんだよ。


で、いま世界の宗教学者の定説としては、サンスクリットのインドで作られた経に対して、中国で作られた経を「偽経」と言うんだけど、般若心経は偽経、つまり「中国人が中国で作った」ものだ、という説が有力になってきてる。1990年代から北米の学者が言い始めて、定説化してきている、と。もちろん本当に古いサンスクリット版が発見されれば、話は変わるかもしれない。でもまずない。チベットであれだけ見つかって、その後インドやネパールでも発見されてきたのに、それより古いものがない。

 

漢訳は七世紀からあるし、内容的に言っても、あれは仏教の教えじゃなく、道教の教えが書かれてる。思想的には「空」ではなく「無」について書かれてる、という話になる。だから般若心経がなんで間違ってるかの大前提は、「仏教徒以外が作っただろう、この野郎!」というところがまず基本ね。もしくは仏教を道教で解釈して、釈迦の仏教を知らない人が作った可能性が高い。そうすると内容的に分かる。ただし、観自在菩薩が阿羅漢に「おめえ分かってねえだろ、釈迦の教えが」って説教する、という構造はやめてくれ、と。だから今後、般若心経をどうしても用いる人は「シャーリプトラがこう語った」みたいに書き換えた方がいい、と言ってる。

 

般若心経の「コアな間違い」:色即是空・空即是色

大前提を分かった上で、般若心経の一番コアなところの間違い、それは「色即是空、空即是色」にあります。これ、ボロボロに間違い。これは俺ももちろんそう思うし、スマナサーラ長老も確実に指摘されてた。「色即是空」は「色はすなわち空である」だよね。ひっくり返して「空即是色」は「空はすなわち色である」。両方ひっくり返してるってことは、「空と色は全く同じもの」ということの強調だよね。これが漢文の倒置法といって基本の読み方だ。でも、ちょっと待てよ、と。色ってのは物質のことね。物質と空は同じであります、って……仏教分かってねえだろう、って言わなきゃいけない。「犬即動物、動物即犬」みたいなもんだよ。え?でしょ?「犬は動物だ」は正しい。でも「動物は犬だ」はダメでしょ?

 

色と空は抽象度が違う概念なのよ。空は上位の抽象概念でしょ。「有」と「無」の上にある概念を「空」というわけね。だから、「色即是空、空即是色」って言った人は、空という概念が分かってない。だから、もし俺が般若心経を書き換えるんだったら、おそらく「色即是無、無即是色」。さらに「包摂(subsumption)」みたいな分析哲学用語を使うなら、「情報量が少ない方が多い方を包摂する」って意味ね。つまり上位概念が下位概念を包む、ってこと。それなら「動物」は「犬」を包摂する。「動物」は上位概念ですよ、って意味ね。そうするなら、「空包摂色、空包摂無」みたいな方向になる。空は色を包摂する。空は色の上位概念ですよと、そういう関係にしないといけない、という話。

 

質疑応答:神(完全情報)と空の関係は?

Q:神が完全情報(全ての情報を接するもの)だとすると、全ての概念を包摂する空と似ているなら、神の声を聞くのは空の境地と似てると思うが、神と空の関係はどうなっているんでしょうか?
 

A:これに対しては、「ちょっと違う」って答えだね。神が完全情報である、というのは(定義上)そう言えるかもしれない。でも空は完全情報じゃない。完全情報っていうのは、宇宙の全ての情報が入ってるってこと。空はむしろ「何よりも情報量が少ない」状態。ゼロ情報って言うと語弊があるけど、上位概念ほど情報が減っていく、という意味で「最も情報が少ない」側なんだよ。犬と猫の上位概念は動物。動物は犬より情報が少ないし、猫より情報が少ない。上に行くと情報が減る。空の定義は、「どの二つを取ってきても、それらより必ず情報量が少ないもの」。つまり、何を持ってきても空の方が上位で、情報量が少ない。だから完全情報とは逆の概念。だから「空」と「神(完全情報)」は全く違う概念でしょ、という結論になる。
 

矛盾とは何か(情報量の観点から説明)

Q:矛盾を説明してください。

A:はい。矛盾は、西洋哲学(論理学)では「任意の二つより情報量が多すぎるもの」を矛盾として定義する、みたいな話になる。例えば「猫なのにワンと鳴く」とか。「アメリカンショートヘアとプードルの両方の下位にあるものは何ですか」って言われたら無理でしょ。情報量が多すぎる。だから矛盾。西洋哲学では一番下は矛盾で、上は空(最上位概念)で閉じる、と。俺は西洋哲学と東洋哲学を統合して、「上は空で閉じて、下は矛盾で閉じる。そういう巨大な空間が宇宙ですよ」っていうのが俺の定義。ただし、釈迦が言ったことは、そうじゃない。

 

結び:「指を見るな。指さしたところを見ろ」

俺がこうやって悟りを指してるとしても、俺の指を見るな。俺の指さしたところを見ろ、って言ってんのね。それが最初に言った「釈迦の悟った内容は、空でも縁起でもない」ってこと。つまり、空や縁起は俺の指に過ぎないんだよ。指さしたところをちゃんと見ろと。見るっていうのは、五感すべてで見てみろ、っていうのが釈迦の教え。

 

華厳経がいいとか法華経がいいとか、いろんなこと言うけど、それは俺の指をいろんな側から眺めて「こっちがいいですよ」って言ってることに過ぎない。だから、指さしてるところを見よ。これはちゃんと瞑想して、悟りの修行をしないと見えませんよ。

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(文字起こしテキストここまで)

 

 

この続きはまた明日に!

 

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