ザ・メンタルモデルについて(その20)「ライフタペストリーと親鸞上人」
2026/07/05
6/16からこの寺子屋塾ブログでは、
7/20(月・祝)に予定している
『レゾナント・コミュニケーション』読書会
の事前準備を兼ねて、
著者のおひとり、由佐美加子さんが発見された
〝ザ・メンタルモデル〟について書いています。

昨日までの投稿記事を未読分がある方は
まず次から先にどうぞ!
・ザ・メンタルモデルについて(その1)「はたあそ(第1部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その2)「はたあそ(第2部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その3)「TEDx Talksプレゼン動画」
・ザ・メンタルモデルについて(その4)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?①
・ザ・メンタルモデルについて(その5)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?②
・ザ・メンタルモデルについて(その6)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?③
・ザ・メンタルモデルについて(その7)『学習する組織』と『U理論』
・ザ・メンタルモデルについて(その8)「〝痛み〟とどう向き合うか」
・ザ・メンタルモデルについて(その9)「〝源(みなもと)〟とは何か?①」
・ザ・メンタルモデルについて(その10)「〝源(みなもと)〟とは何か?②」
・ザ・メンタルモデルについて(その11)「〝源(みなもと)〟とは何か?③」
・ザ・メンタルモデルについて(その12)「〝源(みなもと)〟とは何か?④」
・ザ・メンタルモデルについて(その13)「〝源(みなもと)〟とは何か?⑤」
・ザ・メンタルモデルについて(その14)「吉本隆明『共同幻想論』に重ね合わせてみて」
・ザ・メンタルモデルについて(その15)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり①」
・ザ・メンタルモデルについて(その16)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり②」
・ザ・メンタルモデルについて(その17)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり③」
・ザ・メンタルモデルについて(その18)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり④」
・ザ・メンタルモデルについて(その19)「ライフタペストリーとプロセスデザイン」
さて、この連載記事も回を重ね
20回めとなっています。
ザ・メンタルモデルについて
「源とは何か」という前段の話が
延々と続きましたが、
昨日からようやく具体的な中身の話に
入っています。
昨日投稿した(その19)記事の
メインコンテンツは
ザ・メンタルモデルの〝ライフタペストリー〟
5つのプロセスでした。

適合期→直面期→自己統合期→体現期→自己表現期
の5つの文章を
ご自身がいまどのプロセスにあるか
意識しながら読まれましたか?
1.適合期 2.直面期 の何れかの段階にある方が
ほとんどではないかとおもいます。
プロセスデザインや、
フレームワークという考え方を知って頂きたく
エリクソンの発達段階の話や
未来デザイン考程についても触れました。
また、わたしが寺子屋塾を始めて
5年目のタイミングで書いた
つぶやき考現学 No.4も紹介したんですが、
ご自身は7つの段階のうち、
何段階目にいらっしゃるでしょうか?
あの詞でわたしが一番伝えたかったことは何か
わかりましたか?
さて、そろそろ今日の記事では
ザ・メンタルモデル四類型の話に移ろうかと
考えていたのですが、
昨日の記事を書いているうちに
親鸞上人が説かれた
「往相と還相」という考え方をおもいだし
プロセスデザインのことを
もう少し書いておきたいと気が変わりました。
ザ・メンタルモデルでは、
ライフミッションに出会うまでの人生が前半戦、
ライフミッションをいかに実現していくかが
後半戦と言われているようですが、
多くの人は前半戦だけで終わってしまう……。
だから、「これこそ自分のライフミッション」と
言えるようなものを
人生が終わる前に見つけられた
わたしのような人間は
とてもラッキーな部類に入るんじゃないかと
おもっているんですが。
でも、ライフミッションを見つけようと
目指していたわけではないんです。
では、目指していたわけじゃないのに、
なぜ見つけられたのかということについて
書いておきたくて
親鸞上人の「往相と還相」に
触れておきたいと考えました。
ただ、わたしの拙い文章力では、
1日で書けるブログ記事で
親鸞上人の「往相と還相」について書くのは
至難の技だと感じたので、
その語り手として
吉本隆明さんに登場していただきます。

