優秀な人は空気のように受け入れる(栗本慎一郎『縄文式頭脳革命』より)
2026/08/13
今日これから投稿しようとしている記事は、
厳密な意味で言えば
昨日書いた記事の続編ではありません。
ただ、わたしの書いているブログ記事は
一応カテゴリー分けはしてあっても、
書いている中味はすべてつながっているというか
ひとつのことを
別の角度から書いているだけとも言えるし、
続編か続編でないかというのは、
そんなに大した問題ではないんですが。
昨日は吉本さんの『フランシス子へ』を編集された
ライター・瀧晴巳さんが書かれた
「あとがきにかえて」を全文紹介しました。
そして、記事の終わり書いた言葉は次のとおり。
そもそも書かれた内容を受け取るというのは
どういうことなのか、
吉本さんの人となりというか、
2011年から2012年という時期に制作された
この本自体がもっている
〝自己表出性〟を感じながら読んでみて下さい。
『フランシス子へ』の本文はもちろんのこと
瀧さんが書かれた「あとがきにかえて」も
ものすごく好きなので、
正確に数えたことはありませんが、
たぶんわたし自身、この文章を
少なくとも50回以上は読んでいるでしょう。
そんなこともあって、
『フランシス子へ』や『ひとり 15歳の寺子屋』
という本をどんな想いで作られたのか
ということや
晩年を迎えた吉本さんの人となりなど、
わたしなりに受け取れているんじゃないかと
おもっていますが。
また、昨日の記事では、
文章を読んで書かれた内容がわかるということや
読む力を身につけることについて
過去に書いた記事も多数シェアしました。
そのような記事を書いてきた理由は
同じように文章を読解しようと
学んでいても、
読解力の差というか、
内容を受け取れる人と受け取れない人の違いは
どこで生じるんだろうってことでした。
もちろん、文章だけに限ったことではなく
動画コンテンツ、音楽、アート作品等々
広い意味で表現されたもの全般と
受け止めて貰って構いません。
瀧さんの文章中、
吉本さんのことを表現する言葉に
鍵なんかかけたことがない。
とことん受け入れる人。
受け入れて、それから考える。
とありました。
このあたりに違いがありそうだと睨んでいて、
だいぶ昔に読んだ栗本慎一郎さんの
『縄文式頭脳革命』(1988年刊)に
類する記述があったことをおもいだしました。
ということで、本日のメインコンテンツは
「優秀さとは何か?」について書かれた
栗本さんの文章です。
栗本慎一郎さんについては、
これまでにも沢山記事を書いてきているので、
「誰ですか?」という人は、
タグ〝栗本慎一郎〟の記事を読んでみて下さい。
あくまで仮説ですが、
内容の受け取り方の違いは、
「感じる力」がちゃんと働いているかどうかによって
生じるのではないかと。
感じる力が集まって〝認識〟が形成される
と言われている人もいるんですが、
受け取れない人、理解が深まらない人というのは
感じるよりも前に思考が動いて
それが正しいかどうかとか、善し悪しの判断が
働いてしまうのではないかと。
(引用ここから)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
優秀な人の発想法には、なにか共通する特徴があるのだろうか。それが、まさしく、あるのである。これはまったく間違いない。私は、長いあいだに、いつのまにか相手が優秀かどうかを瞬時に判断する方法を身につけた。はっきり言って、相手と話して3分以内に、確実にその判断ができるような気がする。それだけでなく、優秀さのランキングもいくつか、すぐに作ってしまうが、その秘訣はさしさわりがあって簡単には公開しないことにしよう。
が、しかし、ひとつはっきりしていることがある。まず第一に、自分の過去の力量や経歴その他が相手にどう思われているかについて自意識が強い人は駄目である。駄目と言うのは、もちろん、無能とか凡庸とかの意味である。この人たちは、もともと、普通のレベルから言えば頭の良い人が多くて、(きっと小学校の成績はよかった)可能性自体は高い。しかし、具体的には駄目な部類に入るのである。
可能性というのは、それ自体ではなんの役にも立たないものなのだ。役に立たないものなら、はじめからないほうがましだ。ちょっとした頭の回転の早さなんかは問題ではない。こちらがなにを言っても、彼のこだわりがあるところでなにか問題がひっかかると、全然、論理が素直に通らなくなる。こういうことだと、実際上の価値で考えると、凡庸というよりさらにもっと下だということになる。
結論がどうなろうと、すんなりと一応は受け止めてみるというのが、現実に優秀な人物のとりあえずの最低条件である。どんな結論でも一応は空気のように完全にすんなりと受け入れられるようになると、あなたはとりあえず、かなり優秀というレベルに入る。自分にとっていやだなとか、物理的に損だなとかの結論が出てくることもあるはずだが、それをもとりあえずは受け入れるのが大変重要である。
この点に関してだけは、人間は生まれたままでは素直になれない。自分にとって不利なものは拒否するのは当然である。相手の結論を認めると、自分の存在が脅かされると感じれば、それが正しくてもそれを排除したりそこから逃げたりするのは、生まれたままの人間としてはナチュラルなことではないか。
しかし、それは人間の社会は成り立っていかないこともまた当然である。ここに関してだけ、人には「努力」が必要なのだ。自分の存在というものを、すこし、ゆったりと考えてみることができることが、いろいろな意味で重要なのだ。もちろん、優秀になるためにも。
人間は、たんなる物理的なだけの存在ではない。それ以外の、私が「パンツ」と呼ぶような余分なものをもっている。しかし、すくなくとも、8割は動物的であるから、直接的な存在に対する危機にストレートに反応してしまうところをもっているのである。そういう動物的感覚と即物性を越えた人間性とのぶつかりあいがあって、疑問をもちながらここで言う動物性にこだわっているときに、いわゆる自意識というものは生じる。
だからこれは、その自意識が生じる構造を理解することによって乗り越えることができる。そして、空気のようになることができる。じつは、私たちの経済人類学が旧来の経済学の拒否にあう大きな問題点の基礎はこれである。
こんな経済人類学の結論を認めたら、俺たちの先生はこれからは誉められなくなってしまうから困る、などの狭い自意識が出るから認めないというようなことがつい起きるのだ。これは自意識が出てきているというだけでなく、論理レベルのすりかえでもあるのだが。
※栗本慎一郎『縄文式頭脳革命』第2章「優秀な人の発想法」優秀な人は、空気のように受け入れる より
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(引用ここまで)
※過去投稿関連記事
・栗本慎一郎「ユニークであろうとすればユニークにはなれない」(今日の名言・その76)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
●2021.9.1~2024.12.31記事タイトル一覧は
こちらの記事(旧ブログ)からどうぞ
2025年に投稿した365記事はすべて
今日の音楽シリーズで12/31に全リストを掲載
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
☆寺子屋塾に関連するイベントのご案
8/23(日) 10:30~ 易経入門講座〔第3期〕
14:00~ 易経準中級講座 第15回
9/6(日) 13:30~16:30
『レゾナント・コミュニケーション』読書会 #2

