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學如不及、猶恐失之(『論語』泰伯第八の17 No.201)

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學如不及、猶恐失之(『論語』泰伯第八の17 No.201)

學如不及、猶恐失之(『論語』泰伯第八の17 No.201)

2024/05/10

今日も昨日投稿した記事に続いて

論語499章1日1章読解からです。

 

学問に向き合う基本姿勢について述べている

泰伯第八の17番(通し番号201)を。

 

 

(引用ここから)

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【泰伯・第八】201-8-17

[要旨(大意)]
孔子が学問に向き合う基本姿勢について述べた章。


[白文]
子曰、學如不及、猶恐失之。
 
[訓読文]
子曰ク、學ハ及バザルガ如クスルモ、猶ホ之ヲ失ハンヲ恐ル。
 
[カナ付き訓読文]
子(し)曰(いわ)ク、學(がく)ハ及(およ)バザルガ如(ごと)クスルモ、猶(な)ホ之(これ)ヲ失(うしな)ハンヲ恐(おそ)ル。
 
[ひらがな素読文]
しいわく、がくはおよばざるがごとくするも、なおこれをうしなわんことをおそる。
 

[口語訳文1(逐語訳)]

先生が言われた。「学問は追いつけない者を追いかけるようなもので、そのうえ学び終えたことを忘れてしまうのを恐れるものだ。」

 

[口語訳文2(従来訳)]

先師がいわれた。――
「学問は追いかけて逃がすまいとするような気持でやっても、なお取りにがすおそれがあるものだ。」(下村湖人『現代訳論語』)

 

[口語訳文3(井上の意訳)]

先生(孔子)が言われた。「学問はどんなに追いかけても追いつけないもので、それでもなお、学ぶ対象を失ってしまわないかという恐れがある。」

 

[語釈]

学:学ぶこと、学問、学習

及:手が届く、捉える、学び取る
如不及:どんなに追いかけても、追いつけないものであるかのような気持ちで励むようす
猶:それでもなお。ここでは「なお~のごとし」と読む再読文字ではない
失:見失う、取り逃がす
之:学問の目標

 
[井上のコメント]
この章もどういう文脈で誰に対して語られたのかが不明です。「学ぶことには終わりがないから、どんなに学んでもまだまだその先がある」ということなんですが、とにかく孔子という人は、探究心旺盛というか、学問が大好きで、死ぬまで学び続けた姿勢がよく伝わってくるようにおもいました。「目的を明確にする」姿勢は、ともすると、学ぶ範囲を限定し、いまの自分に見えていることだけしか学べないことにもなりかねないという話にもつながりますね。フランス文学の研究者で京都大学名誉教授・桑原武夫の見解が一番しっくりきたので、参考として記しておきます。
 
[参考]
「及」とは逃げていく者を追いかけて追いつくこと。勉強をするには、逃げる者をつかまえようとするときのように、一瞬の油断もなく努めなければならない。それでもまだつかまえきれないことを恐れる、学ぶものの態度はこうでなければならない、という意味であろう。
この場合の「学」とは「まねび」すなわち学習であって、真理の追究という意味での学問研究を指さない。人が逃れるもの、例えば泥棒を追いかけるときは、その対象が何ものであり、またそれは何を持っているかがはっきりしているはずである。走っているものなら何でも追いかける、というのは、子猫だけだ。ところが、本当の意味での学問研究とは一応の作業仮説はもつにしても、鬼が出るか蛇が出るか、結果を予測せずに、あるいは予測することが出来ぬままに、研究することでなければいけない。もっとも初心者がいきなり研究などというのは生意気なのであって、それまでに師について基礎的訓練を重ね、学問の道に習熟しなければならない。礼楽を重視する孔子学団においては、学習が大切とされたのは当然で、この章は孔子がおそらく若い弟子たちにさとした言葉なのであろう。そうでなければ、孔子は教条主義者に利用されることになるだろう。わたしは、しかし、「及」の字にこだわりすぎたのかもしれない。孔子は歳月が人を待たず、一瞬の光陰も軽んじられてはならない、ということを、走る人のイメージで強調しただけかもしれない。

