そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その8・最終回)
2023/09/20
ウィトゲンシュタイン本2冊の紹介記事に端を発し
「そもそも〝わかる〟とはどういうことか」を
テーマに書き始めたこの記事も、
これで8回目になりました。
こうした連載記事については、
途中から読まれても
内容が伝わるよう努めて書いているつもりですが、
それでもこれまでのプロセスが見えないと、
主旨が伝わりにくい面があることは否めません。
よって、この記事の最後に過去記事、
関連記事のリンク集を付けておきますので、
未読記事のある方は、
それを可能な範囲で適宜アクセス頂いた上で
以下の文章をお読みください。
さて、冒頭記したことの繰り返しですが、
そもそもこのテーマで記事を書き始めた発端が、
古田徹也さんによるウィトゲンシュタイン本2冊を
紹介したことにありました。
ウィトゲンシュタインという人はまさに、
いまこうしてわたしが書いている
そもそも〝わかる〟とはどういうことか?
というようなことを
一生考え続けた人なので、
ウィトゲンシュタインとの出会いがなければ、
こんなふうに8回にもわたって
記事を書き続けることはなかったことでしょう。
でも、ウィトゲンシュタインの哲学全体を
論じる対象とするのであれば、
それこそ本1冊ぐらいの分量が必要になり、
1日で書けるようなblog記事の分量で
とてもすべて書き尽くせるものではありません。
よって、(その6)の記事で予告したように、
わたしがウィトゲンシュタインを
これまでどのようにわかろうとし、
自分の何がどう変化したのかについての
アウトラインのみと、
古田さんの本のどこがわかりやすいのかという
その2点を記して、長々書き連ねてきた
「そもそも〝わかる〟とはどういうことか」
についての記事を
締めくくろうとおもっています。
9/11の記事に紹介したとおり、
ウィトゲンシュタインについては
過去にこのblogにも関連する記事を
投稿しているので、
未読記事のある方はまずはそちらからお読み下さい。
・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』より(今日の名言・その29)
・ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」
・算数という教科は「算数語」という言語ゲーム
近内悠太さんも、8/17に投稿した記事で紹介した
「言語ゲームという言葉を使って、
たとえ話ができるようになったら、
言語ゲームを理解できたと言っても
いいんじゃないですか。」と話されてましたが、
とくに、算数の教科や学校の学習について書いた
3番目の記事などは、
わたしが長年にわたって
ウィトゲンシュタインの哲学に触れてこなければ
絶対に書けなかったでしょうから、
具体的にどのような変化があったのかということにも
つながる内容の記事と言ってよいでしょう。
また、次の記事はウィトゲンシュタインが
メインではありませんが、
途中でウィトゲンシュタインに触れています。
(「今日の名言・その7」)
・〝指月の法〟とことば(つぶやき考現学 No.28)
さて、このように、
ウィトゲンシュタインという人物に対して、
わたしなりのウィトゲンシュタイン観を
形づくってきたわけですが、
わたしがどのように
アプローチしてきたのかということですね。
これについては、昨日(その7)の記事で
少し触れたんですが、
もともと人間というのは、
何かをわかろうとしている生き物なので
まずは、その力を信頼して、
自分を委ねるようにすればいいわけです。
また、その力に自分自身を委ねきれない
理由のひとつは、
コントロール欲求が強すぎるからで、
論理的に納得できないと
前に進めないという
思考の呪縛に陥ってしまっていることを
まずは自覚する必要があるでしょう。
つまり、もともと持っている能力が
自然にはたらくのを
わざわざ自分でフタしたうえで、
一所懸命わかろうとしすぎているという、
ブレーキとアクセルを
同時に踏んでいるようなことなんですが。
そもそも、未知のことなんですから、
いまの自分でそれを「解釈」しようとすれば、
「わからなくなる」のは当然なのに、
「わからない」を理由に
わかろうとすること自体を止めてしまうのは、
愚の骨頂だとおもいませんか?
