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内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その13)

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内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その13)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その13)

2024/08/28

昨日8/27に投稿した記事の続きです。

 

響月ケシーさんが8/14にインスタで配信された

動画『自分の神様の育て方』の内容を

取っ掛かりにして書いた記事が発端となって、

「内的観点と外的観点の両方を同時にもつ」

というテーマで記事を書き始め、

今日が13回目となりました。

 

8月も月末が近づいてきていますし、

末日は恒例となっている

1ヶ月間のふりかえりを投稿するので、

今日を含めてあと3回で締めくくる予定です。

 

これまでに書いてきた内容を前提として

話を進めることがあるので、

未読分のある方は、

まずそちらから先にお読み下さい。

ケシーさんの8/14インスタライブ『自分の神様の育て方』

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その1)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その2)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その3)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その4)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その5)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その6)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その7)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その8)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その9)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その10)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その11)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その12)

 

さて、脳科学者・池谷裕二さんが

母校の高校生たちに行ったレクチャーをまとめた

『単純な脳、複雑な「私」』第3章から

〝自由〟についてのやりとりのうち

1/4ほどにあたる箇所を(その10)(その11)の

2回にわたって引用し紹介し

(その12)では、引用した箇所について、

この連投記事のテーマとしている、

内的観点と外的観点という切り口で

わたしのコメントを記しました。

 

第3章の引用して紹介した箇所以降では、

ゴルフプレーヤーが

グリーン上でのパターショットで

ボールをカップに入れられるかどうかについて、

そのプレーヤーの脳を観察していれば、

成功するか失敗するかが予測できちゃうという

これまた、準備電位説に匹敵するくらいの

衝撃的な実験結果が語られるなど、

興味深い話が続きますし、

第4章には池谷さんが講義されていた時点で

たどりついた結論も明確に示されているので、

ぜひ、手に入れて読んでみて下さい。

 

 

さて、昨日(その12)の記事に

池谷さんの著書『単純な脳、複雑な「私」』は、

講義全体のテーマが

「心の構造化」に置かれていると書きました。

 

人間の〝心〟という

ある意味、捉えどころのないものを、

構造化しようとするのは、

脳神経系の動きとして計測可能な部分や、

身体の動きとして

他者が観察、確認でき、

なおかつ再現可能なことを土台におきながら

表現していくことというのは、

脳科学者として当然のスタンスでしょう。

 

でも、昨日も書いたように池谷さんは、

 

自由意志は、存在するかどうかではなくて、

知覚されるものではないか、とね。

 

と書かれています。

 

この「知覚」っていうのは、

本人の体験に基づく実感の話なので、

内的観点なんですよね〜

 

本書のAmazonレビューを見てみると、

高校生相手に分り易さを心掛けたという趣旨が

冗談としか聞こえない胡乱な書とし、

「自由は行動よりも前に存在するのではなくて、

行動の結果もたらされる(自由意志の否定)」

といった胡散臭い話も多い。

というコメントもありました。

 

まあ、そういう意見はあたりまえのように

あるだろうな、とおもいましたが、

著者が書いていることを、

読者が過去に得た自分のモノサシで判断し

「胡散臭い」という評価を下してしまうと、

そこから先は、書かれた内容に対し

なかなか理解が深まっていかないことでしょう。

 

わたしが池谷さんに注目し、

こうやってブログでも頻繁に紹介している理由は、

外的観点という科学者の目で

心の構造をロジカルに解明しようとしつつ、

人間の実感という内的観点の部分も

手放そうとされていないからであって、

大学教授というアカデミックな世界の方としては

きわめて珍しいんですね〜。

 

 

それで、ここからが本日のメインコンテンツで、

「心の構造化」というテーマで

内的観点と外的観点の両方を同時にもつ

ということから

どうしても紹介しておきたいのは、

吉本隆明さんの〝心〟の捉え方です。

 

吉本隆明さんは、終戦後蔵書をすべて売り払って

国訳一切経を買い込み、

数年間読み耽っていた時期があったようで、

仏教への造詣がとても深い方でした。

 

上の画像は、韓国出身のビデオ・アーティスト

ナム・ジュン・パイクさんの作品「TV仏陀」。

 

釈迦の悟りというのは、まさに、

ビデオカメラもモニターも無かった

2500年前という時代に、

常に自分を外側から観察している状態から

生まれたものとも言えるので、

内的観点と外的観点の両方を手放さずに

同時に持ち続けているという

仏教の本質が垣間見えるアート作品なんですね〜

 

 

吉本隆明さんの主要三部作といわれる

『言語にとって美とはなにか』

『共同幻想論』

『心的現象論序説』が初めて文庫化されたのが

1982年のことで、

出版業界でも随分話題になりました。

 

