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ザ・メンタルモデルについて(その30)「原生的疎外と純粋疎外」

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ザ・メンタルモデルについて(その30)「原生的疎外と純粋疎外」

ザ・メンタルモデルについて(その30)「原生的疎外と純粋疎外」

2026/07/15

6/16からこの寺子屋塾ブログでは、
7/20(月・祝)に予定している
『レゾナント・コミュニケーション』読書会

の事前準備を兼ねて、

著者のおひとり、由佐美加子さんが発見された

〝ザ・メンタルモデル〟について書いています。

 

昨日までの投稿記事に未読分がある方は

まず次から先にどうぞ!
ザ・メンタルモデルについて(その1)「はたあそ(第1部)」

ザ・メンタルモデルについて(その2)「はたあそ(第2部)」
ザ・メンタルモデルについて(その3)「TEDx Talksプレゼン動画」

ザ・メンタルモデルについて(その4)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?①

ザ・メンタルモデルについて(その5)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?②

ザ・メンタルモデルについて(その6)ドラマ『逃げ恥』の登場人物はどれ?③

ザ・メンタルモデルについて(その7)『学習する組織』と『U理論』

ザ・メンタルモデルについて(その8)「〝痛み〟とどう向き合うか」

ザ・メンタルモデルについて(その9)「〝源(みなもと)〟とは何か?①」

ザ・メンタルモデルについて(その10)「〝源(みなもと)〟とは何か?②」

ザ・メンタルモデルについて(その11)「〝源(みなもと)〟とは何か?③」

ザ・メンタルモデルについて(その12)「〝源(みなもと)〟とは何か?④」

ザ・メンタルモデルについて(その13)「〝源(みなもと)〟とは何か?⑤」

ザ・メンタルモデルについて(その14)「吉本隆明『共同幻想論』に重ね合わせてみて」

ザ・メンタルモデルについて(その15)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり①」

ザ・メンタルモデルについて(その16)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり②」

ザ・メンタルモデルについて(その17)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり③」

ザ・メンタルモデルについて(その18)「自分の内面を観ることと〝経営〟のつながり④」

ザ・メンタルモデルについて(その19)「ライフタペストリーとプロセスデザイン」

ザ・メンタルモデルについて(その20)「ライフタペストリーと親鸞上人」

ザ・メンタルモデルについて(その21)「価値なしモデルと愛なしモデル」

ザ・メンタルモデルについて(その22)「欠陥欠損モデルとひとりぼっちモデル」

ザ・メンタルモデルについて(その23)「実存的変容とのつながり①」

ザ・メンタルモデルについて(その24)「実存的変容とのつながり②」

ザ・メンタルモデルについて(その25)「実存的変容とのつながり③」

ザ・メンタルモデルについて(その26)「動物脳と人間脳①」

ザ・メンタルモデルについて(その27)「動物脳と人間脳②」

ザ・メンタルモデルについて(その28)「動物脳と人間脳③」

ザ・メンタルモデルについて(その29)「脳と心の関係について」

 

この連載記事も回を重ね30回めとなりました。

 

(その26)の記事から書いているテーマは、

その人の生存本能と、その人自身を

どう区別するかということです。

 

そこから、なぜ「動物脳」と「人間脳」という

「分離」を産み出してしまったのか?

という問いを引き出して、

松岡正剛さんの自己編集についてのレクチャーを

ヒントにしながら3回にわたって考察し、

また、昨日投稿した(その29)の記事は、

「脳と心のつながり」についてコンピュータに準え、

ハードウェアとソフトウェアという観点から

考察してみました。

 

コンピュータの場合、ハードウェアだけあっても、

ソフトウェアだけあっても

コンピュータの役割を果たしません。

 

両者が揃ってはじめて機能するわけですから、

ハードウェアとソフトウェアは、

一つの機能を別の側面から捉えた表現

言うことが出来るでしょう。

 

認知心理学者であり機能脳科学者でもある

苫米地英人さんは、

脳と心の両方を研究されてこられたからか、

心は脳と別個に存在する実体ではなく、

脳というハードウェアにおける

「情報(内部表現)」そのものが心である

と言われています。

 

それで今日は、昨日の最後に予告したように、

動物の心と人間の心は

どう違うのかを考察する目的で、

吉本隆明さんが『心的現象論』で提唱された

「原生的疎外と純粋疎外」がメインテーマです。

 

