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大人ってどんな人のこと?(その8・最終回)

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大人ってどんな人のこと?(その8・最終回)

大人ってどんな人のこと?(その8・最終回)

2024/02/17

昨日投稿した記事の続きで、そもそも

「大人とはどんな人のことをいうのか」という

問いについて考察してきたこの記事も

これで8回目となりました。

 

ただ、前提としてこの問いは、

考えを深めていくことによって

唯一の正解が見つかるようなものではないので、

わたしがそれを明確に定義し

皆さんに示すことが目的ではありません。

 

これまで7回にわたって投稿してきた記事は、

この記事を読まれる皆さんが、

この問いについて自分で考えようとするときに

〝素材〟になりそうなことをピックアップして

記してきたつもりなんですが、

現時点でわたしが知り得ている大事なことは

ほぼ提示できたようにおもいますので、

そろそろ区切りにしたいとおもいます。

 

これまでの投稿に未読記事がある方は

記事の終わりにあるリンク集を適宜参照された上で

本日分の記事を読んで下さい。

 

昨日の記事では

吉本隆明さんの『ひとり 15歳の寺子屋』から、

「大人になるってどういうこと?」という

子どもからの問いと、その問いに

吉本さんが応えている6時間目のお話から

冒頭部分をそのままご紹介しました。

 

吉本さんのお話は非常に明快で、

「子どもにあるものは、大人にもみんなある」って

いうことでしたね。

 

つまり、そもそもわたしたちが

「子ども」と「大人」を分けているものは

いったい何かを意識することが必要で

ホントはそんなこそは無いって知ることが

大事なのではないかと。

 

それにしても、何がスバラシイってこの本は

巻末に書かれた子どもたちの感想が

ホント、いいんですよね〜

 

昨日の記事では、小高美久さんの感想だけしか

ご紹介しませんでしたが、

このときの吉本さんは84〜5才なのに、

誰も「おじいさん」と呼んでいないばかりか、

4人とも、

「こういう大人の人に、初めて会いました」

「話を聞いて、自分の何かが確実に変わった」

自分の言葉で書いているところです。

 

 

さて、今日は内田樹さんの文章を紹介しようと

おもっていて、そのメインコンテンツは

冒頭の写真に挙げた

『困難な成熟』文庫版あとがきなんですが、
(冒頭の写真は単行本です)

その前に、(その1)の記事の前日投稿した

記事でご紹介した

『寝ながら学べる構造主義』まえがき

書かれていた話の一部分から、

これまで7回にわたって投稿してきた

「大人とはどういう人のこと?」

というテーマについて考える上で、わたしが

ここはひとつのポイントかなと

おもった箇所のおさらいから。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・・・なぜ、私たちはあることを

「知らない」のでしょう?

なぜ今日までそれを「知らずに」きたのでしょう。

単に面倒くさかっただけなのでしょうか?

それは違います。

私たちがあることを知らない理由は

たいていの場合一つしかありません。

 

「知りたくない」からです。

 

より厳密に言えば「自分があることを

『知りたくない』と思っていることを

知りたくない」からです。

 

無知というのはたんなる知識の欠如ではありません。

「知らずにいたい」という

ひたむきな努力の成果です。

無知は怠惰の結果ではなく、勤勉の結果なのです。


嘘だと思ったら、親が説教くさいことを

言い始めた瞬間にふいと遠い目をする

子どもの様子を思い出して下さい。

 

子どもは、親が「世間話モード」から

「説教モード」に切り替わる瞬間を

しっかり見切って、即座に耳を「オフ」にします。

 

教師に対しても、

バイト先の店長に対しても同じです。

 

子どもは「大人の説教」を

ひとことでも耳に入れないために、

アンテナを張り巡らし、

「説教」の兆候がないかどうか、

不断の警戒を怠りません。

 

たいへんな努力だと思いませんか?