早速手に入れて読みましたが

当時23歳だったわたしには、

扱っている範囲が厖大に広いだけでなく、

内容が抽象的すぎてチンプンカンプン、

まったく理解に届きませんでした。

 

それでも、この三作には他の書物にはない

スゴイ事が書いてあるということだけはわかり、

いつか読める日が

やってくるだろうという予感のもと、

古本屋には売り払われることなく、

わたしの書棚の中に30年以上にわたって

ずっと眠っていたのです。

 

それで、2016年新年から読み始めた

臨床心理士・宇田亮一さんの著書

『吉本隆明 〝心〟から読み解く思想』のお陰で、

この難解とされる三部作が

わたしにも少しずつ

読み解けるようになっていきました。

 

難しい内容だったので、

通して3回ほど読み直しましたが・・・

 

戦後最大の思想家と称された吉本さんですが、

詩人であり文芸評論家でもあったという

言葉に向き合う姿勢を

主軸において考えることで

三部作相互の関係がようやく見えてきたわけです。

 

 

次は、『共同幻想論』序の冒頭部分なんですが

吉本さんの主要三部作の相互関係について、

吉本さん自身が端的に語られている

文章の例として引用しました。

 

(引用ここから)

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

言語の表現としての芸術という視点から文学とはなにかについて体系的なかんがえをおしすすめてゆく過程で、わたしはこの試みには空洞があるのをいつも感じていた。

 

ひとつは表現された言語のこちらがわで表現した主体はいったいどんな心的な構造をもっているのかという問題である。

 

もうひとつは、いずれにせよ、言語を表現するものは、そのつどひとりの個体であるが、このひとりの個体という位相は、人間がこの世界でとりうる態度のうちどう位置づけられるべきだろうか、人間はひとりの個体という以外にどんな態度をとりうるものか、そしてひとりの個体という態度は、それ以外の態度とのあいだにどんな関係をもつのか、といった問題である。

 

本書はこのあとの場合について人間のつくりだした共同幻想という観点から追及するために試みられたものである。

 

ここで共同幻想というのは、おおざっぱにいえば個体としての人間の心的な世界と心的な世界がつくりだした以外のすべての観念世界を意味している。いいかえれば、人間が個体としてではなく、なんらかの共同性としてこの世界と関係する観念の在り方のことを指している。

 

吉本隆明『共同幻想論』序 より

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(引用ここまで)

 

吉本さんは、言葉は言葉自体だけで

完結しているものではなく、

ただ単に言語について論じるだけでは

片手落ちになってしまうってことに

気づいておられたわけですね。

 

つまり、すくなくとも、そのビフォーアフターの

両方を踏まえる必要があり、

言葉の前提となっている心との関わりや

人間が言葉をどう使ってどう行動するか、

国家のような集団をつくることや

コミュニケーションとの関わりを

同時に考える必要があるんだということで、

 

表現された言語のこちらがわで表現した主体は

いったいどんな心的な構造をもっているのか

 

という問いについて

書かれた著書が『心的現象論』であり、

 

言語を表現するものは、

そのつどひとりの個体であるが、

このひとりの個体という位相は、

人間がこの世界でとりうる態度のうち

どう位置づけられるべきだろうか

 

という問いについての著書が

『共同幻想論』となります。

吉本さんは、「自己表出」と「指示表出」という

2つの異なるベクトルが

合わさって言語ができているという考えを

土台に据えながら、

言語の本質を解き明かそうとして

『言語にとって美とはなにか』を書かれました。

 

この「自己表出」と「指示表出」という言い回しが

吉本さん独自による造語ということもあって、

なかなかわかりにくいのですが、

中心に言葉の存在を置いて

内的観点と外的観点という指標があると、

その骨格がスッキリ見えてくるのではないかと。

 

つまり、自己表出とは、自分の内側から

自然に湧き上がってくる

他者からは見えないもののことを言っていて、

内的観点をベースに置いたものであるのに対し、

指示表出は他者とのコミュニケーションに

用いる実用的な機能のことを指し、

外的観点をベースに置いたものであると

言ってよいでしょう。

 

この言語の本質についての

吉本さん自身の考察については、

旧ブログで頻繁にとりあげて紹介しているので、

未読の方は次の記事などをどうぞ!

言語と沈黙(吉本隆明さんの最後の講演会より)

表現とは何か(吉本隆明さんの最後の講演会より②)

精神構造と言語表現と作品(吉本隆明さんの最後の講演会より③)

開かれた普遍性へ(吉本隆明さんの最後の講演会より④)

「自己表出」と「指示表出」

 

 

この続きはまた明日に!

 

 

【関連記事】

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身体が昔覚えていた動きをおもいだす練習

 

 

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