以前こちらの記事で紹介した

臨床心理士・宇田亮一さんが2011年に書かれた

『吉本隆明「心的現象論」の読み方』の新版より

ヒトの心とネコの心の違いについて

説明されている箇所を引用して紹介しました

 

(引用ここから)
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本章では、まず吉本さんが「心をどうとらえたか」を述べたいと思います。心の枠組み、構造といった吉本さんの基本的な考え方を説明し、次章以降で吉本さんの考え方が私たちの暮らしの中で、どのように役に立つのかを述べていきます。吉本さんの考え方を把握するには、吉本さん独自の用語を理解する必要があります。吉本さんの用語は一見とっつきにくく難解にみえますが、中身はとてもシンプルです。

 

⑴〝ヒトの心〟と〝ネコの心〟の違い 

〝ヒトの心〟と〝ネコの心〟とはたぶん違う、このことに誰も異論はないはずです。しかし、どこがどう違うのかということになると、たちまち難しい話になります。吉本さんは、この問題を空間、時間、原生的疎外、純粋疎外という4つの用語を使って説明しています。

 

今、ネコがネズミを追いかけているとします。この時、ネコの〝心の動き〟をどうとらえればよいのでしょうか?

吉本さんはこう考えます。ネコの心の動き〟は、2つのプロセスに分けて考えればよいと。まず、最初のプロセスは、〝ネズミの像〟を刺激として受け入れるプロセスで、もう1つのプロセスは、受け入れた〝ネズミの像〟を了解(理解)するプロセスであると。

 

吉本さんは、最初の〝ネズミの像〟を受け入れるプロセスを「空間化(関係づけるプロセス)」という言葉で説明し、受け入れた〝ネズミの像〟を〈ネズミだ!〉とわかるプロセスを「時間化(了解するプロセス)」という言葉で説明します。吉本さんの用いる空間化(関係づけ)とは〝刺激を受け入れるプロセス〟のことであり、時間化(了解)とは〝了解する(わかる)プロセス〟のことだと考えてください。

 

神経生理学的にいうと、ネコの目(視覚)がネズミをターゲットとしてとらえてから〝ネズミの像〟がネコの目の網膜に映し出されるところまでが「空間化(関係づけ)」、刺激受け入れのプロセスであり、ネコの目の網膜上に映し出された〝ネズミの像〟が視神経を通じて脳の視覚中枢に送られ、脳内で再構成されることによってネコが〈ネズミだ!〉とわかるところまでが「時間化(了解)」のプロセスということになります(図1)。

ここでは、視覚(ネコの目)を取り上げましたが、聴覚・触覚・味覚・嗅覚も視覚と同じように時間、空間で取り扱うことができます。ただし、それぞれの感覚には固有性があるため、吉本さんはこれらの違いを空間化度、時間化度という概念で取り扱うのですが、ここではそのことについては深入りしません。ここではとりあえず、吉本さんは〝心の動き〟を空間、時間でとらえるんだと理解しておいてください。

 

ネコとネズミの話に戻ります。ネコがネズミを追いかける時、当然のことながらネズミそのものが存在しなければ、ネコはネズミを対象としてとらえることはできません。ネズミが存在することが、ネコの〝心の動き〟の前提となっています。さらにいえば、ネズミの存在はネコの感覚器官(おもに視覚)がとらえています。この感覚器官がネコに存在しなければ、ネコはネズミをターゲットとしてとらえることはできないのです。

 

つまり、ネコがネズミを〝ネズミ〟とわかるまでの〝心の動き〟は、ネズミの存在やネコの感覚器官(視覚)の存在を抜きにして考えることはできないのです。このことを一般化すれば、ネズミの存在は「外界」に置きかえられ、ネコの感覚器官はネコの「身体」に置きかえられます。そうすると、ネズミという「外界」とネコの「身体」が共に存在することで、〝ネコの心〟は動き始める、ということになります。

 

ただし、ネコの〝心の動き〟はネズミそのもの(外界)でもなければ、ネコの身体(感覚器官中)そのものでもありません。だとすればネコの〝心の動き〟は、いわば、ネズミという外界とネコの身体との〝はざま〟に存在している、としかいいようがなくなります。これが〝心〟というものの基本的な姿です。留意していただきたいのは、心は身体の中に存在しているのではなく、「身体」と「外界」とのはざまに存在しているということ、つまり、吉本さんは「心は脳の中に存在している」という考え方を一蹴しているのです。そして、吉本さんはこうした〝心〟の存在の仕方を「原生的疎外」とよんだのです。「原生的疎外」とは、動植物を含めた生き物一般の普遍的な〝心のあり方〟をさしていて、「生命体はただ生命体という理由で、原生的疎外の領域をもっている」のです。

