ザ・メンタルモデルについて(その32)「生存本能は痛みの回避が目的」
2026/07/17
6/16からこの寺子屋塾ブログでは、
7/20(月・祝)に予定している
『レゾナント・コミュニケーション』読書会
の事前準備を兼ねて、
著者のおひとり、由佐美加子さんが発見された
〝ザ・メンタルモデル〟について書いています。

昨日までの投稿記事に未読分がある方は
まず次から先にどうぞ!
・ザ・メンタルモデルについて(その1)「はたあそ(第1部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その2)「はたあそ(第2部)」
・ザ・メンタルモデルについて(その3)「TEDx Talksプレゼン動画」
・ザ・メンタルモデルについて(その4)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?①
・ザ・メンタルモデルについて(その5)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?②
・ザ・メンタルモデルについて(その6)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?③
・ザ・メンタルモデルについて(その7)『学習する組織』と『U理論』
・ザ・メンタルモデルについて(その8)「〝痛み〟とどう向き合うか」
・ザ・メンタルモデルについて(その9)「〝源(みなもと)〟とは何か?①」
・ザ・メンタルモデルについて(その10)「〝源(みなもと)〟とは何か?②」
・ザ・メンタルモデルについて(その11)「〝源(みなもと)〟とは何か?③」
・ザ・メンタルモデルについて(その12)「〝源(みなもと)〟とは何か?④」
・ザ・メンタルモデルについて(その13)「〝源(みなもと)〟とは何か?⑤」
・ザ・メンタルモデルについて(その14)「吉本隆明『共同幻想論』に重ね合わせてみて」
・ザ・メンタルモデルについて(その15)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり①」
・ザ・メンタルモデルについて(その16)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり②」
・ザ・メンタルモデルについて(その17)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり③」
・ザ・メンタルモデルについて(その18)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり④」
・ザ・メンタルモデルについて(その19)「ライフタペストリーとプロセスデザイン」
・ザ・メンタルモデルについて(その20)「ライフタペストリーと親鸞上人」
・ザ・メンタルモデルについて(その21)「価値なしモデルと愛なしモデル」
・ザ・メンタルモデルについて(その22)「欠陥欠損モデルとひとりぼっちモデル」
・ザ・メンタルモデルについて(その23)「実存的変容とのつながり①」
・ザ・メンタルモデルについて(その24)「実存的変容とのつながり②」
・ザ・メンタルモデルについて(その25)「実存的変容とのつながり③」
・ザ・メンタルモデルについて(その26)「動物脳と人間脳①」
・ザ・メンタルモデルについて(その27)「動物脳と人間脳②」
・ザ・メンタルモデルについて(その28)「動物脳と人間脳③」
・ザ・メンタルモデルについて(その29)「脳と心の関係について」
・ザ・メンタルモデルについて(その30)「原生的疎外と純粋疎外」
・ザ・メンタルモデルについて(その31)「反応しちゃう自分の扱い方」
この連載記事も回を重ね32回めとなりました。
継続して考察しているテーマは、
その人の生存本能とその人自身をどう区別するか
ということです。
昨日投稿した(その31)のメインコンテンツは、
(その9)の記事で紹介した、
由佐美加子さんのレクチャーを
文字起こし付きで紹介しました。

とても明解でわかりやすかったですね。
「わたしは、切り離された世界の中で、
どのように世界に扱われると思っているのか」
という内側にある自分の分離した世界観が
そのまま「外側の現実」として表れているのが
〝反応〟であると。
つまり、反応は目の前の「相手のせい」でなく、
反応を起こしていることに関与している、
外側にいる人——その人の性格や言動とは、
基本的に関係ないわけで。
なぜなら、わたしたちは本当は
「自分がそれをどう捉えるか」を自分で選べるし、
「自分がそれをどう見るのか」も自分で
まったく自由に決められるのだから。
「無力感」と「絶望感」から生まれた
「この世界に対してわたしができることは何もない」
という「信念構造」を由佐さんは、
〝ザ・メンタルモデル〟と呼んでいるわけです。
