ザ・メンタルモデルについて(その21)「価値なしモデルと愛なしモデル」
2026/07/06
6/16からこの寺子屋塾ブログでは、
7/20(月・祝)に予定している
『レゾナント・コミュニケーション』読書会
の事前準備を兼ねて、
著者のおひとり、由佐美加子さんが発見された
〝ザ・メンタルモデル〟について書いています。

昨日までの投稿記事に未読分がある方は
まず次から先にどうぞ!
・ザ・メンタルモデルについて(その1)「はたあそ(第1部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その2)「はたあそ(第2部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その3)「TEDx Talksプレゼン動画」
・ザ・メンタルモデルについて(その4)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?①
・ザ・メンタルモデルについて(その5)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?②
・ザ・メンタルモデルについて(その6)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?③
・ザ・メンタルモデルについて(その7)『学習する組織』と『U理論』
・ザ・メンタルモデルについて(その8)「〝痛み〟とどう向き合うか」
・ザ・メンタルモデルについて(その9)「〝源(みなもと)〟とは何か?①」
・ザ・メンタルモデルについて(その10)「〝源(みなもと)〟とは何か?②」
・ザ・メンタルモデルについて(その11)「〝源(みなもと)〟とは何か?③」
・ザ・メンタルモデルについて(その12)「〝源(みなもと)〟とは何か?④」
・ザ・メンタルモデルについて(その13)「〝源(みなもと)〟とは何か?⑤」
・ザ・メンタルモデルについて(その14)「吉本隆明『共同幻想論』に重ね合わせてみて」
・ザ・メンタルモデルについて(その15)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり①」
・ザ・メンタルモデルについて(その16)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり②」
・ザ・メンタルモデルについて(その17)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり③」
・ザ・メンタルモデルについて(その18)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり④」
・ザ・メンタルモデルについて(その19)「ライフタペストリーとプロセスデザイン」
・ザ・メンタルモデルについて(その20)「ライフタペストリーと親鸞上人」
この連載記事も回を重ねて21回めとなりました。
親鸞上人が『教行信証』で説いた
「往相」と「還相」について、
引用して紹介しました。

それにしても、その前段として語られていた
「修行なんてするな。お経なんて何の意味もない。
仏像もいらねえ。戒律っていうのは
ことごとくいらないものなんだ。
念仏だって一生に一度だけ
心をこめて唱えればそれでいい。
肉を食おうが魚を食おうがかまわないし、
妻帯してもいい。」ってお話は
とりわけインパクトがありましたね。
皆さんは、浄土真宗の開祖・親鸞上人が
そういう考えの人だったって
知っていましたか?
昨日の記事では「往相」と「還相」について
敢えて説明しなかったんですが、
阿弥陀仏の本願によって開かれる救いの
二つのはたらきのことを言っているんですね。
往相とは、迷いの世界に生きる凡夫が、
自力の修行や善行によってではなく、
阿弥陀仏の本願を信じ、
念仏によって浄土へ往生していく道———つまり、
こちら側から浄土へ向かう救いの相です。
一方、還相とは、浄土に往生した者が、
そこで悟りを完成して終わるのではなく、
再び迷いの世界へ還り、
苦しむ人々を救うはたらきに加わることです。
つまり、往相が「浄土へ往く道」だとすれば、
還相は「浄土からこの世へ還る道」と
言ってよいでしょう。
親鸞にとって、この二つはいずれも人間の力でなく、
阿弥陀仏の本願力によって成り立つものであり、
自分が救われることと他者を救うことは
一つにつながっていると言っているんですね。

ライフタペストリーに準えると、
適合期→直面期→自己統合期という
ライフミッションに出会うまでの前半が「往相」で、
自己統合期→体現期→自己表現期という