 

「疎外」という言葉に慣れていない人は、「疎外」の意味を次のように考えてください。〝心の世界〟は「外界」と「身体」から生まれてきたといえるのに、〝心〟を外界そのもの、あるいは身体そのものに還元することはできない。このことを〝疎外〟というんだと。

 

吉本さんは「原生的疎外」について、次のように語っています。

 

この概念によって人間の心的な世界が、自己の〈身体〉の生理的な過程からおしだされた 位相と、現実的な環界からおしだされた位相との錯合としてあらわれること、そして、このふたつの位相は分離できないとしてもなお、混同すべきでない異質さをもっていること、などを明確にしめせるものとかんがえたのだけは確かである。 (『心的現象論序説』II  原生的疎外の概念を前景へおしだすために) 

 

「時間(了解)」、「空間(関係)」については、吉本さんは次のように説明します。 

 

生理体としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、時間性によって(時間化の度合によって)抽出することができ、現実的な環界との関係としての人間の存在から疎外されたものとしてみられる心的領域の構造は、空間性(空間化の度合)によって抽出することができる(後略) (『心的現象論序説』Ⅱ 2 心的な領域をどう記述するか) 

 

ここまでの内容を要約すれば、次のとおりになります。 

生き物一般(動物)の心〟の枠組みを「原生的疎外」とよぶ。「原生的疎外」は、構造としてみれば2つのプロセスから成り立っている。1つは外界の対象物を刺激としてとらえるプロセスであり、もう1つはとらえた対象物を了解するプロセスである。前者のプロセスを「空間化(関係づけ)」とよび、後者のプロセスを「時間化(了解)」とよぶ、ということです。 

 

このことを踏まえて、いよいよ〝ヒトの心〟は〝生き物一般の心〟とどこが違うのか、という本題に入ります。ここでいう〝ヒトの心〟とは、ヒトだけが持つ心のことだと考えてください。

 

吉本さんは〝ヒトの心〟の枠組みを〝生き物一般の心〟の枠組みと区別するために「原生的疎外」ではなく「純粋疎外」という言葉を用います。また、〝ヒトの心の動き〟を〝生き物一般の心の動き〟と区別するために「空間性(関係性)」、「時間性(了解性)」ではなく、「固有空間性」、「固有時間性」という言葉を用います。

 

このことを具体的に説明したいと思います。ネコとネズミの場面にもどります。ネコがネズミを追いかける時、ネコは、〈ネズミ〉を視ていますが、仮にこの場面でネコではなく、ヒトがネズミを視ているとすれば、ヒトは〈ネズミ〉を視ているのではなく、〈ネズミがいること〉を視ている、と吉本さんはいいます。この表現は難しいです。普通の言葉にしにくいのですが、ネコは〝外界にいるネズミ〟を視ているが、ヒトは〝心の中のネズミ〟を視ている、ということです。比喩的にいえば、ネコはネズミを写真〟のように視ているが、ヒトはネズミを絵画〟のように視ているのです。 

 

いいかえれば、ネコは〈ネズミ〉をネコの本能(刺激反射)で視ているのに対して、ヒトは〈ネズミ〉を多様な了解を重ねながら視ている、ということになります。ヒトがネズミを〈でかい!〉とか、〈気味が悪い〉と感じたとすれば、そのとらえ方がヒト独特のとらえ方だということになるのです。こういえば、きっと反論があるでしょう。ネコだって、その場のその瞬間に、〈ネズミを捕まえたい〉とか〈食べたい〉という了解の仕方をするだろう、と。一体どこが違うのか。同じじゃないか、と。もっともな話です。ヒトの〈でかい!〉〈気味が悪い〉という了解の仕方と、ネコの〈捕まえたい〉〈食べたい〉という了解の仕方とはよく似ています。

 

しかし、よく考えてみればネコの空腹時の了解の仕方は「〈ネズミ〉=〈捕まえたい〉〈食べたい〉」という図式の中にあり、正確にいえば了解というよりも反射の連鎖です。本能そのものによる反射連鎖です。いわば、〈ネズミ〉〈捕まえたい〉〈食べたい〉は、ネコにとっては同義語としてあらわれるのです。ヒトは、ある時はネズミを追っぱらったり、ある時はネズミを無視したり、ある時は殺そうとします。ここに「原生的疎外」と「純粋疎外」の違いが生じるのです。つまり、「原生的疎外」とは〝刺激―反射連鎖〟の心であり、「純粋疎外」とは多義的な意味づけ・価値づけ〟の心なのです。〝ネコに小判〟という言葉がありますが、小判はネコの刺激反射連鎖〟の心には何の意味も持ちません。〝多義的な意味づけ・価値づけ〟の心においてのみ意味をもつのです。