このブログ記事では、何度か引用して
紹介したことがある
吉本隆明さんが15歳の子どもたちに
行った講義をまとめた
『ひとり 15歳の寺子屋』の中から、
親鸞上人の「往相と還相」に触れられている箇所を。
(引用ここから)
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行きがけの道だから迷って当たり前
さて、じゃあ「今やりたいことと将来のためにやるべきこと、どっちを優先させるべきか」っていうあなたの質問について、考えてみることにしましょうか。
そうですねえ、お坊さん的ないい方をするとすれば、それは僕がまだ悟りを開いていないところかもしれません。どっちがいいときかれても、こっちがいいといえない。わからないんですね。その時に考えて、考え抜いて、そこを切り抜ける以外に方法を持っていない。これが親鸞だったら、きっとバシッといえちゃうんだろうなあ。
親鸞は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた頃のお坊さんで、それまでの仏教の教えみたいなものを、ことごとくひっくり返した人です。平安朝末期から戦国時代に至る間っていうのは戦乱の世で、人々が路頭に迷って大変な思いをしていたから、お坊さんたちがそういう人たちをどうやって救おうか、考えをめぐらせた時期でもあるんです。興味がわいた方はそこを勉強すると、日本人の善悪についての考え方っていうのがいちばんハッキリわかると思いますよ。
僕は、この親鸞というお坊さんが好きでね。だいたいお坊さんっていうのは、普通の人を教化しようとするじゃないですか。「おまえたち、全然わかってないから、ここまで引き上げてやろう」って思うものですよね。ところが親鸞はそうじゃない。そこが親鸞の特異なところで、自分の方が普通の人と同じところに行こうとした。なぜならば、人々を救ってあげるえらい人間がいるんじゃない、普通の人こそが人間だって考えたからです。そうして自分の宗教心を普通の人に近づけようとして、うんと努力した人なんです。
親鸞のお師匠さんの法然は、「生きてる限り念仏を唱えろ。百万遍でも唱えろ」と説いた人でした。念仏さえ唱えれば救われる、死んだあとに必ず浄土に行けるからと。今でも京都に百万遍という地名がありますけど、あれは法然の教えからついた地名なんです。弟子の親鸞は、さらに過激です。「修行なんてするな。お経なんて何の意味もない。仏像もいらねえ。戒律っていうのはことごとくいらないものなんだ」っていうのが、親鸞の教えでした。
〈一念義〉っていうんですけど、念仏だって一生に一度だけ心をこめて唱えればそれでいい。肉を食おうが魚を食おうがかまわないし、妻帯してもいい。仏教の戒律を破ることを「破戒」といいますが、親鸞自身がこれまでの戒律をことごとく破った破戒坊主でした。そのくらい根本からひっくり返して考えようとした親鸞は、優れた思想家でもあったと僕は思います。
そういう親鸞の考えがいちばん表れているのが、〈悪人正機〉という有名な言葉です。
善人なほもて往生をとぐ いはんや悪人をや
善人ですら死んだら天国に行けるんだから、悪人はいうまでもなく行ける。あれ?普通は逆じゃねえかって思いますよね。でも親鸞にいわせると、「そもそも宗教っていうのは善人よりも悪人を救うためにあるんだから」ということになる。こんなふうに、逆説的ないい方でズバリと本質をつくのが親鸞なんです。
さて、そんな親鸞なら、今のあなたの質問にどう答えるのか。
僕が思うに、親鸞なら「そういうことで悩むのは行きがけの道だからだよ」っていうんじゃないか。行きがけの道では、人はいい人間になろうとして、いろんなことに当面するたびに迷いや悩みがいっぺんに出てくる。これが、悟りを開いた帰りがけの道なら、迷わないで決断できるものなんだと、親鸞はいってるんです。
そんなことをいわれても、普通はなかなかそんなふうに悟れるものじゃないですよね。僕なんか八十歳を過ぎた今でも、まだ行きがけの気持ちでいます。ちっとも帰りがけの気持ちにはなれない。いくつになってもまだ行きがけの道が続いているというのが実感だから、そんなふうに悟った帰りがけの気持ちにはなれねえよ、と思う。
そこで、思い出すのが西行の歌です。
年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山
西行も、やはり人生を長い旅路に重ねています。「小夜の中山」というのは、東海道の難所でした。この歌を詠んだ時、西行は六十九歳。かつて若い頃に越えたところを、そんな高齢になってまた越えようとしている。「命なりけり」というのは、そういう自分の人生を振り返っての感慨だと思うけど、僕が今読むと、「それが自分の宿命だったんだ」というような少し重い意味で響いてくる。
生きていくことは、たぶん誰にとっても行きがけの道なんですよ。立派な人にはまた特殊な見え方があるのかもしれないけど、僕ら普通の人間は、悟りを開いて帰りがけになるなんてことはまずないんだってことが自分でわかっていれば、まずそれでいいんじゃないか。人は誰しも行きがけの道を行く。そうして迷いながら、悩みながら、ただただ、歩きに歩いていくうちに、ああ、これこそが自分の宿命、歩くべき道だったんだと思うことがあるんじゃないか。「命なりけり」と気づく時がくるんじゃないか。
やりたいこととやるべきこと、どっちをやればいいのかなんてわからないんですよ、きっと。いつまで経っても。その時その時で悩んで、考えて、考え抜いて選択するほかはない。どっちがいいかはわからないまんま、また、その先を行く。
だけど、そうすると、いつか、「ああ。これが自分の宿命だったんだ」「これが自分の歩くべき道だったんだ」と思うこともあるかもしれない。「命なりけり」と思える日がくるかもしれない。そういういつかを頼みにして、ただただ歩き続ける。そういうものなんじゃないでしょうか。
「行きがけの道だから迷う。帰りがけなら迷わないよ」というのも、いかにも親鸞らしいいい方です。僕も、みなさんも、まだ行きがけなんだから迷って当たり前なんですよ。
※吉本隆明『ひとり 15歳の寺子屋』三時間目より(P.46〜50)
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(引用ここまで)
この続きはまた明日に!(^^)/