 

桑原武夫『論語』より

 

 

●論語499章1日1章読解 過去の投稿記事一覧

論語499章1日1章解読ふりかえり(その1)

論語499章1日1章解読ふりかえり(その2)

論語499章1日1章解読ふりかえり(その3)

 

【学而・第一】008-1-08 君子不重則不威、學則不固

【為政・第二】020-2-04 吾十有五而志乎學、三十而立、四十而不惑

【為政・第二】031-2-15 學而不思則罔、思而不學則殆

【為政・第二】032-2-16 攻乎異端、斯害也已矣

【為政・第二】033-2-17 由、誨女知之乎、知之爲知之

【八佾・第三】063-3-23 子語魯大師樂曰、樂其可知已、始作翕如也

【里仁・第四】073-4-07 人之過也、各於其黨、觀過斯知仁矣

【里仁・第四】076-4-19 君子之於天下也、無適也、無莫也、義之與比

【里仁・第四】077-4-11 君子懐德、小人懷土、君子懷刑、小人懐惠

【里仁・第四】084-4-18 事父母幾諌、見志不從、又敬不違、勞而不怨

【公冶長・第五】096-5-4 或曰、雍也、仁而不佞

【雍也・第六】129-6-10 冉求曰、非不説子之道、力不足也

【雍也・第六】134-6-15 誰能出不由戸、何莫由斯道也 

【雍也・第六】136-6-17 人之生也直、罔之生也、幸而免
【雍也・第六】138-6-19 中人以上、可以語上也、中人以下、不可以語上也
【雍也・第六】146-6-27 中庸之爲德也

【雍也・第六】147-6-28 子貢曰、如能博施於民、而能済濟衆、何如

【述而・第七】148-7-1 述而不作、信而好古、竊比於我老彭

【述而・第七】153-7-6 子曰、志於道、拠於德

【述而・第七】155-7-8 不憤不啓、不悱不發、擧一偶

【述而・第七】163-7-16 如我數年、五十以學、易可以無大過矣

【述而・第七】170-7-23 二三子以我爲隠乎、吾無隠乎爾

【子罕・第九】215-9-10 顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅、瞻之在前

【子罕・第九】228-9-23 法語之言、能無從乎、改之爲貴

【子罕・第九】234&235-9-29&30 可與共學、未可與適道、可與適道

【顔淵・第十二】279-12-1 顔淵問仁、子曰、克己復禮爲仁

【子路・第十三】323-13-21 不得中行而與之、必也狂狷乎

【子路・第十三】324-13-22 南人有言、曰、人而無恆、不可以作巫醫

【子路・第十三】325-13-23 君子和而不同、小人同而不和

【子路・第十三】328-13-26 君子泰而不驕、小人驕而不泰

【憲問・第十四】337-14-5 有德者必有言、有言者不必有德

【憲問第十四】368-14-36 或曰、以徳報怨、何如

【衛霊公・第十五】381-15-2 賜也、女以予爲多學而識之者與

【衛霊公・第十五】384-15-5 子張問行、子曰、言忠信、行篤敬、雖蠻貊之邦行矣

【衛霊公・第十五】394-15-15 不曰如之何如之何者

【衛霊公・第十五】396-15-17 君子義以爲質、禮以行之、孫以出之、信以成之

【陽貨・第十七】443-17-9 小子、何莫學夫詩、詩可以興

【陽貨・第十七】447-17-13 郷原德之賊也

【季氏・第十六】429-16-9 生而知之者、上也、學而知之者、次也

【陽貨・第十七】459-17-25 唯女子與小人、爲難養也

【堯曰・第二十】499-20-3 不知命、無以爲君子也、不知禮

 

【論語読解の参考記事】

書経・商書「生きる方向軸が一つに定まっていれば吉」(「今日の名言・その7」)
顔回をめぐる問いと諸星大二郎『孔子暗黒伝』のこと
安田登『役に立つ古典』〜古典から何を学ぶか〜
情報洪水の時代をどう生きるか(その6)

問題解決ツールのコレクターになっていませんか?(つぶやき考現学 No.59)

 

 

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