 

吉本さんは、このことを次のように語っています。 

動物は、対象が感官にやってきたときに、行動的に反射するだろう。このばあいには対象は、あたかもひと塊でやってきて瞬間的に識知される。この識知には、対象がかくかくのものであるという空間的な一義性が含まれているが、対象がかくかくのものであることがもたらす可能的な多義性は含まれていない。(『心的現象論本論』了解論43 了解と時間性論) 

 

吉本さんは、ここで動物の了解の仕方には〈対象がかくかくのものであるという空間的な一義性が含まれている〉と述べていますが、これは、先ほどの例でいえば〈ネズミを捕まえて食べたい〉ということになります。逆に〈対象がかくかくのものであることがもたらす可能的な多義性は含まれていない〉と述べている意味は、ヒトの了解の仕方のように、動物はいろんな意味づけや価値づけをすることはできないということになります。先ほどの例でいえば〈でかい!〉とか〈気味が悪い〉と感じたことが多義性に該当します。

 

ある人にとっての〈でかい!〉とか〈気味が悪い〉とかいう感じ方は、他のある人にとっては〈キャー!〉だったかもしれないし、他のある人にとっては〈こん畜生!〉だったかもしれないし、他のある人にとっては〈よっしゃ!〉だったかもしれない。そういう意味で、ヒトの 意味づけや価値づけは多義的です。それぞれの人独自の固有性を持った関係の仕方、了解の仕 方がありうるのです。吉本さんは、こうしたヒトの多義的な心の動きを生き物一般の心の動きと区別して「固有空間性」「固有時間性」とよんだのです。いいかえれば、ヒトと生き物一般の心の動き〟の違いは、空間性、時間性の違いだということができます。 

 

私たちは今、〝ヒトの心〟と〝生き物一般の心〟の違いについて、本質的なことに触れているはずですが、この違いをさらにメカニズムとして端的にえぐり出してみたいと思います。 

 

もう一度、〝ネズミ〟をめぐる〝ヒト〟と〝ネコ〟の意味づけ・価値づけの違いに焦点をあててみましょう。ネコのネズミに対する意味づけ・価値づけは単純であり、ヒトのネズミに対する意味づけ・価値づけは多義的であるということは、すでにみてきたとおりです。ここでは、ヒトのネズミに対する多義的な意味づけ・価値づけをメカニズムとしてとらえてみたいのです。少しややこしい話になりますが〈時間を空間に転化する〉という吉本さんの考え方を理解していただけたらと思います。〈ネズミがいる〉〈でかい!〉〈気味が悪い〉という了解の仕方を順に追いかけることで〈時間を空間に転化する〉という意味を説明します。 

 

まず最初に、ヒトはネズミをターゲットとしてとらえた(=空間化、関係づけ)のちに〈ネズミがいる〉ことを了解します(=時間化)。すると次の瞬間(あるいは同時に)、ヒトは〈ネズミがいる〉という子解そのものをターゲットとしてとらえて(=空間化、関係づけ)、〈ネズミがいる。でかい!〉という了解(=時間化)にいたります。さらにネズミがいる。〈でかい!〉という了解そのものをターゲットとしてとらえて(=空間化、関係づけ)、〈ネズミがいる。でかい!気味が悪い〉という了解(=時間化)にいたります。つまり、〝ヒトの心〟は「時間」(了解する、わかる)を「空間」(関係づける、対象化する)に転化することができるのです(図2)。 

いいかえれば、〝生き物一般の心(「原生的疎外」)〟は外界を空間化し時間化することで成立する世界ですが、〝ヒトの心(「純粋疎外」)〟は〝生き物一般の心(原生的疎外)〟そのものを空間化し時間化することで成立する世界なのです。 

 

『心的現象論序説』はいろいろな切り口で読むことができますが、〈時空転換〉という切り口 はその中でも鍵概念(キーコンセプト)になります。橋爪大三郎さん(社会学)は、このことを「『心的現象論』 は物理学になぞらえていえば、量子力学のようなものだ」と述べています。ただし、本書ではこの鍵概念についてもこれ以上は立ち入りません。 