ポイントは、そうした反応が起きたときに、
目の前に起きていることを
自分を「被害者」という立場で見ずに
「ああ、また〝ない〟フィルターで見てるんだな」
って自覚できるかどうか。
痛みを回避しようとせず、
何とかしようとしないで、
「ああ、確かにそうやってます」と
自分を受容できるとこの反応自体が変わってくる。
この「何とかしようとしない」というのが、
最重要ポイント!ですね。
さてそれで、本日のメインコンテンツは、
このような「反応しちゃう自分の扱い方」の
実例セッションです。
(その26)の記事でも紹介した
前野隆司さんのウェルビーイングをテーマにした
YouTubeの番組に、2024年5月
由佐美加子さんがゲスト出演されたときの
メンタルモデルに基づくセッション部分を
文字起こししてみました。
・由佐美加子が語る『ウェルビーイングってなんだろう?』第3回 ウェルビーイング玉手箱
本日の文字起こし部分は、
47分50秒あたりから1時間11分あたりまで。
(文字起こし・ここから)
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まりえ:
オッケーです。ありがとうございます。今日まさに、今、和歌山で梅収穫シーズンの最中で、なんかもう『三丁目の夕日』みたいな状況の一角でやらせていただいています。いろんな子どもたちがやってくるんですが。
聞きたかったのはですね、最近結婚したんです。
由佐:
おめでとうございます。
まりえ:
ありがとうございます。わたしがわたしであって、旦那さんが旦那さんであるためには、やっぱりどちらかが何かを我慢するというか、どこか譲らなきゃ、みたいなことが、2人でいるときは起きないんです。でも、お互いの恩師とか、お互いのお世話になった人といるときに、たとえば彼の恩師やお世話になった人といるときは、彼の「こうありたい」というものを優先してあげた方がうまくいく。
そうすると、わたしが本来のそのままでいる、渋谷まりえとしているのが、なんかいけていなくて、それがちょっと嫌なんです。今のわたしの中の答えは、彼の恩師といるときは、彼の価値観にわたしが寄り添う。わたしの恩師やお世話になっている方といるときは、彼にわたしの価値観に寄り添ってもらう。それがベストアンサーなんじゃないかと思っています。
でも、ここまで今、由佐さんのお話を聞いたら、なんかそうじゃない回答があるような気がしていて、それをちょっと教えてほしいというか。
由佐:
どうするべきかということよりも、まりえちゃんが、旦那さんの恩師を尊重するというか、立てる上で、「自分はちょっと引かなきゃいけない」「そこに気を遣わなきゃいけない」というふうにやることで、何を恐れている感じですか。何が起きちゃうのが嫌なの?
まりえ:
彼の恩師が……何だろう。彼に対する、恩師からの信頼を落とすことが嫌。
由佐:
ということは、自分がその信用を落とす原因になり得ると思っている、ということなんだよね。
まりえ:
思ってる。思ってる。
由佐:
なんでそう思っているの?
まりえ:
あまりに、こう、あるがまますぎるというか。たとえば、人の話にかぶせて話さないとか、そういうルールが世の中にはあって、多くの人が「そういうものである」と思っている。さっき話されてた昭和モデルみたいな感じで。わたしはあまりそういうことを気にしていなくて、しゃべりたいときはしゃべるし、しゃべりたくないときはしゃべらない、というふうに普段は生活しています。でも、恩師の前でそれをやってしまうと、ちょっと「えっ?」となることがあり得るんじゃないかなと思っています。
由佐:
その行動が、恩師に対して何か失礼にあたるようなことが起きてしまったら、旦那さんとその恩師の関係性に、何か良からぬ影響があるのではないだろうか、というシミュレーションだよね。
まりえ:
そう、そう。
由佐:
そのシミュレーションの前提は、「わたしがありのままでいたら、それは何かしら、人にこういうふうに思われるんじゃないか」「悪影響があるんじゃないか」と思っている、ということでしょ?
まりえ:
思ってる。
由佐:
そこがあるから、それが起こるだけなんです。まりえちゃんが本当にありのままでいて、みんなが、「まりえちゃんはそうなんだね」というふうに、自分は受け入れられているというところから関わったら、そんなことは別に起こらないよ、ということです。でも、まりえちゃんはそう思っていないんだよ。「わたしがありのままでいたら、誰かに対して失礼なことになってしまう」という世界を生きている。安心できる人たちや、それを受け入れてくれる人たちにはそうするけれど、危ない人にはやりませんよ、というふうに、環境次第で自分を変えているでしょう。
まりえ:
変えてる。
由佐:
環境次第で変えなければいけないのは、結局、「わたしはみんなに受け入れられている」ということを信頼できていない、ということなんだよね?