ライフミッションを実現していく後半が「還相」だと
捉えてみてはいかがでしょうか。
わたしは、こんなことを話すことがあります。
「悟りを開く」ということについて、
多くの人がそれを人生全体の
「ゴール」であるかのように
イメージしているかもしれないけれど、
実はそれは勘違いで、
悟りを開くまでの人生は前半戦であって、
悟りを開いてからが
後半戦の〝スタート〟なんだよと。
さて、今日からいよいよ
メンタルモデル四類型に入っていこうとおもいます。
(その9)の記事で紹介した
由佐さんご本人が語られている
「源から生きる、生き方革命」シリーズの動画に、
メンタルモデルの四類型に触れたものがあるので
それを文字起こし付きでご紹介。
今日は「価値なし」と「愛なし」について。
・源から生きる、生き方革命」第14回<メンタルモデル探究シリーズ>価値なしモデル & 愛なしモデル
(文字起こし・ここから)
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みっつ(山本光裕):
それでは時間になりましたので、「源から生きる、生き方革命」第14回を始めていきたいと思います。今回から数回にわたって、「メンタルモデル探究シリーズ」という形で進めていきたいと思っています。メンタルモデルは、大きく分けると4つの分類があります。「価値なしモデル」「愛なしモデル」「ひとりぼっちモデル」「欠陥欠損モデル」──この4タイプです。今日はそのうちの2つ、「価値なしモデル」と「愛なしモデル」について探究していきたいと思います。
由佐美加子:
そもそもメンタルモデルは、「痛み」から始まります。本来この世界にあるはずだったものが、生まれてきて育っていく過程で、「この世界に、わたしが本当に欲しかったものはないんだ」と気づく。その痛みをいちばんの原点にしている──わたしはそう捉えています。
だから「欠損しているもの」に関しては、みんな同じような体験を持っているんですよね。「自分は愛されないんだ」とか、「仲間に入れてもらえないんだ」とか、「つながりがない」とか。体験の度合いはさまざまだけれど、悲しかったり、評価されて「自分は価値がない」ように扱われてきたとか、何かしらの〝痛み〟の体験は、全人類が持っている。人はこの4タイプを(程度の差はあれ)持っている、というのが基本です。そしてあるとき気づいたんですよね。
人は、生きているうえで、何回も何回も「同じ痛み」が起こる。痛みを与える人物は変わるし、大きくなれば関わる人間が変わっていくから、痛みが起こる状況や舞台は変わるんだけれども、「ああ、これが本当に痛い」と感じる痛みは、特定の痛みを繰り返すんだな、と。途中から、特定の繰り返しているパターンをずっと見ていくと、その人固有の〝信念〟が奥にあることが分かるようになっていきました。人生でずっと味わい続ける「何か」を、一人ひとりが持っている。そして「なぜ、その痛みが、その人にだけ、そんなに何回も何回も人生で再生するのか」を追いかけていった先に「メンタルモデル」がある。
さらに、メンタルモデルをひもといていくと、今度は逆に、「この人がこの世界で、どういう情熱を持って、どんな世界を作りたくて生まれてきたのか」というところが見えてくる。そしてその人がそれをやろうとしたとき、ものすごく光を放つ。自己一致し始める。「ああ、そうだよね。この人、こういうことを表現したいんだよね」というところが見えてくる。
そういうのを見てくる中で、「痛みはその人のミッションみたいなものに紐づくんだ」ということが分かってきました。ミッションと、「ずっとそれがない」と思ってきた痛み。そこに注目して見ていくと、その人の人生の全容が、どうデザインされてきているのかが分かってくる。結局、痛みはみんな共感できるけれど、その人が持ってきた痛みの種類、パターン化した痛みの種類、そこから作られた信念、そしてその裏側にあるミッションは、やっぱり固有のものがある。
ざっくりメンタルモデルで見ていくと4種類ある。でも表現の仕方はみんな違うんです。講師になる人もいれば、普通に会社で働く人もいる。いろいろな表現方法がある。だけど、「どういう世界をもたらしたかったのか」「その人の情熱」は、痛みにすごく紐づいてる。それが動き始めた時の光はすごい。人生ってそういうふうにデザインされてるんじゃないか、という仮説を持ち始めて、わたしはそれを「ライフタペストリー」と呼んでいます。
人間が、ひたすら痛みを何とかしようとするところから脱却し、それを情熱に展開して、「本当に望んでいたもの(この世界にあるはずなんだ)」を見つけられるようになればいい。そんな願いで、この探究をやっています。
