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内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その15・最終回)

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内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その15・最終回)

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その15・最終回)

2024/08/30

昨日8/29に投稿した記事の続きです。

 

響月ケシーさんが8/14にインスタで配信された

動画『自分の神様の育て方』の内容を

取っ掛かりにして書いた記事が発端となって、

「内的観点と外的観点の両方を同時にもつ」

というテーマで8/16から記事を書き始め、

今日で15回目となりました。

 

このテーマで書けることや、

書きたい話はまだまだ山ほどあるんですが、

8月も明日で終わりとなり、

明日8/31は月の末日恒例

1ヶ月間のふりかえりを投稿する予定なので、

本日投稿するこの記事にて

いったん締め括ろうとおもっています。

 

これまでに書いてきた内容を前提として

話を進めることがあるので、未読分のある方は、

まずそちらから先にお読み下さい。

ケシーさんの8/14インスタライブ『自分の神様の育て方』

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その1)神様は内と外の両方から見ることが可能

(その2)清沢満之「われ以外の物や事をあてにしないこと」

(その3)(その2)への井上のコメント

(その4)言葉の二面性について(「信頼」と「信用」を例に)

(その5)『自分の神様の育て方』文字起こし

(その6)『自分の神様の育て方』要点まとめ

(その7)内的観点と外的観点の両方がなぜ大切か

(その8)なぜ宗教家になる宇宙飛行士がいるのか

(その9)(その8)の理由とゆうきゆう原作の漫画本のこと

(その10)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』前編

(その11)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』後編

(その12)(その10)(その11)へ井上のコメント

(その13)吉本隆明・主要三部作の相互関係(〝心〟の捉え方)

(その14)吉家重夫「統一場心理学」の紹介

 

 

(その8)の記事を書いているときのことです。

 

その記事にも書いたことなんですが、

らくだメソッドの学習システムを、

「内的観点と外的観点の両方を常に手放さない」

という視点でみたらどうなるかについて、

あともう少しで完了というところまで

書いたのにも関わらず、

投稿する前に、わたしの不注意で

全部消してしまったことがありました。

 

でも、(その9)で紹介した

『マンガで読む心のクスリ』に書かれていた

「心を癒す日記の書き方(2×2)」にならい、

その出来事を受けとめなおすことができ、

記事が消えてしまったのは

ネガティブな出来事であっても、

「ここでこの内容を投稿するのは、

すこしタイミングが早すぎませんか?」と

言われたように

ポジティブにおもいなおすことができたのです。

 

ということで、

これまで書いてきた内容を踏まえ、

今日はそのとき消えてしまった記事内容も

少しずつおもい起こしながら、再現してみましょう。

 

 

今回テーマとしている

「内的観点と外的観点」という言葉を

わたしが知り得たのは、

昨日の記事で紹介した吉家重夫さんの

『統一場心理学総論 意識の姿』からでした。

 

内的観点と外的観点という言葉自体は

一般に使われる用語なので、

統一場心理学独自のものではありませんが、

わたしは「内的観点と外的観点」ということを

最初から意識しながら、

らくだメソッドの学習システムを使って

30年間教室をやって来たわけではありません。

 

昨年、ふとしたきっかけで

統一場心理学と出合ったことで、

たまたま知り得た、この

「内的観点と外的観点」という言葉によって、

これまで30年間やってきた事柄の多くが

結果的に、あくまで事後的に

統合され言語化できたということなのです。

 

この〝統合〟というのが、

今回の連投記事においての

とても重要なキーワードなんですね〜

 

 

らくだメソッドは、

対応できる対象者の範囲が非常に広く、

しかも柔軟に関わることが可能なので、

寺子屋塾のポリシーとして、

学習者本人に学びたいという意志さえあれば

だれでも受け入れる姿勢を大切にしてきました。

 

不登校、ひきこもり、障害など、

「教える」という形の学校では

学ぶことが難しいという理由がきっかけとなって、

寺子屋塾との縁が生まれ、

学習を始めた塾生は、

全体の2〜3割を占めています。

 

寺子屋塾では、不登校やひきこもりということを

その子、その人自身の問題とは

考えていないということもあって、

わたしが直接的に学校へ行くことを促したり、

外に出ることを促したりする指導は

これまで一度もしたことがありません。

 

でも、らくだメソッドで学習を進めていくうちに、

ある日突然「ぼく、明日から学校へ行くよ」と

自分から言ってきたり、

また、小学校5年のときにひきこもってしまい、

10年間家からほとんど出られなかった

20歳すぎの青年が、

らくだメソッドで学習を進めていくうちに、

若者就労支援の団体が開催している

グループカウンセリングのワークショップに

月1ペースで通うようになって、

通信生高校を受験したいと

本人が希望するようになっていったりというような、

指導者のわたしを大きく驚かせるようなことが

時々ありました。

 

教室を始めてすぐの頃は、

どうしてそういうことが起こるのか、

わたし自身も不思議で、

また、そのように劇的な変化が起きるような

ケースばかりというわけではなく、

なかなか変化が見られないケースもあり、

そうしたことの理由については、

当初わたし自身も明確に

言語化することができなかったんですが、

教室を始めてから10年が経過した頃からは、

少しずつ語れるようになっていったのです。

 