まりえ:
なるほど。
由佐:
だから、まりえちゃんがそこを、「いや、わたしはみんなに受け入れられているよ」というふうに、本当に自分の世界として内側に持ってしまえば、何も起こらない。何が起こるかというと、先生がどう言った、ということしか起きなくなってしまう。だけど、まりえちゃんには、そこに不信感があるということだね。「わたしを受け入れる人と、受け入れない人がこの世界にはいる」というフィルターの世界にいる。「受け入れる人たちがいて、受け入れない人たちはこういう人たち」という判別も、すごくやっていると思う。そういう人たちには気をつけなきゃ、と言って、そこで自分はありのままでいない、みたいなこともやっていると思うよ。前提が、とにかくすべてを決めています。
前提は、「わたしは世界のすべての人たちに、ありのままで受け入れられているなんて到底思っていません」という前提だよね。でも、そう思う生き方だってできるよ、ということを言いたい感じです。
まりえ:
なるほど。
由佐:
そうしたらどうなるかというと、たとえば、その先生が気を悪くしたとするじゃない。でも、その気を悪くしたことも、普通にその先生と会話できるようになってしまう。それを恐れなくてよくなるんです。だって、ありのままってそういうことだから。「あ、わたしがちょっとしゃべりすぎたことに対して、カチンときたんですね」ということを、恐れなくてよくなる。「そこに何があるんですか?」と聞けばいいだけなんです。そういう会話も作れるよ、ということです。
そちらがいいと言っているわけではないんだけど、全然体験できることが変わってきます。まりえちゃんのやり方は、基本的には「分ける」ということです。つまり、「自分はありのままでは受け入れられない人たちが、常にこの世界には存在している」という前提で生きている、ということだよね。
まりえ:
確かに。それをできない人が必ず現れる。そうか。分かってきたぞ。こういうことか。ここの中が、目の前で起こっているだけってことなんだ。
由佐:
そう。内側にあるものが、「この世界には、受け入れられる人と受け入れられない人がいるんだ」という世界をまりえちゃんが生きる限り、それが現実に鏡のように映し出されて、「受け入れられない人たちがいるんだ」というふうに、まりえちゃんが認知することが起こるだけ。でも、たとえば、「みんなに受け入れられているよね」という世界から見たときに、ある人が、「わたしは受け入れられません」
と言ったとしても、それが「自分を受け入れていない」とは、実は聞こえなくなってしまったりするんです。本当にその世界にいると。
まりえ:
なるほど。「受け入れていません」と言ってくれたということは、受け入れてくれているんだ。会話してくれている。
由佐:
そうそう。対話している。わたしと対話している。
まりえ:
なるほど。見えてきた。見えてきた。
由佐:
そういうことも体験しているよ、という感じです。
まりえ:
全部が全部、100パーセントそれでいきなさいということではなく、もしそれで生きてみようと思ったら、そういう世界も見えるよ、ということですか?