「もしも子どもが単に不注意で

怠惰であるだけだったら、

「ついうっかりして、親の説教を最後まで

真剣に聞いてしまった」ということだって

起こってよいはずです。

 

でも、そんなことは絶対に起こりませんね。


あることを知らないというのは、ほとんどの場合、

それを知りたくないからです。

 

知らずに済ませるための努力を惜しまないからです。

 

ですから「私たちは何を知らないのか」

という問いは、適切に究明されるならば、

「私たちが必死になってそこから

目を逸らそうとしているもの」を

指示してくれるはずです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

40年教育の世界で仕事をしてきて

たくさんの子どもたちや大人と接してきましたが、

「自分があることを『知りたくない』と

思っていることを知りたくない」というのは、

子どもも大人も関係なく少なからず見られる

徴候のように感じていて、このことは、

わたしが、〝教えない教育〟

つまり、上意下達的に教えようとするのでなく、

問われたことに対して答える姿勢を

原則にするようになった理由のひとつでもあります。

 

「自分が何を知っていて、何を知らないのか」

それを自分できちんと認めようとする姿勢は、

大人の態度の一つと言ってよいでしょう。

 

でも、たくさんのことを知っていることが

必ずしも良いわけでもないので、

大人と子どもを単純に比較して、

「もっと大人になりましょう!」ナンテことが

言いたいわけではありません。

 

ただ、「自分があることを『知りたくない』と

思っていることを知りたくない」ということを、

本人が無自覚のうちにしている場合は、

アクセルとブレーキを同時に踏むようなもので、

エネルギーの無駄遣いをしているわけですから、

それは避けた方がいいんじゃないですかって

ことなんですが。

 

以前投稿した「論語499章1日1章読解」でも、

いわゆる〝無知の知〟に言及している

為政・第二の17番(通し番号033)を

紹介したことがありました。

「知る」とはどういうことか(「論語499章1日1章読解」より)

 

知識はたくさんアタマに詰め込んでも

それだけでは仕方が無いし、

結局はどれだけそれが体現できているかでしょう。

 

学ぶということの本質を掴みたいのであれば、

問いは、自分のアタマで考えようとするときの

ツールであって

自分が何を知っていて,何を知らないのかという

自覚がなければ、

問いは立てられないわけですから。

 

さて、以下ご紹介するのは、

本日のメインコンテンツで、

内田樹『困難な成熟』文庫版のあとがきです。

 

この本には第3章に

「大人になるとは」という項があり、

内田さんが、「大人とはどういう人のことか?」

という問いに答えているんですが、

内田さんの答はシンプルです。

「あなたが大人だと思う人、それがとりあえず

『あなたにとっての大人』です」以上。

 

どうして、こういう結論になるのかについては、

長い説明が必要になるので、ということで、

この後に続いているんですが、

この先は是非、本を買って読んでください。

 

夜間飛行という小さな出版社の本なので、

書店の店頭では見つけられないかもしれません。

 

名古屋駅前の三省堂に行って探したんですが

ありませんでした。


 

「大人とはどういう人のことか?」について

考える上でのヒントが文庫版あとがきにあったので

以下、それを紹介することで、

8回にわたって投稿してきた

この記事を締めくくろうとおもいます。

 

(引用ここから・太字化は井上)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
・・・この本は、「成熟」とか「自己陶冶」とか「大人になる」ということがもはや人々にとってそれほど喫緊の課題ではなくなった時代の風潮に対する僕からの提言です。


もちろん「大人のナントカ」とか「いぶし銀のなんちゃら」とかいうようなコピーを掲げて、「バーでワインを頼む時の心得」とか「こういうスーツではタイはなんとかでなければならぬ」とかいうようなことを書いている人は今も掃いて捨てるほどいますけれど、僕が論じようとしている「大人」というのは、そういうもののことではありません。文庫版解説として、それについて思うことを書いてみたいとおもいます。


僕の記憶では、昔の人は「大人というのはこういうふうにふるまうものだ」というようなことをことさらに言挙げする習慣はなかったように思います。大人というと、夏目漱石とか、森鷗外とか、永井荷風とか、谷崎潤一郎とか、内田百閒とか、そういう人たちの顔がまず思い浮かびますが、そういう文豪たちが「大人というものは」というような説教をしている文章を寡聞にして僕は読んだ記憶がありません。どちらかというと、この人たちの作物の魅力は、そのような定型をおおらかに踏みにじってゆく堂々たる風儀にあったように思います。