だから、虚心坦懐にというか、
わからないことをわからないまま触れ続けること、
「わからない」ままでいいので、
その対象を拒絶しない姿勢というか、
無理に、性急にわかろうとしなくていいので、
とにかく前に進もうとすることを
止めてしまわない姿勢が何より重要です。
昨日、(その7)の記事に書いたんですが、
大和信春さんの『心の自立』に出てくる
言葉をお借りすれば、
加考前の情報素材に対し、
原型のまま保持しながら受信する能力を培う
となります。
それから、7月に出た方条遼雨さんの
新刊書を紹介した次の記事
・甲野善紀 x 方条遼雨『身体は考える 創造性を育む松聲館スタイル』④
で触れた、リンゴのたとえをおもい出してください。
このリンゴがスーパーマーケットに並んでいれば、
「商品」という属性をもつことになり、
お家の食卓に置かれていれば、
「デザート」という属性をもち、
お家のなかでも仏壇の前にあれば、
「お供え」という風になりますね。
つまり、目の前にあるリンゴという物体自体、
誰が見てもリンゴであることには
変わりないのですが、
同じ1個のリンゴというコンテンツに対し
異なる意味づけが可能になるのは、
リンゴそのものに内在しているものではなく、
リンゴが置かれている場所や
どんな機能をもっているのかという
〝場の力〟〝背景〟〝文脈〟といった
いわゆるコンテクストが異なるからで、
異なるコンテクストの力によるわけです。
つまり、ウィトゲンシュタイン哲学という
コンテンツを理解しようとするのであれば、
ウィトゲンシュタインという人が
どういう時代に、どういう両親のもとに生まれ、
どういう人生を送ったのか、
また、『論理哲学論考』という本が、
どういう状況のなかで書かれたのかという
背景、コンテクストを知ろうとする姿勢が
何よりも肝要となるわけなんですが。
わかりやすい外部リンク記事を
2本紹介しておきます。
・一応突っ込んでおくと、「言語ゲーム」の用法が間違ってるよ。
・ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(松岡正剛の千夜千冊)
さいごに、古田徹也さんが書かれた
ウィトゲンシュタイン本2冊の
どこが従来本と違い
どこがわかりやすいかについて。
従来のウィトゲンシュタイン観というか、
過去の学説にとらわれない姿勢に貫かれていて
すこし手前味噌な言い方になってしまうのですが、
わたしがこの記事の前半部に書いてきた
①わからないまま触れ続けることを止めない
②コンテクストを踏まえコンテンツを読む
という2つの姿勢についても、
丁寧に実践しようとする姿勢の中で
紡ぎ出された言葉で書かれているように、
わたしには読めました。
ただ、これはあくまでわたし個人の見解で
正しいかどうかは
わたし自身にはわかりませんから、
ネットを検索してヒットした
書評記事のうち2本をシェアしておきます。
・ウィトゲンシュタインがまるで目の前で語り出したかのよう――【寄稿:池田 喬】古田徹也・著『はじめてのウィトゲンシュタイン』について
・古田徹也 『はじめてのウィトゲンシュタイン』 : 「像」に 囚われないこと
以上、長々書き連ねてきましたが、
わたしの書いたコトバは
あくまで呼び水にすぎないので、
あとは古田さんの本を手に取って読まれて
ウィトゲンシュタインの世界に
じかに触れてみてください。
【過去投稿記事と参考記事】
・9/24都内某所にOPENする「坂本図書」構想や新刊本のこと
・そもそも〝わかる〟とはどういうことか?(その7)
・「知る」とはどういうことか(「論語499章1日1章読解」より)
・改めて「書くこと」と「教えない教育」との関係について(その24・最終回)
・佐伯胖『「わかる」ということの意味』
・解るとはどういうことか(阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』より)
・天才とはバカであることを自覚している人(つぶやき考現学 No.55)
・自由に3つの意味あり(つぶやき考現学 No.43)
・「わかっているけどできない」ってどういうこと?(つぶやき考現学 No.104)
・起業のポイント・その2「やりっ放しにせず総括し記録を残す」
・甲野善紀 x 方条遼雨『身体は考える 創造性を育む松聲館スタイル』④