由佐:
要は、まりえちゃんの持っている世界の前提がそうであるだけで、それがそのまま現れているだけなんです。その怖いことを回避しようとする行動を取っているんだよね。
まりえ:
そうそう。
由佐:
なぜ回避したいかというと、まりえちゃんが「痛い」からなんだよ。「ありのままでわたしは受け入れられない」という体験をしたくないから。旦那さんの恩師がどうの、信頼関係がどうのということもあると思うけど、本当は「わたしが受け入れられない」ことが痛いから、それを避けているんだと思う。
まりえ:
確かに、確かに。なるほど。だいぶクリアになってきました。ありがとうございます。さっき、生存本能は願いを本当は叶えたくないんです、とおっしゃったと思うんですけど。
由佐:
願いを叶えたくないというより、痛みの回避が目的なんです。痛みを回避させることが目的だから、その痛みを感じるということをやられてしまうと困るんです。
まりえ:
痛みがないと、回避することができない。回避するものがないと、生存するための目的というか、
由佐:
駆動するものがなくなってしまう。暇になってしまう、という感じなんです。生存本能はすごく働き者なので、常に働きたいんですよ。「すごく安全にしたいんだ」と、すごく頑張っているから、いつも。だから、「いいよ、そんなに働かなくて」と言われるのは嫌で、「ほら、こんなに危ないじゃん」「やっぱり危ないじゃん」という証拠をいっぱい集めてきて、駆動させるんです。「証拠集め」とわたしは呼んでいます。まりえちゃんの生存本能にとっては、「この世界で、わたしがありのまま全員に受け入れられるなんてことはあり得ない」というのが、リアリティを持った真実になっている。だから、「ほらやっぱり、あなたがそんなにやったって、こんなふうに受け入れられないじゃないの」ということを認知として起こして、餌にするんです。「もう気をつけろ!やめとけ!」と。「この人にはありのままでいけるのか、いけないのか、ちゃんと測っておいた方が安全ですよ!」ということを言ってくるわけです。
まりえ:
なるほど。そっか。生存本能ちゃんは、おせっかい星人みたいな存在?
由佐:
不快、死に近づくものすべて、生存的に危険なものから、とにかく自分を守ろうとしているんです。この肉体を。そのためだけに動いている、という理解が、結構的確かなと思っています。それが目的だから、本当にウェルビーイングのために動いているシステムではないんです。
まりえ:
なるほど。命を守るため、安全のため。
由佐:
そうそう。肉体を生存的に生き延びやすくする。この肉体を快適にする、不快にさせない、安定させる。それが目的です。危険を潰すことが目的なんだよね。何かを作り出すことが目的ではありません。
まりえ:
なるほど。回避が目的なんですね。
由佐:
回避が目的なんです。危険なものから逃げる、排除する、避ける。
まりえ:
違いに対しても、攻撃されたとか、避けたいとか、そういうふうにしている。
由佐:
たとえば、向こうから怖そうな人が歩いてきたら、避けるじゃないですか。ああいう感じなんです。先にシミュレーションして、危ないことが起こりそうなことを予測して、それを避けるために必要な行動を取ろうとする。起きた不快から逃げるか、その不快なものを潰すかのどちらかです。とにかく、生存に対する脅威にいつも意識を向けていて、それをいかに安全にするかを、ずっと考えているんです。だからまりえちゃんは、自分のままでいることが受け入れられないから、自分を守りたい。生存本能としては、人を分けるだろうし、そのリスクを出さないように気をつけるよね、というふうに動かしているんです。
まりえ:
確かに。だから基本、今までは、受け入れてもらえる人の輪の中で生きてきたと思います。だけど、愛する人ができて結婚したことによって、そうじゃない場面が起こってくる。でもこれって、わたしのアップデートのために結婚したという面も、一面としてあるのかなと、なんとなく思っていて。
由佐:
そうだね。マネジメントできなくなったでしょ。自分を受け入れてくれる人たちだけのサークルで囲っていくことができない。
まりえ:
そうそう。
由佐:
本当はチャンスなんだよね。
まりえ:
そうそう。そんな感じ。
由佐:
その判別不要な世界で、ありのままという世界を作り出せるかどうかが、今、過去から送られてきた課題なんだと思う。やってみたらいいと思うよ。いのちがそっちに動こうとしている、ということだから。
まりえ:
なるほど。一旦やってみよう。一人だとできるという感覚は自分の中にあるんですけど、二人になったことで、わたしも彼もそれを理解して、両方がやらないとできない、という意識がわたしの中にありました。でも今の話を聞いて、「あ、わたしができると思えばできるんだ」というところに、頭の中は行きました。あとは、これは頭から現実に、ちょっとやってみます。ありがとうございます。