では、今日のテーマの一つ目。「価値なし」からいきます。価値なしは、いちばんこの世の中に適合しているメンタルモデルです。基本的には、他者の価値基準の中で、自分が評価・判断されていることに痛みを感じている。そして「ありのままの存在だけで評価される、ということはこの世界にはない」と信じている。だから、パフォーマンス──つまり成果です。
何かしら人より優れている行為、成果を出す、能力を証明する。何かをやることで人に価値を出せたら、自分は価値があると思われるんだ、と信じる。これが価値なしのメンタルモデルです。価値なしの人たちの大きな特徴は、「自分との自己対話ができなくなってしまう」ことです。自分と対話して自分につながってしまったら、人から求められているものを無条件にやって期待に応える、なんてことができなくなっちゃう。だから、自分と切り離さないと、価値なしのメンタルモデルは作動できない。
その結果、まず体が置き去りになります。「やりたい/やりたくない」という身体感覚が全然働かない。「やったらいいよね」「行ったほうがいいよね」「こういうことをやったら、きっとみんなにとって価値があるよね」そんなことに対して、無制限に自分の体を使ってしまう。だから体に出やすい、というのがあると思います。価値を出すために、価値なしはめちゃくちゃ動くんです。しかも自分と切れているので、自分の体が疲れていることもよく分からない。
休みたいのに休んでいると、怠けている感じがする。落ち着かなくて、動いちゃう。そういう傾向を持っている方もすごく多い。だから一番のリスクは、病気になることです。うつでシャットダウンすることもある。「もう体がついていけません。あなたの自動化システムは限界です」と、強制終了される。体を壊しやすいのは、やっぱり価値なしです。
でも、病気ってある意味、外界との接触を断つじゃないですか。だから、自分の体と向き合ったり、つながり直したりする〝機会〟だとも言えます。ただ、ここまでしないと止まれない。ここまでしないと自分とつながろうとしてくれない。いのちが、そうまでして一生懸命、自分とつなげようとして、守ろうとしている。そういうふうにも見えます。
価値なしは、若い時は頑張れちゃうし、能力も上がる。「優秀」と評価もされやすい。だけど、自分と切り離されちゃう。だから、「どうやって自分とつなぎ直せるか」が価値なしにはすごく大事です。ニンジンをぶら下げて走るんじゃなくて、本当に自分はそれをやりたいのか、本当にそれが自分の望んでいることなのか。「自分が何を欲しいのか」「何を満たしたいのか」を自己対話する練習をしてもらえたらいいな、と思っています。
それから、強制的でもいいから「休む時間」をちゃんと取る。落ち着かなくてもいいから、とりあえず、その日やりたいことを自分優先でやってみる。他の人にとってどうか、という世界をその間だけ消して、自分に忠実に動く練習をしていってほしい。これが価値なしへの提案です。
次に「愛なし」です。愛なしは、とにかく人とのつながりが大事。そして「愛は、奉仕活動の結果、満たし合うものだ」という信念を持ちやすい。「あなたがわたしを愛してるなら、こういうことをわたしにやってくれますよね」「わたしはこれだけやってるから、私は愛されてるはずだよね」こういう取り引きの愛になりやすい。
だから、つながりを維持するためには、何かをやってあげないといけない、という構造にめちゃくちゃはまります。自己犠牲的になりやすい。本当はやりたいか分からないのに尽くしすぎて、我慢して、自分を殺して、やりたくもない奉仕をしている。そうして疲れ果ててしまう。そして「これ以上こんなにやっても、僕には愛は来ないんだ」となっていく。同じ痛みなんだけど、価値なしとはまた違う形で現れる。
それが憎しみに変わったり、あるいは「距離を置く」方向に行ったりする。「傷つくのが嫌だから距離を取る」っていうふうになってしまうこともある。だから愛なしさんにあってほしいのは、とにかく「自分にあることを無条件に受け入れる」ことです。何があっても「そうなんだね」と、自分で感じる。自分にあることを、ただ感じる世界を取り戻してほしい。
価値なしも愛なしも共通しているのは、「自分の内側に何があるのか」を切ってしまうことです。内側を感じていると、奉仕し続けたり、期待に応え続けたりはできない。だから自分より外側が優先になって、自分が後回しになる。なので、「人よりもまず自分」。そこを取り戻してもらえたらいいな、というのが、価値なしと愛なしの共通のテーマです。
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(文字起こし・ここまで)
この続きはまた明日に!(^^)/