漱石という号を夏目金之助が撰したのは23歳の時でした。『晋書』にある「漱石枕流」(石で口漱ぎ、流れを枕にす)の故事を踏まえたものです。昔、中国に孫子荊という人がいて、この人は若い時から早く隠棲したいものだと思い、ある時、古詩を引いてその隠棲の境涯を述べました。ところがそれが記憶違いだった。オリジナルは「枕石漱流」でした。「石を枕にして眠り、目覚めたら川の流れで口を漱ぐ」という、アーシーでビューティフルなライフスタイルを描写した一節だったのを、動詞を前後入れ間違えて、「石で歯を磨き、流水に頭を浸して寝る」という千日回峰行的な誤読をしてしまった。周りに「そうじゃないよ」と指摘されたのですが、孫子荊は一歩も退かず、「いや、オレは隠棲したら、石で歯を磨いて、頭を川水に浸けて寝るのだ」と言い張った。その故事を踏まえて、漱石という号を選んだのでした。つまり、一度言い出したら間違いとわかっても訂正しない頑迷なおのれの性情の偏りを重々わきまえた上で、それを笑い、かつ律するというこの構えのうちに僕は「大人の風儀」とでもいうべきものを見るのです。


それは他に名を挙げた文人たちについても同様です。荷風先生も百閒先生も「こればかりは譲れない」という強いこだわりをそれぞれにお持ちでしたけれど、おのれの偏奇を少し遠い距離から冷めた目で観察し、それを味わい深い文章に仕上げることによって文名を上げたのでした。


そういう書き物を読んで、僕は「この人は大人だな」と感服しました。それはつまり「大人」を大人たらしめているのは、然るべき知識があったり、技能があったり、あれこれの算段が整ったりという実定的な資質のことではなくて、むしろおのれの狭さ、頑なさ、器の小ささ、おのれの幼児性を観察し、吟味し、記述することができる能力のことだということです。


「成熟する」というプロセスを多くの人は「旅程を進む」という移動のメタファーで考えているのではないかと思います。あれこれと苦労を重ねているうちに、さまざまな経験知が獲得されて、思慮が深まり、次第に「大人になってゆく」と。でも、僕は大人になるプロセスというのはそういうのとはちょっと違うのではないかと思います。知恵や経験が「加算」されるわけではない。


ある出来事のせいでものの考え方が変わるということがあります。例えば、信頼していた人に裏切られたとします。そのせいでそれまで「人というのはこういうものだ」と思っていた「人間の定義」に若干の変更が加えられる。でも、それは定義の変更だけでは済まない。同時に、自分の過去の記憶の「書き換え」が行われる。これまでうまく飲み込めなかった出来事や片付かなかった気持ちが飲み込めたり、片付いたりする。逆に、それまで忘れていたことが不意に思い出されて、「なるほど、あれはそういう意味だったのか」と得心がゆく。人に裏切られ、傷ついたことによって、自分がこれまでどれだけの人を裏切り、傷つけてきたのか、その記憶が痛切に甦ってくる。一つの出来事を通過することによって、自分のそれまでの人生が表情や奥行きを変えてしまう。あれこれの経験の意味が変わってしまう。そういうことを何度も何度も繰り返すことが「大人になる」というプロセスではないかと僕は思うのです。


晩年を迎えると「自叙伝」を書きたくなる人がいます。僕ももういい年ですので、その気持ちがわかります。それは歳をとると、それまで「オレの子供時代はこういうふうだったよ」と久しく人にも話し、自分でも信じてきたことが「どうもそうではなかった」ということが分かってくるからです。自分の周りにいた人たち、記憶の中ではるか遠景に霞んでいた人たちの相貌が何十年も経ってから不意にくっきりと浮かび上がってきて、その立ち居振る舞いや、片言隻語がありありと思い出されて、それが自分にとって何を意味していたのかが不意にわかるということがあります。僕たちがこれまでの生きてきた時間というのは、自分が思っているよりもずっと深く厚みのあるものであり、自分が今のような自分であるのは、自己決定したからでも、運命に偶然的に翻弄されたからでもなく、多くの人たちとのさまざまな関わり合いを通じて、陶器のようにゆっくり錬成されて出来上がったのだということがわかる。