前野:
すっきりだね。

まりえ:
すっきりです。すごいすっきり!そうだし、カンタン!セッションが始まってから、わたしの頭の中はずっと、「価値なし時代から欠陥・欠損時代」みたいな話とか、「戦う君のことを、戦わないやつが笑うだろう」みたいなことが、ずっと巡っていました。「え、戦わなくていいの?」「いやいや、戦わないと負けちゃうでしょ」「死んじゃうでしょ」「戦って勝ってこそでしょ」「戦って勝つために、わたしは生きてきたんじゃん」という感じで。でも、「いやいや、そうじゃないよね」ということも、ずっとぐるぐるしていました。でも今、「戦わないって決めれば、戦わなくてもいいし、誰からも受け入れられるんだと思えば、そうなるんだ。簡単なんだ」と思いました。
由佐:
戦いは、生存本能的なものです。危ないものと戦うのは、その危ないものから身を守るために戦うんです。だから、生存本能は抵抗をやめられない。自分を脅かすものに対して、戦い続けるわけです。それも人間の一部の要素としてはあります。でも、だからといって、人生のすべてをその戦いに捧げなくてもいいじゃないですか。だって、わたしたちはどうせ最後は死んでしまうんだから。それを受け入れられれば、そんなに抵抗しなくてもいい。戦わなくたって、あるものがあるんだね、と感じて生きていくことだって全然できます。
まりえ:
だいぶ今ので、さらにアップデートされました。「生存本能ちゃん、戦っているんだね。オッケー。面白いね、楽しいね」というふうに受け入れたらいいんだな、と思いました。
由佐:
そうです。一生懸命守ろうとしてくれているのは間違いないんです。ただ、自分が脅威だと思って特定するものは、何でもそれになり得る。たとえば誰かから、「お前、マジでダメだな」と言われたら、それはもう生存本能にとって敵になります。すると、相手をやっつける、みたいな感じになってしまう。
人間関係がどんどん生存本能の対象になると、それが危険なものになる。すると人間は、それを排除したいという動機になっていく。それが果ては戦争にまでエスカレーションしていきます。でも本当は、わたしたちは共存したいんでしょう。みんなのウェルビーイングを、みんなが実現できる世界にやっぱり持っていきたい。
でも、戦いのパラダイムの中では、「あいつがいると俺は生き残れない」「あいつがいると、自分の生存が脅かされる」「だったら、やっちまえ」という感じになってしまう。それと同化するところを、どうしたら俯瞰して話せるか。客観視していけるのか。そこがすごく鍵だなと思っています。生存本能の働きを俯瞰して見て、解像度を上げて、区別できるようになっていく。それは、人間のリテラシーとして重要なんじゃないか、という仮説を持っています。
まりえ:
なるほど。ありがとうございます。そっか。自分の行動、言動、感情、判断が、何から来るものなのかを認識できるようになるといいんですね。
由佐:
まさに、まさに。行動の起点がどちらから生まれているかは、常にあります。生存本能君は、常にやっつけに行っています。だから、「大丈夫だよ。やっつけなくても」と言ってあげる。
まりえ:
そっか。やっつけなくても大丈夫なのか。
由佐:
本当に生命的な危機だったら、反射でそれを避けようとします。でも、今の生存本能が反応しているものって、別に生存の危機でも何でもないことが多いんです。
まりえ:
なるほど。わぁ!死んじゃう!というときも、ちょっとイライラするとか、もやっとするとかいうときも、生存本能ちゃんは全力で120パーセント、わたしを守ってくれちゃうんだ。
由佐:
そうです。だから、少し不快を感じてもいいよ、となると、半分ぐらい生存本能の仕事がなくなります。感じないようにするために、いろいろ手を打とうとしているから。「いやいや、不快でいいですよ」「大丈夫、大丈夫」となだめられると、結構静かにしています。本当に危険なときだけ、寝ていたのがむくっと起きるような感じになる。そのときだけ、「どうぞ」ぐらいで、本当はいいんだと思います。
でも今は、自分中が怖くて、この外界に対して挙動不審に、「ああでもない、こうでもない」としている。それはやっぱり、状態としてはちょっとおかしいんですよ。多分。
まりえ:
なんか、すごく楽園のような世界を目指していた感じがします。みんながいつもニコニコしていて、みんながいつも心地よくて快適で、みたいな世界で生きていきたいなと、独身時代は多分思っていました。自分の中では、それをそこそこ実現してきたんじゃないかと思っています。旦那さんと二人のときは、それが全然実現できているんです。でも、第三者が発生すると、そうじゃないことが起こってくる。「ムッ!」とした顔をしたり、「えっ?」という顔をしたりする人が割と現れてきて、それがすごくわたしの中で抵抗感だったんだな、というのが今分かりました。
由佐:
ウェルビーイングの定義は、快適だからウェルビーイング、ということではないとわたしは思っています。この「well」の「well」は、すべてを体験できること。それをしてもいい。あるがまま、何でも感じられる。すべてが許されている。それが「well」だと思うんですよね。
前野:
快適の方で使う人は多いですね。日本でも世界でも。
由佐:
生存本能にとって都合がいいことが、wellですよね、みたいな感じになっています。
前野:
目の前の問題解決ですよね。
由佐:
そうですよね。でも、本当の人生のwellは、葛藤があったり、苦しみがあったり、悲しみがあったりすることも含んでいます。生存的には避けたいものによって、人間はすごく成長していく、進化していくわけです。本当のwellは、そのすべてが人間の命に必要なこととして起きているよね、という理解から、それを感じて、そこから学んでいけることがwellなんじゃないかなと思います。
前野:
確かに。生存本能ちゃんって言っていたものは、仏教で言うと「煩悩」ってやつだなと思うんですね。煩悩があることで、「自分は守っているんです」「いやいや、僕はこのために、お金のために働いていますから」みたいになる。それを全部なくしましょう、というのが仏教ですけど。
由佐:
そこを克服しようとすると、また抵抗になってしまうとわたしは思っています。煩悩と戦うのもやめる。それを本当に承認して、認めて、それがどれだけ自分の命を守ろうとして、必死にやってくれているのか。そこを愛でたらいいなと、すごく思っているんです。
まりえ:
なるほど。ちょっと逆なんですね。前野先生がおっしゃった、禅の世界で「煩悩をなくす」というところから、「煩悩ちゃん、あってオッケーよ」「そういう煩悩ちゃんで守ってくれたのね」「オッケー、オッケー」という感じになる。
前野:
あってオッケーと言った瞬間に、煩悩は「あ、もう役目が終わった」と。
由佐:
おとなしくしてくれる。
まりえ:
すごく分かりやすい。なるほど、そういうことか。「あってオッケー」とした瞬間になくなっていく。でも、「ないように、ないように」とずっと修行して、「なんとかなくしたいんだよ」とやっていたら、ずっとあり続ける。むしろ大きくなっていくんだ。
由佐:
抵抗し続けると、抵抗がどんどん強くなるんです。押せば押すほど、抵抗も強くなる、というふうになります。やっぱり男性性は、克服型なんですよね。なくそうとして、克服していこうとする。力をかけて、超えていこうとする動きを取る。でもわたしは、時代的に、女性性のアプローチの方が理にかなっているんじゃないかなと思っています。抵抗するのをやめて、受け入れる。「あるよね」と、そのある状態、ビーイングで共存していけたら、それがウェルビーイングなんじゃないの、というアプローチの方が、なんとなく自分にはしっくり来ています。
前野:
日本って「和」の国ですよね。平和の「和」ですけど、元々は人偏にゆだねる「倭」と書いて、これは、なよなよして女性的で弱いこと、という意味なんです。でも、これってすごくかっこいい名前で。そんなに戦って勝つぞというのではなく、委ねていくと、本当の世界が出てきますよ、ということを、実は知っていた民族なんじゃないか。中国人から見ると、「なんだ、この弱々しい民族は」と見えたらしいんです。だから、欧米の真似をしていないで、男ももっと弱いんだよね、みたいな。
由佐:
そうです。本当に男性の女性性は、すごく大事な時代だと思いますね。男の人が戦うのをやめてくれるだけで、全然システムが変わっていくと思う。
前野:
本当ですよね。分かった。日本人男性は、本当は戦いたくなくて弱いのに、欧米の真似をして、「24時間戦うぞ」とか言って、すごい男がみんな「価値なし」になっていた。
由佐:
だから、本当に男性は女性をサポートしていく。男性の女性性で、これから世の中を変えていく時代だと思います。女性は逆に、ちゃんとパワーを使って前に出ていく力が必要だと思うので、そこも結構変わっていくんじゃないかな、という感じがしますよね。
前野:
そうですね。確かに。今日も、一つ学びが深まった感じがしますね。(続く)
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(文字起こし・ここまで)
この続きはまた明日に!(^^)/