というのは、わたし自身、

ファシリテーションを専門的に学んだことがなく、

とりわけコミュニケーション面においては、

人前で話すことだけでなく、

書くことに対しても苦手意識があり、

人より長けている人間でないのにも関わらず、

開塾後10年が経過した2004年辺りから、

大学生や社会人を対象とする

ファシリテーションを学ぶ場のガイド役を

まわりから依頼される機会が

増えていくということがありました。

 

わたしの本業は、

らくだメソッドの指導者として

寺子屋塾の教室を運営することと自覚していたので、

ファシリテーションを学ぶ場のガイド役という

仕事に関しては、

まわりから求められるままに応じてきたことで、

わたし自身からまわりに対して

営業的な働きかけを行ったことが一切ありません。

 

にもかかわらず、

あくまで概算ではあるんですが、

2004年から2014年までの約10年間に

わたしのファシリテートで

ファシリテーションを学ばれた方々は、

のべ1000人以上にのぼり、

大学から非常勤講師として

ファシリテーター養成をテーマにした

授業をやって欲しいという依頼を受けたときは、

本当に驚きました。

 

つまり、そうした研修、講座、授業といった形の

学習の場においては、

身体で実感・経験するのみならず、

ポイントやエッセンスとなる事柄を、

頭で理解可能な言語として表現することが

必要になってきます。

 

わたし自身にとっても、

過去に経験的に学んで

体感として身につけて来たことを

言語化する能力を鍛える場と位置づけていたので、

最後には必ず質疑応答の時間を設けて、

受講された皆さんから戴くどんな質問に対しても

丁寧に応じるように心がけてきました。

 

したがって、これも結果的に、

あくまで事後的ではあったんですが、

わたしがらくだメソッドという教材を用いた

寺子屋塾という場を運営しながら

多くの塾生たちと関わってきた体験の中に、

ファシリテーションを学ぶガイド役になることを

可能にする原種のようなものが

すべて埋め込まれていたことに

わたし自身が気づくことになったのです。

 

 

つまり、学校教育の教えるスタイルと

らくだメソッドの教えないスタイルの違いを

「内的観点と外的観点の両方を同時にもつ」

というテーマに基づいて端的に書くなら

次のようになるでしょうか。

 

学校教育の場合は授業やテストや通知表があって、

指導する、評価するという関わりが主です。

 

本来、学校教育は、子どもたちの学ぶ権利を

保証するために設けられているものなので、

子どもたちに学校へ行く「義務」などありません。

 

日本国憲法に定められているとおり、

義務教育の「義務」とは、

子どもたちに教育を受けさせる義務のことで、

その義務を負っているのは

親御さん方であり先生方だからです。

 

でも、現実には

みんなが学校へ行っているからという理由で

学校へ行く子どもたちが大半で、

自分が学びたくて学んでいるのか、

テストや通知表で良い成績を得たいといった、

承認欲求から学んでいるのかの区別は、

あまり意識されていないのではないでしょうか。

 

つまり、内発的動機に基づいて学習しているのか、

外的な刺激に促されて学習しているのかを

明確に区別することを意識しながら

学習している子どもたちはごく少数で、

内的観点と外的観点が

明確に区別されていない曖昧な状態で

学習が進められているスタイルの教育なので、

内的観点か、あるいは外的観点か、

どちらかに偏ってしまう学習に

なりがちであると言ってよいでしょう。

 

それに対して、らくだメソッドを採用している、

寺子屋塾の教育では、原則として指導者が

「押しつけない、強制しない、命令しない」

「目標を持たない、評価しない」姿勢で関わり、

親御さんにも、学習に関する声かけを

一切しないようにお願いしています。

 

まあ、このお願いをきちんと守れる親御さんは

現実にはとても少ないんですが。。笑

 

つまり、外的な刺激を一切排除した環境において、

学習者自身の内発的動機のみを頼りに

「自分で決めて、自分でやる」ルールのもとで

学べるようにプログラムされていて、

しかも、その結果については、

学習記録表にプリント番号、かかった時間、

ミスの数という「事実情報のみ」を

記す形になっており、

内的観点と外的観点を明確に区別しつつ、

しかも、その両方を手放さない状態で、

学習を進めていくスタイルの教育なのです。

 

この内的観点と外的観点が統合されたとき、

学習者自身にどういうことが起きるかについては、

これまで15回にわたって

様々な事例にたとえながら書いてきたので、

ここでは繰り返しませんが、

概ね想像して戴けるのではないかと。

 

 

 

最終回ということで、

無理に結末を急ぐような

駆け足の内容になってしまったかもしれません。

 

ただ、単に月の区切りがやって来るだけのことで、

もともとわたしがこのブログに書いている

一つ一つの記事内容は

すべて繋がっているものなので、

そんなに気にする必要もないんですが・・

 

この15回にわたった

連投記事の内容すべてを踏まえつつ、

今回十分に展開し切れなかった内容については、

次月以後に改めて

書き記していこうとおもいます。<(_ _)>

 

 

 

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