 

「原生的疎外」「空間性」「時間性」と「純粋疎外」「固有空間性」「固有時間性」との違いを理解していただけたでしょうか。「純粋疎外」は、〝観念そのものの世界〟という意味ではフッサールの「現象学的還元」によく似てはいますが、実はまったく異なるものです。その違いは、「現象学的還元」が外界や身体をいったん排除するのに対して、「純粋疎外」は外界と身体 を排除しないことにあります。先ほどの例でいえば、「現象学的還元」では〝心の中のネズミ〟だけが実在することになりますが、「純粋疎外」では〝心の中のネズミ〟の前提となる〝ネズミ〟の存在も、それを視ているヒトの身体の存在も排除しないのです。ここに考え方の大きな違いがあります。現象学が〝心〟をそのまま取り出そうとするのに対して、「純粋疎外」は〝心〟を関係の中で取り出そうとするのです

 

いずれにしても〝生き物一般の心〟と〝ヒトの心〟とのメカニズムの違いは、たったこれだけの違いなのです。「なーんだ、そんなことか」と言われるかもしれません。しかし、この〈たったこれだけの違い〉は、とんでもない違いでもあるのです。この違いによって、ヒトの〝心〟は生き物一般の〝心〟そのものを「空間化」(関係づける、対象化する)しうるし、「時間化」(了解する、わかる)しうるのです。つまり、〝心で心をとらえる〟のです。これはたとえていえば「目で目を視る」ことにほかなりません。それは、まさに今、私たちがここで行おうとしていることになります。そう、今、私たちは「〝ヒトの心〟を使って、〝ヒトの心〟自体を視ようとしている」のです。

 

〝ヒトの心〟は、幸か不幸かこうした機能をもつがゆえに言語や歴史や宗教や文化を生み出すに至りました。また、〝フェティシズム〟や〝オタク〟といった意味づけ・価値づけをも生み出したのです。だから、ヒトは「本能の壊れた動物」ともいえますし、「無限の欲望を持った動物」ともいえます。また、一般の生き物にはない「〝心の不調〟を抱えこむ生き物」であり、時には「自殺さえも選択しうる生き物」なのです。その根源には〝たったこれだけの違い〟があるのです。 

 

しかし、そもそもなぜ「原生的疎外」と「純粋疎外」という抽象的でややこしい概念を吉本さんは組み立てる必要があったのでしょうか。それは、この2つの心の質的な違いを定義づけない限り、〝心の世界〟に関する議論がごちゃごちゃになってしまうからです。たとえば実験心理学、神経生理学、行動療法などが取り扱う心の世界〟は「原生的疎外」のことが多いのですが、思想、哲学、文学などが取り扱う〝心の世界〟は「純粋疎外」のことが多いのです。この両者の心の世界〟の質的な違いをはっきり定義づけない限り、議論がいつもすれ違ってしまうのです。吉本さんは、この混乱を解消するために「原生的疎外」と「純粋疎外」という概念を生み出した、ということができます。「原生的疎外」と「純粋疎外」との違いを吉本さんは次のように述べています。 

原生的疎外を心的現象が可能性をもちうる心的領域だとすれば、純粋疎外の心的な領域は、心的現象がそれ自体として存在するかのような領域であるということができる。(『心的現象論序説』III 2 原生的疎外と純粋疎外) 

 

わたしたちの純粋疎外の概念は原生的疎外の心的領域からの切断でもなければ、たんなる夾雑物の排除でもなく、いわばベクトル変容として想定されるということができる。(『心的現象論序説』III 2 原生的疎外と純粋疎外) 

 

これまで述べてきたことを要約すれば、ヒトの心の世界〟は「原生的疎外」と「純粋疎外」というふたつの世界からなる、いわば二階建ての構造だということができます。

 

宇田亮一『吉本隆明「心的現象論」の読み方』第1章より
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(引用ここまで)

 

 

※関連参考記事
朗報!5/26宇田亮一『吉本隆明「心的現象論」の読み方』新版発行!
人間の精神作用を表した『五蘊無常無我』

原生的疎外・・すべての生物がもつイノチの力について

内的観点と外的観点の両方を同時にもつこと(その10)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』前編

(その11)池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』後編

(その12)(その10)(その11)へ井上のコメント

(その13)吉本隆明・主要三部作の相互関係(〝心〟の捉え方)

(その14)吉家重夫「統一場心理学」の紹介

 

 

この続きはまた明日に!(^^)/

 

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