「陶冶」というのは陶器を焼き、鋳物を作ることですけれど、この動詞が成熟のメタファーとして用いられることにはそれなりの理由があると思います。一つはそのプロセスには時間がかかること、一つはもとの物質が別の物質に変成すること、そしてもう一つは混入したものの化学的な干渉によって予想外の彩りや文様を帯びること。これはそのまま成熟の定義として使えると思います。


自分で自分の成熟を統御することはできません。自分が成熟するというのは「今の自分とは別の自分になること」ですから、「こういう人間になりたい」というふうに目標を設定して、それを達成するというかたちをとることがありえないのです(後に回顧すると、自分が設定した目標がいかに幼く、お門違いなものか思い知って赤面する・・・というのが「成熟した」ということなんですから)。


しかし、現代社会はそういうふうにオープンエンドな成熟への道を進むように若い人たちを促し、励ますような仕組みがありません。これはもうはっきり言い切ってしまいますけれど、「ありません」。


今の社会の仕組みはどれも目標を数値的に設定して、そこに至る行程を細部まで予測し、最小限の時間、最少エネルギー消費で目標に到達する技術を競うというものです。一見するとスマートで合理的に見えますけれど、人生の本質的な目標の多くはそういうスキームには収まりません。


「成熟」はそうです。先に述べた通り、「成熟した私」というのがどういうものであって、どういう属性を具えているのかを今、ここで言えるということはありえません。「幸福」というのもそうです。幸福を数値的に示すことはできません。年収がいくらで、持ち家の坪数がいくらで、乗っている車の値段がいくらで、子どもの評定平均値が何点で・・・というようなことをいくら積み重ねても「幸福」にはたどりつけません。「長寿」というのもそうですね。これも人間にとってたいせつな課題です。だから階段で転びかけたり、車に轢かれかけたら「おっと危ない」と身をかわして、無事であれば「ああ、よかった」と嘆息したりもするわけです。でも、「長寿に最小限の時間で到達する」というのはどう考えても論理矛盾です。「あっという間に百歳になりました」と言って喜ぶ人というものを僕は想像できません。


人間にとってたいせつなことのほとんどは「明確な目標設定/効率的な工程管理/費用対効果のよい目標達成」というような枠組みでは語ることができない。現代人はそれをどうも忘れてかけているようです。この本はその基本的なことを思い出してもらうために書きました。できれば、この本を何年か間をあけて、ときどき取り出して繰り返し読んで頂ければと思います。前に読んだときには読み落としていたことに次の時には眼が止まるということがあれば、僕もこの本を書いた甲斐があります。


みなさんのご健闘を祈ります。 2017年9月 内田樹

 

『困難な成熟』文庫版のためのあとがき

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

内田さんは文中で、

 

現代社会はそういうふうにオープンエンドな

成熟への道を進むように若い人たちを促し、

励ますような仕組みがありません。

これはもうはっきり言い切ってしまいますけれど、

「ありません」。

 

と書かれているんですが、

いえいえそんなことはないですよ〜

 

現にこの寺子屋塾という

学習の場がここに存在しているので。

 

でも、内田さんがそう書きたくなる気持ちは

わたしにはわかりますし、

もしかすると、寺子屋塾とは、

現代社会に奇跡的に現れた突然変異のような

稀少な存在なのかもしれませんねぇ〜 笑

 

 

 

【過去投稿記事・関連記事】

吉本隆明『15歳の寺子屋 ひとり』の内容を整理してみて

内田樹『寝ながら学べる構造主義』

大人ってどんな人のこと?(その1)

大人ってどんな人のこと?(その2)

大人ってどんな人のこと?(その3)

大人ってどんな人のこと?(その4)

大人ってどんな人のこと?(その5)

大人ってどんな人のこと?(その6)

大人ってどんな人のこと?(その7)

 

 

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